第11話 星に願いを(前編)

「栞那ちゃん、もう帰るの?」

 ふいに放ったゆかりの一言に、栞那は持っていたカップを落としそうになる。

「え、あ、ううん。まだ大丈夫だよ。もう少ししたら、かな……」

「そっか」

「ごめんね」

 心の中を見透かされたような気がして、栞那はストローの先を口に含んで視線をおとす。

 夕方のファストフード店は、学生達の溜まり場だ。にぎやかで落ち着かないのは仕方ないけれど、それが嫌なわけも居心地が悪いわけでもない。時計を探して店内を見渡しただけだったのに、その瞬間をゆかりは見逃さなかった。

 相変わらずのゆかりの洞察力に関心しながらも、栞那は恐縮しながらまた言い訳を考える。

「今日、おばあちゃんが、夜ご飯作りに来てくれるって言ってたんだ」

「えーいいなぁ。栞那ちゃんには優しいおばあちゃんがいて」

「うん……」

 優しいおばあちゃんがいるのは本当だ。

 栞那はカップの底にたまった氷で薄くなったメロンソーダを、何度も飲み終えた。

 

 休日や放課後、ゆかりに誘われ、時々2人で外出するようになった。

 初めは、席が近いから話しかけてくれているだけだと思っていた。けれど夏休みに入った今では、映画やショッピングに行ったり、頻繁に連絡を取り合う関係になるとは、あの頃は想像もしていなかった。

 近くで見ていてわかった事は、ゆかりは誰とでも平等に接するし、悪口は決して言わない。そんな所が好感を持てたし、栞那の警戒心を次第に解いていった。

 そして学校の外では、ゆかりはまた違った一面を見せた。いろんなファストフード店のメニューをよく知っていたり、入りにくそうなお店も、洋服の試着も躊躇しない。わりとお金を持っているのか、気に入ったものはだいたい即決する。

 潔いというか、漢気があるというか、何かをやる前に深く考えてしまう栞那にとって、ゆかりの存在はとても刺激的だった。ただ、そんな時間が増えていくにつれ、うわべだけの付き合いは難しくなっていく事に気づく。

 行ってもいない塾を辞めたとか、今日みたいに早く帰りたい日は、祖母や母親のありもしない予定を理由にした。その場しのぎの嘘は上手に言えてきたけれど、近くなればなるほど嘘に嘘を重ねなければならなくなる状況に、自業自得であれ、さすがに罪悪感が湧いてくる。

 感の良いゆかりなら本当は気づいているのではないだろうかと思うと、素直に楽しいと思えず、とはいえ誘いを断る嘘もつきづらい。それなのに今は早く帰って彪鬼に会いたいなんて、なんて自分勝手な奴なのだろうと、どんどん自分で自分が嫌になってしまう。


「じゃあ、栞那ちゃん、今日は付き合ってくれてありがとうね」

「ううん、私も楽しかったよ」

「また誘うね」

「うん」

 ゆかりの嘘のない笑顔に、上手く笑い返せないまま、栞那は手を張った。


「ただいまー!」

 部屋のドアを開けると、ベランダに彪鬼の後ろ姿が見えた。栞那に気づいてゆっくりと振り返る。栞那は急いで窓を開けると、ベランダに出て彪鬼の側に近づいた。

「おかえり」

 彪鬼は穏やかな目で微笑んでくれた。

「はぁ、ごめんね、待っててくれたんだね、良かったあ急いで帰ってきて」

「そんなに急がなくてもまた来る」

「でも、今日来てくれるような気がしたから」

「そうか?」

「だって今日明日、流星群がピークなんだって。そういうのも"ゆがみ"と関係ありそうって思って」

「りゅうせいぐんがぴーく?」

 彪鬼がカタコトになって面白い。

「ははっ、そう、ピークって沢山ってこと。流れ星がいっぱい見えるんだって。すごくない?」

「ああ……」

「えー反応薄い……。もしかして興味ない?」

「俺はよく見ているからな」

「そうなの?!私なんか1度もないよ〜」

 手すりに手をかけて見上げると、まだ明るい空には星はひとつも見えなかった。

「見に行くか?」

「いいの?!」

「ああ」

「待ってて!靴持ってくる!」

 栞那は荷物を整え、急いで玄関から靴を持ってくるとベランダですばやく履く。その勢いのまま彪鬼に近づくと、彪鬼は少し後退りをした。

「え」と思って栞那が彪鬼を見あげると、彪鬼は眉をひそめて目をそらした。

「……じゃ、行くぞ」

「あ、うん……」

 彪鬼の腕に抱えられながら、その一瞬の違和感に、栞那は気づかないふりをした。


 この日、彪鬼が連れて行ってくれたのは、小高い丘の上に立つ大きな病院の屋上だった。街から少し離れていて周りに高い建物がないので確かに星を見るのには最高の場所だ。

 栞那は急いで引っ張り出してきたレジャーシートを平らな所に敷いて座ると、彪鬼も隣に座り、いきなりごろん、と腕を頭の下に置いて寝っ転がった。

「夜のピクニックみたい」

 そう言いながら、こんな風に太陽の下で彪鬼とピクニックできたらいいのに、と栞那は思う。叶うはずもないとわかっていながら、願いを浮かべてしまうのはなぜなのだろう。

 栞那も彪鬼の隣に横になって、2人は並んで寝転びながら空を眺めた。硬いコンクリートの温度が非日常感を増して伝わってくる。

「そうだ、知ってる?流れ星に願いをかけると叶うかもしれないんだって」

「またまじないか?」

「ふふっ、そうかも。人っておまじないが好きなのかも」

「そのようだな」

「彪鬼は?」

「ん?」

「彪鬼の願いって何?」

「俺の願い?」

「うん」

 彪鬼はしばらく黙って、

「考えた事もなかった」

と、小さく言った。


 静かな沈黙が続く。

 まだ少し明るい空に星はほとんど見えない。

薄い雲がゆっくりと流れてゆく。

 こうだったらいいのに、こうなれたら。そんな、人なら当たり前に湧いてくるような願いや祈りを、彪鬼は感じた事がないのだろうか。

 人は欲深いからなのかもしれないな、と栞那は思う。でも願う事は悪いものばかりではないだろう。誰かや何かを想って祈る事だってある。それすらもないとしたら、それはなんだか少し寂しい。

 彪鬼が思い付いた最初の願いをいつか聞けたらいいのに。そう考えながら、また願ってしまったなと栞那は思った。


「……あのね、今日は前話したゆかりちゃんって子と出かけてたんだ」

「そうか」

「最初は苦手かもって思ったんだけど、やっぱり話してみないとわかんないよね。すごく面白い子なんだ。だから今、学校楽しいよ」

「良かったな」

「うん、それとね」

 空を見ながら話し始めたら、なんだかどんどん話題が浮かんできて、いつのまにかクラスの事や先生の事なんかを夢中で話していた。

 しばらく「ああ」とか「そうか」と答えてくれていた彪鬼の反応が次第に鈍くなってくる。

「あ、ごめん、こんな学校の話ばっかり聞いてても訳わかんないよね」

「……」

 彪鬼の返事がないので横を向くと、彪鬼は、すうと寝息を立てながら、くったりとしていた。

「え、寝ちゃったの……?」

 いくら退屈だからって何も寝なくても……と思って体を起こして、栞那は息をのむ。

 彪鬼の長い前髪が風にあおられ、額がのぞき、閉じた左目があらわになっていた。

 前髪で隠されていない顔を見るのは、あの冬の日以来だ。

 しかもこんなにリラックスした姿は今まで見た事がない。口が少しポカンと開いていて、その表情は、ひとしきり遊んで眠る幼い男の子のように、無防備でとても穏やかだった。

「子供みたい」 

 栞那は静かに笑った。

「疲れていたのかな……ごめんね」

 いつだって彪鬼は嫌だとも無理だとも言わないからついそれに甘えてしまう。だから出発前少し困ったような顔をしたのかもしれない。気のせいだと思いたかったけれど、本当はずっと気になっていた。

「……ん」

 気配を感じたのか、彪鬼はゆっくりと目を開けた。左目も一緒に開いてゆく。

「……すまない、寝て……栞那?」

 栞那を見て異変に気づいたのか、彪鬼は前髪を手で戻そうとした。

「待って」

 栞那はその手をとっさにつかんだ。

「隠さないで」

「隠すつもりでは……」

「嫌?」

「嫌ではない。怖くないのか?」

「どうして?」

「怯えていただろう?」

「あの時は……でも今はもう違う」

「そうか……」

「少しだけ、そのままで……いい?」

「……ああ」

 彪鬼は観念したかのように、腕を下ろした。


 形無かった左の瞳は、今はちゃんと丸をかたどっていて、あの日感じたような陰りはなく、薄いグレーや茶色の混ざった、深い黒色をしていた。

 ただ、向けられた視線は、目の前の自分よりもっと遠い所を見ているような、どこかうつろげな眼差しだった。

 それでも、今までの何倍も表情がよくわかるし、いつもよりも少し幼く、もっと優しく見える。これが彪鬼の本当の姿なのだ。

「そろそろ……いいか?」

 また、彪鬼が眉をひそめる。

「あっ、ごめん!」

 彪鬼に覆いかぶさるようにして腕を握っていた自分に気づいて、栞那はあわてて彪鬼から離れた。

 体を起こした彪鬼は、乱れてもいない着物の襟をきゅっと直して、また視線をそらした。心なしか頬が赤くなったように見えた。

 もしかして……。

 栞那も自分の顔が赤くなった気がして下を向いた。

「栞那」

 彪鬼に呼ばれ顔を上げると、彪鬼は前髪をかきあげた。

 赤と黒の2色の瞳が栞那を見つめる。

 すると彪鬼は右手で右目を隠した。黒い瞳の彪鬼は別人のようにも見える。そう、まるで人間のようだ。

「この瞳は、光を映さない」

「見えていないんだ。初めから」

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