第9話 森へ〈中編〉

 栞那は飲み終えた器を彪鬼に渡す。

「ありがとう、ごちそうさま」

「ああ」

「ねぇ、彪鬼も水に入らない?冷たくて気持ちいいよ」

「いや」

「どうせ裸足なんだし」

「俺はいい」

と、彪鬼はくるりと背を向け、さっきの岩に戻るとまた腰をおろした。

「もう……」

 栞那は水を小さく蹴飛ばす。

 彪鬼はどんな事を嬉しいとか楽しいと思うのか、いまだにわからない。

 自分が楽しんでいれば、きっと同じように感じてくれるだろうと思っていたけれど、彪鬼はたいていどこかですまして見ているだけだ。

 そう言えば、今日行きたい所があると誘ってくれたのは彪鬼の方なのに、座っているだけで楽しそうにはとうてい見えない。

 しばらくして彪鬼のそばにアゲハ蝶の群れがやってくると、ただそれをじっと眺めては、時々空を見上げたりする。トンボがやってきて体にとまったりするのを気にしたり、放っておいたり、時々指を立てて止まらせたり、少なくともこちらの川遊びには全く関心がないようだ。

 一緒にふざけたり、はしゃいだり、そうしたらきっともっと楽しいと思うんだけどな、と栞那は思いながら川から上がろうとした時、岩かげに生き物の姿をとらえた。

「わ、カニだ」

 栞那の気配を感じると、カニは狭い岩の隙間に入りこんでしまった。栞那は辺りを見回し木の枝を拾うと岩かげに集中する。海でもさんざん捕まえたので、コツはなんとなくわかる。

 夢中になってしゃがみこんだ時、ハーフパンツの先が、ちょん、と水に濡れた。

「あー濡れちゃう」

 栞那は、ズボンの裾をくるくると巻き上げる。

 こんな事ならやっぱりショートパンツにすれば良かったなと思いながら、ふと視線を感じて栞那は振り返る。彪鬼が何か言いたげな表情でじっとこちらを見ていた。

「なに?」

「あ、いや……」

「ズボン濡れそうだからさ」

「そう……か」

「変?」

「いや、変、ではない」

 栞那はもう片方の裾も巻き上げると、先程の岩かげをのぞきこんだ。カニが穴から出てきた所をすばやく手でつかむ。

「彪鬼!」

 勢いよくふりかえると、彪鬼はびくん、と体を動かして驚いた。

「見て!カニ、取ったどー」

 彪鬼の反応を期待して、自信満々にカニをつかんだ手を上げてみたけれど、彪鬼は「あ、ああ……」と力なく答えただけだった。

「えぇー……」

 微笑むどころか、ちょっと引いてる?

「……食べるのか?」

「いやいや、食べないよ!」

「そうか……」

「どうかした?」

「……ん?」

「なんかボーッとしてる?」

「いや……違う、大丈夫だ」

「ふうん?」

 彪鬼が静かにボーッとしてるのはいつもの事だけれど、上の空というか何かに気を取られてるみたいな、驚いたりする様子もなんだか珍しいな、と栞那は思った。

「カニさん、脅かしてごめんね」

 栞那はカニをそっと岩に戻すと、カニは素早い横歩きで水の中に潜っていった。

「そろそろ、行こう」

 彪鬼が岩から降りて近づいてくる。

「え、帰るの?」

「いや、ふもとに降りる。暗くなってきたが、大丈夫か?」

「うん。平気」

 見渡すと、森の影はさらに濃くなっていて、暗い空に星が見えた。母親は今夜も遅いから急ぐ必要はないのだけれど、彪鬼と過ごす時間は、いつだってあっという間に過ぎてしまうな、と栞那は思った。

「栞那、元に戻した方が……」

「え?カニなら戻したよ」

「いや、その、服を」

「あ、うん」

 栞那はハーフパンツの丈を戻して、タオルで足を拭くと靴を履いた。


 沢に沿って、けもの道のような細い道を彪鬼の後について降りていくと、しばらくして森から抜けた。

 そこは、広い田んぼがずっと続いていて、民家の明かりがポツポツと灯り、静かな田園風景が広がっていた。

 さっきよりも幅が増えた川の水は、ざぁっと音を立てていくつかの方向に別れ、田んぼに注がれてゆく。その脇に一軒の民家が見えてきて横を通りすぎると、突然2匹の大きな犬がワンワンと吠えたてた。

「ひゃあ!」

 栞那はびっくりして彪鬼の着物の袖をつかむ。

「いつも、ああして吠える」

「犬には彪鬼が見えてるの?」

「らしいな」

「はぁ、びっくりした……」

 栞那は袖をつかんだまま歩く事にした。

 見上げると山の影は黒く浮かび上がり、ドームのように覆いかぶさる薄暗い空には、いつもより星が輝いて見えた。田んぼも道も、もうわからないほど足もとは暗い。

 小さな川の流れに沿って、彪鬼はどんどん歩いてゆく。細い農道の脇の街頭がパチパチとついたり消えたりしている。その周りに蝶や蛾が飛び回り、遠くでまた何かが鳴いている声が不気味に響き渡ると、腕に触れた風がひんやりと感じた。

 栞那は上着を羽織ると、彪鬼の袖を今度はしっかりとつかみ直した。

「彪鬼、もしかして、蛇とか猪とか呼んでないよね……?」

「なんのことだ?」

「何か来たらどうしよう」

「怖いのか?」

 彪鬼が立ち止まり、やっと振り向いてくれた。

「栞那の事は俺が守る。だから大丈夫だ」

 いつになく真剣な瞳に、栞那は息をのむ。

「……うん、ありがとう」

 また前を歩き出す彪鬼の背中を見つめながら、栞那は何度もよみがえってくる見えない壁を重ね合わせていた。そして、その壁がもうすぐ壊れそうな感覚に襲われて、放った声が震えた。

「その言葉……信じていいの?」

「ああ」

「……どこかに行ったりしない?」

「もちろんだ」

 栞那は、着物からゆっくりと手を離した。そして、その袖からのぞく少し無骨な手に触れようとそっと指を伸ばした瞬間、彪鬼が立ち止まった。

「あら」

 聞き覚えのある女の人の声がする。

「本当に、仲睦まじいこと」

 紫月鬼さんだ……!

 暗闇の中、茂みの手前にある小さな橋の欄干に、紫月鬼が腰掛けていた。その体を取り巻くように、黄緑色の光がふわふわと舞っている。

 強く弱く放つ光が、曲線を描いては離れてゆき、また別のものが誘われるように現れ、紫月鬼の着物に舞い降りては、チカチカと瞬いていた。

「あれは……ホタル?」

 栞那は生まれて初めて見る、光が宙を舞う姿に驚いた。彪鬼の後ろに半分身を隠しながら光の描く方向を目で追う。

「あなたも、この子達がお目当て?」

 紫月鬼はささやくような声で、優しく問いかけた。

「ああ」

「そう。せっかくお楽しみのところ申し訳ないんだけど、ちょっとあの子の様子見てきて欲しいの」

 そう言って紫月鬼は、さっき横を通ってきた犬がいる民家の方を見た。とても大きな農家のお屋敷といった、古い家の2階の窓を栞那も見る。

「わかった。栞那、少し待っててくれ」

「えっ!ちょっと!」

 彪鬼が消える。今さっき守るって言ってくれたのに、いきなり置いていかれてしまった。

「栞那、こっちへいらっしゃいよ」

 紫月鬼に栞那と呼ばれてドキっとする。

 その優しい声に導かれるように紫月鬼のいる橋までゆっくり歩いてゆく。栞那が手に届くくらい近くに来たのを見てから、紫月鬼は空を見上げた。

「今夜は月がないもの。よく光るわ」

 そうか、今日は新月だった。だからこんなにも暗くて星が良く見えるのか、と栞那も空を見上げる。すると、一筋の光が目の前を通りすぎた。

「わあ……!」

 橋の下を流れる細い川の両岸にも、無数の光が瞬いていた。ふわふわと紫月鬼の近くに舞い降りては手に乗ると、それを栞那の方に差し出し見せてくれた。

「すごい……。光ってる。きれい……」

 栞那はホタルの瞬きを見ながら紫月鬼の美しい手に見惚れた。そしてゆっくりと視線をあげ紫月鬼の横顔を見る。とても長いまつげ、顔は細く青白い肌はまるで陶器のようだ。艶のある赤く薄い唇が、怪しげに笑ってこちらを見た。

「あなたは、ホタル?それとも、月?」

「え?」

「自ら光を放ち存在を指し示す光。光を受けて存在を知ることのできる光。対照的よね。あなたはどちらかしら?」

「私……?」

 栞那は質問の意味もわからないし、もちろん答える事もできず、ただ居心地の悪い静かな時間をやり過ごす。紫月鬼は答えを待っているのか、答えなどどうでも良いと思っているのか、しばらく何も言わなかった。彪鬼はまだ戻らない。

 すると、紫月鬼が微笑みながら言った。

「ねえ、そろそろ、彪鬼を解放してあげてくれない?」

 

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