第7話 鼓動
マンションには10分ほどで着いた。
駆け込むように乗り込んだエレベーターの中で栞那は息を整える。思えばこんなに急いで帰ってきたのは久しぶりだ。
パンパンに教科書が詰まったカバンで腕がちぎれそうに痛い。そこから鍵を取り出すと同時に、収まりつつある鼓動は、違う鼓動へと変わってゆく。
父親の住む街に行った日、1人夜空を眺めると、こちらでは街の明かりでほとんど見えなかった星たちが沢山見えた。本当はあるのに見えなかっただけなのだとわかっていても、自然や宇宙の雄大さに改めて感動を覚えた。
その時の星空は本当に美しく、彪鬼と一緒に眺められたらいいのに、と思って初めて、ここでは彪鬼に会えないのだと気づいた。
すると、言いようのない不安に襲われた。もしかしたら、こうしている間に、自分の事なんて忘れてしまうんじゃないか。帰っても、彪鬼が来てくれなかったらどうしよう、とわけもなく心配になった。
でもそれとはうらはらに、こんな風にいつか彪鬼が自分から離れていってしまう日が来るんじゃないか、という予感がふとよぎる。どんなに一緒の時間を過ごしても、それがずっと続く事などないのだとどこかで割り切ろうとしてしまう。その時がきたら、ほらやっぱりそうだった、と傷つく事を避けるかのように。
全てを信じて心を許してはいけない、そんな見えない壁のようなものがあるのは確かだ。それは人と鬼という違う存在だからなのか、それとも自分以外のものは全てそうなのか、今はわからない。
わからなくてもいい。彪鬼に会えば全て忘れさせてくれるのだから。
エレベーターのドアが開くと、地上よりもいくぶん涼しい気持ちの良い空気が迎えてくれた。深呼吸をして玄関の扉を開ける。
「ただいまー」
急いで靴を脱ぎ捨て、ごくん、と息をのみ、部屋のドアを開ける。
「あっ!」
「おかえり」
「彪鬼‼︎」
栞那は思わずカバンをベッドに放り投げて彪鬼のそばに駆け寄る。彪鬼は以前と何も変わる様子もなく、本棚の前に座って本を読んでいた。何ヶ月も会えなかったわけではないのに、
心なしか、ふっと微笑んでくれたような優しい眼差しに懐かしさが蘇る。
栞那は彪鬼の前にぺたん、と座りこむ。
「彪鬼、久しぶりだね!」
「そうだな」
「ごめんね、きっと来てくれたよね?」
「ああ」
「心配した?」
「いや、手紙を見たから大丈夫だ」
「もしかして、寂しかった?」
「寂しい?」
彪鬼は不思議そうな顔で、きょとん、と見ている。その見慣れた表情に心の底からホッとして、栞那は思わず吹き出す。
「あはは、なんでもなーい。ね、昨日は来てくれた?」
「あ、いや、すまん」
「ううん、いいの。私も疲れてすぐ寝ちゃったみたい」
「……待っていたのか?」
「うん、少しね」
「いつも、すまない」
「何が?」
「待たせているのだろう?」
「大丈夫だよ」
「いつ来るかもわからないのにか?」
「待ってる時も楽しいから」
「そうなのか……?」
「うん」
彪鬼は、しばらくじっと栞那を見つめた後、読んでいた本をパタン、と床に置いた。
「栞那、話がある」
「えっ、何、急に」
「俺たちの世界とここでは、時間の流れが違う」
「それは、前にも聞いたよ」
「でもここに来れる時は、あらかた決まっているようだ」
「そうなの?」
「ゆがみ。が生じる時らしい」
「たとえば?」
「月が満ちる時、月の無い時、大雨、雷、花火、祭り、災害、天地が震えるような、音や衝撃のある時……」
「えーっ、そうだったの⁈」
栞那の大きな声に、彪鬼もビクっとする。
「もーなんでそんな大事な事、今まで教えてくれなかったの〜」
「……すまない。先日叉羅鬼に聞いた」
「え、彪鬼も今まで知らなかったってこと?」
「ああ、知る必要などなかった。でも栞那の言っていた意味がわかった」
「私、なにか言ったっけ?でも、じゃあこれからはいつ来れるかだいたいわかるんだよね?」
「そうだな」
「えー、なんかそれはありがたいかも」
栞那は壁にかけてあるカレンダーを見ながら、彪鬼が来てくれた場面を思い出していた。
確かに雷だったり、台風だったり、綺麗な満月だったり、思えばそんな日ばかりだった気がする。そして今日は新月だ。
「私達の世界と彪鬼の住む世界は繋がっているけれど、繋がってない時もあるって事?」
「そうなのかもしれないな」
「彪鬼もわからないの?」
「全てがわかる訳ではない」
「そっか。そうだよね、この世界を作った神様しか、きっとわかんないよね」
栞那は、放り投げてしまったカバンを椅子にそっと置き直した。机の上には彪鬼宛に書いた手紙がそのまま残っていた。
「手紙、読んでくれたんだよね?」
「ああ」
「これからも書いていい?」
「手紙をか?」
「なんか連絡したい時に、便利かなぁって」
「俺は書けない」
「じゃあ、私から一方的になっちゃうけど、書くから読んでね」
「わかった」
「ふふ、なんかこういうの楽しいー」
「そうか」
彪鬼は、ふっと微笑んだ。
なんて優しい表情なんだろう。
夜景を見に行ったあの日から、彪鬼は少しずつ変わってきている気がする。自分の気持ちを話してくれるようになったし、なによりほんの少しだけど、笑ってくれるようになった。
それに、前までは話をしていてもどこか遠くを眺めている事が多かったけれど、今はしっかりとこちらを見て話をしてくれる。それがとても嬉しい。
「ね、ちょっと土手を散歩しない?」
栞那は彪鬼を誘って、土手の階段で待ち合わせた。
もうすぐ日が暮れる。この夕暮れに染まる空を彪鬼と眺める時間が、もっと長ければいいのにな、と栞那は思いながら、いつもの場所に腰かけた。
「今日は、新月だからお月様はでないって事なんだよね」
「ああ」
「きっと星が良く見えるだろうな」
「栞那、もし、俺達が来る日だとわかっても、暗い時間に1人で外を出歩くのはやめた方がいい」
「どうして?」
「俺達がここに来るという事は、邪気が増している時だからだ」
「何か関係があるの?」
「災いが起こりやすい」
「えー、なんか怖い。でもわかった」
湿っぽい風が川から流れてくる。
明日は雨なのか、草の匂いが強く鼻をつく。
邪気というものは見えないし、よくわからないけれど、人に悪いものであるのは間違いないようだ。
「でも邪気が多いって事は、彪鬼達もそれを祓うのに忙しいって事だよね?」
「ああ」
「そんな大変な日に来てくれてたなんて、知らなかったよ」
「そうでないと、栞那に会えないだろう?」
顔を見てはっきりと言われたその言葉に、栞那は顔がかぁっと赤くなったのがわかって慌てて下を向く。もしかして、彪鬼も会いたいと思ってくれていたのだろうか。
風がざわっと自分と土手の草を撫でてゆくのを心地よく感じる。彪鬼の言葉にどうしてこんなに体が熱くなるのだろう。
「向こうの街は、どうだったんだ?」
「え、あ、そうだ、海があったよ。彪鬼は海見た事ある?」
「空からは見える」
「そっかあ。すごく綺麗だったよ。星もね、空いっぱいに見えたの。彪鬼にも見せてあげたかったな」
「この街も良い場所は沢山ある」
「そうだよね。風峰山も綺麗だったよね。住んでるのに知らない場所ってまだまだ沢山あるんだろうな」
「一緒に行かないか?」
「え?」
今度は景色を揺らすほどの鼓動が、栞那の体を熱くする。
「2人で、行こう」
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