第10話 森へ〈後編〉
栞那は、一瞬で凍りついたような空気に包まれる。
衝撃的な紫月鬼の言葉を疑うように、今までちゃんと見れなかった彼女の瞳を栞那はしっかりと見つめた。透き通る泉のような青い瞳の底を測るように強く。
「あなたに邪気は、これっぽっちもないわ。ずいぶん楽なはずよ。だからもう彪鬼の力は必要ないのよ。大丈夫。栞那は今のままで充分生きていけるわ」
紫月鬼の美しすぎるその顔から発せられた言葉は、シクシクと栞那の胸を刺し、その痛みで鼓動がどんどん早くなってゆく。何を言われているのかわかるけれど、わかりたくない。
「学校も楽しそうね。彪鬼以外に友達もちゃんとできたじゃない」
確かにいわゆる普通の友達もできた。それに自分に邪気がないのも叉羅鬼に言われて知っている。でもそれは彪鬼がいなくなる理由になんかならないし、彪鬼は彪鬼の気持ちで会いにきてくれていると言ってくれた。それも間違いだったというのだろうか。
違う。もう見えない壁は消えたのだ。どこにも行かないと言ってくれた。自分が何を信じればいいのかもう迷ったりしない。
反論したいけれど、体が金縛りのように固まって声が全く出なかった。
「あなたに、こんな話しても仕方ないけれど」
紫月鬼は、彪鬼の向かった民家の方を見た。
「あの家の子は栞那よりもずっと幼いの。父親を病で亡くしたばかりでね、母親も病になりかけてる。それでも1人なんとか乗り越えようとしているところなの。邪気に負けじとね」
栞那も同じように、民家を見た。
「自分は、幸せな方だと思う?」
また紫月鬼に質問される。
「人は、自分より不幸な人を探さないと、自らは幸せだと思えないものなのかしら?でもね、辛い思いを抱えている方が生気に満ちている人もいるのよ」
「でも、私にはわからないの。知りたくても」
紫月鬼の口調が段々と強くなっていくのがわかる。すると、ぼおっと音を立てて紫月鬼は手に鬼火を灯した。近くにいたホタル達が一斉に消えてゆく。
青白くゆらめく炎の勢いに、身の危険を感じて栞那は後ずさりした。
「紫月鬼!」
彪鬼の大きな声が響いた。
「何をしている⁈」
栞那の前に勢いよく彪鬼が降り立ち、ぶわっと風が土を巻き上げる。
紫月鬼は、彪鬼をじっと見つめたまま、何かを言おうとして唇をゆがめ、それを無理やり消し去るように、ふ、と息をもらした。
「そんな風に、怒るようになったのね」
「勝手な事しないでくれ」
「……わかったわ。ごめんなさい」
紫月鬼は川の方を向いて、鬼火を消した。すると小さな光達が紫月鬼の周りに寄り添うように集まり、差し伸べた美しい手にとまってまた瞬きを取り戻す。紫月鬼はそれを愛おしそうに見つめていた。
「すまん、栞那、遅くなって」
「う、うん、いいよ」
やっと出た声は震えていた。紫月鬼が何をしようとしたのかわからない。とても怖かった。けれど、その表情は少し悲しそうにも見えた。
彪鬼は「ふう」とため息をつくと、紫月鬼の方を見た。
「あの子は落ち着いて眠っている。今夜は大丈夫だろう」
「……そう」
「俺は、俺の意志で動いている。それが気にいらないのか?」
「そうじゃないわ。あなただってわかっている
でしょう?」
「わからない」
「だったら、なおさらじゃない」
「わからないから、探しているんだ」
「探す……?」
「もういいだろう?」
「……そう」
紫月鬼はホタル達を放し、栞那に近づく。
「栞那、怖がらせてごめんなさいね」
「……いいえ」
「今夜言った事は忘れてね」
そう言って柔らかく微笑むと、紫月鬼は背中を向けた。
「あの!私……!」
まだ少し震える声を絞り出す。
「私は……彪鬼がいなくなるなんて、絶対に嫌!そんな事考えられないし、いなくなったら私、きっとどうしたらいいかわからない……」
「だから、いなくならないと言っただろう?」
彪鬼が振り返る。
「それに、もっと彪鬼の笑顔が見たいんです」
「……笑顔?」
紫月鬼も振り返り彪鬼を見ると、彪鬼は気まずそうに顔をそらして離れていった。
「良くわかったわ。ねえ、栞那」
「はい」
「私も仲間に入れてもらえるかしら?」
「えっ?」
「だって、私も彪鬼の笑顔見たいもの。いいかしら?」
「も、もちろんです」
「そう、良かった」
紫月鬼は最後にうっすらと笑って消えた。くるくる回る風にあおられた光が散らばってゆく。
「はああぁ……」
栞那は体中の力が抜けて、橋の欄干にぐったりともたれると、彪鬼がそばにきてくれた。
「大丈夫か?」
「うん、けど怖かったぁ……」
「紫月鬼がすまなかった。でもあいつは……」
「わかってる」
「え?」
「本当は彪鬼にとって大切な人なんでしょ」
「それは……」
「彪鬼、優しいもん。だからわかる。大丈夫だよ」
「栞那……」
「結構怖かったけどね、だって足まだ震えてる」
そう言って笑うと、彪鬼もホッとしたように小さく笑ってくれた。久しぶりに見れた笑顔。
こんな彪鬼をいつか見せてあげられたらいいな、と栞那は思った。
「もう帰らないとまずいな」
「そうだね。でももう少しだけ待って。だって生まれて初めて見たんだ、ホタル」
「栞那に見せたかった」
「そのためにここへ?」
「ああ」
「……ありがとう。嬉しいよ」
彪鬼の青い髪や着物にホタルがとまって、クリスマスツリーみたいになって、可笑しくていっぱい笑った。
恥ずかしそうにうつむいて笑う彪鬼を見ていると、ホタルを見たいから帰りたくないのではないのだと気づいた。
それでもこんな夜は、これからもきっと何度も訪れてくれるはずだから。
「そろそろ行こう」
「うん!わかった!」
栞那は勢いよく、彪鬼の胸に飛び込んだ。背中に手を回し着物をつかんで抱えられる準備をする。その体制のまま、なぜだかしばらく無言の時間が過ぎる。彪鬼がなかなか飛び立たないので、栞那は彪鬼の顔を見上げた。
「どうしたの?」
「いや……、なんでもない」
「やっぱり、今日の彪鬼、なんか変」
「変」
「ふふ、でも、楽しかったよ。ありがとね」
「そうか」
「じゃ、お願いします!」
「ああ。そうだな」
ふわりと足が浮かんで、儚げに瞬く小さな光達に見送られるように、風を起こさぬよう2人の体はそっと地面から離れた。
暗闇を駆け抜ける風。遠くなる山影を見送ると、無数の街の明かりが足元で流れてゆく。まるでたくさんの星を見ているようだ。
帰る場所がある安堵感、まだこのままでいたいと思うもどかしさも、温もりに包まれる。
紫月鬼と彪鬼の間で交わされた会話は、自分にはわからない。それでもこんな時間が不安や
心配も全て忘れさせてくれる。
月のない空は果てしなく続く。この夜、いつもより彪鬼がゆっくりと飛んでいるような、そんな気がした。
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