第8話 森へ〈前編〉
もう夕刻を知らせる音が街に響いてから随分経つのに、空は昼のように眩しい。
地面から湧き立つような空気の温度は下がる事なく、梅雨の晴れ間の空が容赦なく照りつける地上には、じわりと重たい熱風が漂っている。
それらを振り切るようにマンションに駆け込んだ栞那は、彪鬼がベランダで待っている間に制服を脱ぎ着替えた。
「お待たせー。準備できたよ。今日は暑いね」
「よし、行こう」
動きやすいハーフパンツとハイソックスのお気に入りの服に着替えた栞那は、少し子供っぽかったかなぁと頭をよぎりつつも、上着を手に取りベランダで靴を履くと、彪鬼に抱えられ、風になった。
あれから何度か、こうして2人で出かけた。
誰もいない真っ暗な学校。ショッピングセンターの屋上。その度にこうして彪鬼につかまってきたけれど、彪鬼は顔色ひとつ変える事なく飄々と空を飛んだ。
最初は顔が近づきすぎないようにとか、変に気を使ってしまっていたけれど、それは自分だけなのだとわかると、栞那はなんだか複雑な気持ちになる。
それでも空からの景色は何ものにも変え難く、なりふり構わず楽しめてかえってそれで良かったのかもしれない、と思ったりもした。
「ほら、彪鬼見て!プールすごい人!」
「そうだな」
「あ!あそこ、お祭りやってるー」
「……ああ」
興奮してずり落ちた栞那の体を、彪鬼はしっかりと抱え直してくれた。
今日は真夏日だったけれど、今こうしていても全く暑さを感じない。それよりも彪鬼の清々しい香りが心地良くて、ずっとこのまま風になって飛んでいるだけでもいいのに、と栞那は思っていた。
「もう少しだ」
栞那が顔を上げると、強い西日を受けて輝きながら街を見下ろす懐かしい山の形が、ゆっくりと近づいてくるのが見えた。その山の中腹のわずかな木々の隙間をぬって、森の中の小さな沢の脇に2人は降り立つ。
そこは、高くそびえ立つ沢山の木々が外の世界を遮るように頭上を覆いつくし、土が見えないほど茂った植物の上や、木の幹を奪い合うように巻き付いたツタの葉が光を遮り、あたりは薄暗く静かな所だった。
葉や枝の間から差し込む細い光がいくつもの筋を作り、どこまでも続いている。長い年月を経て生まれた深い香りが、しっとりと体に染みてくるようだ。栞那は大きく深呼吸をする。
「はぁ、涼しい。ここも風峰山なの?」
「そうだ」
「こんな所もあったんだ……」
栞那は森を一周ぐるっと見渡した後、近くの沢を覗き込む。苔むした岩の間をいくつも枝別れするようにするすると流れる水は、底の石がはっきり見えるほど透き通っていた。思わず手を入れる。
「わ!冷たい。気持ちいい」
「そうか」
彪鬼は近くの大きな岩に、まるで指定席のように、すとん、と腰掛けた。
「彪鬼は、よくここに来るの?」
「時々な」
「へぇー、この山の事はいろいろ知っているんだね」
栞那も平らな石を見つけ、ちょこん、と座る。すると、すぐ近くで鳥のさえずりが聞こえた。見上げても姿は見えない。その声が音の輪を作るように、何度も森の中に響き渡ってゆく。
「きれいな声……。なんて鳥なんだろう」
「オオルリだろう」
「すごい、鳴き声でわかるの?」
「栞那の部屋の本にあった」
「そっか、図鑑。でも鳴き声を聞いたのは初めて」
栞那も図鑑で見た青い美しい鳥の姿を思い出して、もう1度耳をすました。
沢山の本や資料を読んで物知りになったつもりでも、本当に出会わなければわからない事なんて、きっと山ほどあるのだろうな、と栞那は思った。
栞那は沢の水を両手ですくい上げる。近くを流れる空気も涼しく、汗がすうっとひいてゆく。と同時に喉がカラカラな事に気づいた。
「すごく綺麗な水。でもさすがに飲めないか」
「この川は、いずれ御室川と合流する」
「いつも見てるあの御室川?」
「ああ。この先に源流がある」
「そうなんだ。こんなに離れているのにずっと繋がっているんだね。なんか不思議……」
マンションの前を流れるあの大きな川が、こんな小さな川からも始まっていて、それが山の中から枯れる事なく溢れ出ているという当たり前のような奇跡に、心が安らぐような穏やかな気持ちになった。
水も光も空気も、人の為に存在しているわけではもちろんないけれど、人の力ではどうにもならない自然の恩恵を当然のように受け、使い捨てのようにすぐに人は忘れてしまう。
それでもほんのひとときでもそれを思い出し、小さな感動を呼び起こされるようになったのは、やっぱり彪鬼と出会って感じるようになった気持ちなのかもしれないな、と栞那は思った。
「栞那、そこを動くな。待っていろ」
「えっ?何?」
突然、彪鬼は、ふっと消えるように岩から居なくなってしまった。
「どうしたんだろ」
とりあえず栞那は言われた通り、森を眺めながら大人しく待つ事にした。
見上げると沢の上空はひらけていて、日が傾き始めた色の空が見える。でもこの沢を挟み込むように生い茂る木々の中は、もう暗闇だ。
人が容易に立ち入ってはならない境界線のように、明暗を分け隔てている。ただ、ここの空気は彪鬼の香りに良く似ていて、不思議と1人でも恐怖心は湧かなかった。むしろ、別の世界に迷い込んでしまったような、現実と切り離されたような感覚を栞那は心地よく感じていた。
なかなか彪鬼が戻ってこないので栞那は退屈になり、沢を眺めてうーんと考えた後、おもむろに靴を脱ぎ、裸足になった。
「ひゃっ、冷たい!」
膝下までの深さの水は、ちょうど良く火照った体を冷やしてくれる。底の小石が痛くて心地よい。
5月に父親の所へ行った時、両親を飽きさせるほど海辺で1人いつまでも波と戯れていた。まだ泳げるほどの水温ではなかったけれど、手足に触れる水の感覚に体がうずいた。
何度も手で波をかき分け、体に感じる温度と圧を思い出しながら、やっぱり泳ぐ事が本当は好きだったんだな、と思いながら、栞那は岩に腰かけて素足で何度も水を跳ね上げた。パシャン、と森にその音が響き渡る。
「栞那」
「あ、おかえりー。遅かったね。ね、見て、魚がいるよ!」
栞那は川底を指差した。
「あまり奥に行かないほうがいい」
「うん、どこに行ってたの?」
「喉が渇いたのだろう?」
そう言って、彪鬼は竹の筒のような入れ物を差し出した。栞那は岩から降りてそれを受け取る。
「何?飲んでいいの?」
「ああ」
ちゃぷん、と音がしたので、栞那はおそるおそる口をつけると、よく冷えた水が喉を駆け抜けていった。あまりの心地よさに呼吸を忘れて飲む。
「はあ、美味しい!この水どうしたの?」
「上の社から持ってきた」
「社って神社?勝手に飲んでバチあたらない?っていうか飲んで平気なの?」
栞那が少し渋い顔をすると、
「これは湧水だし、バチなどあたらん」
と言って、彪鬼は栞那から筒を受け取り、残りの水を飲んだ。
「あっ……」
栞那は一瞬同じ器で……と思ったけれど、彪鬼の事だからそういう事も全く気にならないのだろうな、と思いながら、豪快にごくごくと水を飲む彪鬼の様子を見つめた。
口元からこぼれた滴を拳で拭うと「あ」と目があって、栞那はドキっとする。
「すまん、全部飲んでしまった」
「え、あ、じゃあ、おかわりください……」
「わかった」
彪鬼はすぐ水を汲みにいってくれて、栞那はそれを今度は1人で飲み干した。
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