第12話 星に願いを〈後編〉

 彪鬼の言葉に頭が真っ白になった。

 黙ってないで何か言わなくちゃ、と思うけれど、考えてもいなかった真実を目の前に、うまく言葉が見つからない。

 こちらをじっと見ている彪鬼のあの瞳に、自分の姿は映っていないというのだろうか。

 目の前には真っ暗な世界がある。その中にひとりでいる、そんな感覚なのだろうか。

「……初めからって……生まれた時、から?」

「ああ」

 彪鬼は手を離してあぐらをかくと、うつむいた。前髪がふわりと落ちてきて、またいつもの彪鬼の顔に戻ってしまった。

「瞳だけじゃない。初めは音がある事を知らなかったんだ。だから、言葉もずいぶんしてからわかるようになった」

「何も聞こえなかったってこと……?」

「そうだな」

 彪鬼が少しぶっきらぼうな話し方なのは、そういう理由が関係していたのだろうか。でもそんな事よりもはるかに想像もできない苦労や孤独をずっと感じてきたのかもしれない。

 栞那の目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。「栞那?なぜ、泣く?」

「ごめんなさい……」

 栞那は次々に溢れてくる涙を、手で何度も拭った。

「栞那が気にする事は何もない。俺は人とは違う。不便さもない。ただ栞那に伝えておきたかっただけなんだ」

「でも、私、彪鬼の気持ち、何も考えてなかったんだなって」

「そんな事はない」

「ふざけ半分で見たりして」

「いいんだ。栞那が見てくれたから、こうして

形を、成したんだ」

「形……?」

 涙でゆがんだ景色の中で、彪鬼はまた髪をかきあげて空を見上げた。

 栞那は最後の涙を強く拭う。

「いつしか聞こえるようになったが、俺はそれを望んではいなかった」

「……聞こえない方が良かった?」

「ああ。その時はそう考えていた。でもこうして、栞那と話せるようになって、良かったと、今は、そう思う」

「私もっ、彪鬼と話せて嬉しいよ」

 彪鬼は、穏やかに微笑んだ。

「俺はただ受け入れてきたつもりだった。こうした体で、与えられた運命で存在するものこそが、たったひとつの自分自身だからだ。そうでないものを望む事は、それはもう自分ではなくなる」

「だから俺は何も望んでいなかったし、何も願わなかった。そんな感情すらなかった。でもそれは何も受け入れていない事と同じなのだと、ようやくわかった。栞那が気づかせてくれたんだ」

「私が……?私なんかなんにも彪鬼の役に立ってないよ」

「どうしてそう思うんだ」

「だって……」

「……俺の言葉が足りないからだな」

「そんなことないよ!」

「すまない栞那。泣かせるつもりはなかった」

「謝らないで。私こそ泣いたりしてごめん」

「俺を思って泣いてくれたのだろう?」

「そんな綺麗なものなんかじゃない。自分の弱さに浸っていただけ。いつも、わがままで、弱くて、ごめんね。でも、もう大丈夫だから」

「俺は、栞那がわがままで、弱いと思った事はない」

「そんなこと……」

「いつも会うたび笑ったり、怒ったり、泣いたり。それがありのままの栞那だろう?俺は、そんな栞那しか、知らない」

「それに、人はいつも自分や他人に足りないものを探し、比べ、それを埋める事を正しいと信じている。でも、欠けているものなんて、本当は何ひとつないんだ」

 そう言ってまた彪鬼は静かに微笑んだ。


 いつのまにか涼しくなった夜風が、栞那の頬を乾かすように優しく撫でてゆく。

 今日までどれだけ救われてきたのだろう。

 人だから、人じゃないから、そんな事は関係ない。

 同じように感情があるのなら、同じように悩んだり苦しんだり、同じようにわかってあげられる。そこに違いなど存在しない。

 ありのままの気持ちを、こんなにも素直に話してくれる彪鬼が、彪鬼の存在が、栞那の中でいっぱいになって、溢れていっそ解き放してしまいたくなるような衝動を呼び起こす。

「だったら」

 栞那は、バッグの中から袋を取り出した。

 肩まで伸びた髪をまとめようと、ゆかりが選んでくれたお揃いのヘアゴムだ。

「彪鬼も、ありのままの彪鬼でいてほしい」

 栞那は、彪鬼に近づくと、両手で長い前髪をそっと集めて、ゴムでひとつに結び上げた。小さな白い額がのぞき、一瞬驚いたように開いた2色の瞳が、照れたように伏せた。

「わっ!」

 彪鬼はいきなり栞那を抱えて飛んだ。一瞬で病院のどこかのベランダに降り立ち、彪鬼は真っ暗な窓ガラスに映る自分の姿を確認した。その様子を眺めながら、栞那は自分の鼓動が早くなるのを感じる。

「あの、その方が、かっこいい……と思う」

「栞那が、いいと言うなら……」

 窓を見ていた顔が振り向いて、両目で見つめられたとたん、体中が熱くなって、今度は栞那が目をそらした。

 するとパタンとドアが開いた。

「誰かいるの?」

 やばい!と、思った瞬間、彪鬼は栞那の腕を掴むと勢いよく飛んだ。声も出せずに彪鬼に思いきりしがみつく。気がつくと彪鬼の背中に乗り、あっという間に屋上よりもはるか上空に浮かんでいた。

「わ!ちょっ、やだ!なんでおんぶなのー!」

「仕方ないだろう。急いでいたし、この方が運びやすい」

「やだ、なんか恥ずかしいよー」

「誰も見ていない」

「そうじゃなくて〜!」

 彪鬼の肩は着物の上からでもわかるほどごつごつとしていて硬かった。けれど布がふわりと空気を含んで、まるで雲の上にいるような心地良さだった。

 彪鬼の纏う爽やかな香りに包まれ、青い髪がそっと手に触れる。急に舞い上がったせいか、体がふわふわと揺れているみたいだ。

「あ!栞那、星が流れたぞ」

「そうだった!」

 すっかり流星群の事を忘れていたけれど、見上げるといつのまにか空には沢山の星が瞬いていた。

「あっ!」

 黒い空をナイフで切り裂くような一筋の白い光は、一瞬で消えていった。願いを言う時間などとてもないのに、誰がそんな事を言い始めたのだろう。

 もしかしたら、そんな一瞬の存在に気づきなさいというメッセージなのかもしれない、と栞那は思った。

 そうでなければきっと探そうともしないし、忘れてしまうかもしれないから。そうやって願ったり祈ったりする事で救われるような心を、人々がずっと持ち続けていけるように。

 それこそが、願いそのものだったのではないだろうか。

「綺麗だったぁ……」

「そうだな」

「……ね、ところで重くない?」

「いや、重さはあまり感じない」

「え、いつもそうだった?」

「ああ」

 なんだ……。ちょっと最近気になっていて甘い物を控えてたのにな、と栞那は思う。

「あ!また!彪鬼も見えた?」

「見えた」

「すごい〜嬉しい!」

「そうか」

 流れ星の正体は、もとは小さな砂や石のようなものなのだと知った。

 そんな小さなひと粒が、あんなにも輝いて、この空を、宇宙を飛んでいる。ほんの一瞬の輝きがこんなにも人々を魅了させる。

 世界は、まだ知らない事ばかり。

 目を向けていなければ、目を背けていたら、存在すら気づかない。

 綺麗で儚い景色。

 不思議で愛おしい世界。


「星が近く見える!」

 栞那が興奮して手を伸ばすと、体がぐらっと後ろに倒れた。

『あ‼︎』

 2人同時に叫んで慌てて体制を整える。

「あー、びっくりしたー。落ちるかと思った……」

「そんなに暴れるからだろう?」

「……ふふっ」

「ははっ」

「え⁈ちょっと!振り向いて!」

「いや、無理だ」

「いま、笑ったでしょー?」

「だから暴れるな。また落ちそうになるぞ」

「いいからぁ!こっち向いて」

「ははは!」

「もーっ!」


 ほんの一瞬だけ振り向いて見えた彪鬼の笑顔は、どんな光よりも輝いて眩しかった。

 体中の力が抜けてゆく。再び襲ってくる衝動に、もう耐えられないかもしれない。

 栞那は、彪鬼の背中にゆっくりと体を預けて柔らかい髪にそっと頬を重ねた。すると、栞那の脚を支えていた彪鬼の腕に、きゅっと力が入るのを感じた。

「……どうした?疲れたのか?」

「ううん、大丈夫」

「もう、星はいいのか?」

「……うん」

「じゃあ帰るぞ」

「……うん」


 本当は、帰りたくない。もっとずっと彪鬼と一緒にいられたらいいのに。

 望むという事は、願うという事は、それを知ってしまったから。

 安らぎも、温かさも、強さも、優しさも、楽しさも。全部彪鬼が教えてくれた。そして、溢れるこの衝動は、新しく芽生えた感情。

 欠けていたわけでも、足りなかったわけでもない。知らなかっただけ。

 ねえ、彪鬼にとって私はどんな存在なの?

 何か願いを聞かせて欲しい。


 願い事は、ただひとつ。

 彪鬼。


 彪鬼──。

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