第6話 揺らぐもの

 ベランダの手すりにもたれて、彪鬼は真っ黒な空を見上げた。

 月のない空には鮮やかに輝く星が、気付けばずいぶん移動しているように見える。

 何度も訪れている見慣れたここからの景色は、来るたびに少しずつ変わってゆき、「途絶える事のない時間の流れと、繰り返される営み」だと言った自分に、それは「待ちわびる季節と、健やかな成長」だと、栞那が話していた時の事を思い出す。

 どこからか漂う香ばしい匂い。賑やかに響く声。部屋に残る懐かしい香り。

 今まで近くにいても遠く感じた人の気配を、拒む事なく受け入れてゆく体は、帰る場所を見つけ羽を休める鳥のように、ひと時の安らぎを覚えると同時に、羽ばたいている時には知らなかった、飛び立つ時のわずかな心の揺らぎを、知る事になるのかもしれない。


「やっぱり、ここかあ」

 上から声がして、叉羅鬼がベランダに降りたった。

「月のない夜が近い。邪気が増しているというのに、またさぼっとるとは」

「……すまん」

「なーんてな。いっつも言われるのはオレだからな、ちょっと言ってみたかっただけ」

 ククク、と笑いながら叉羅鬼は手すりに頬杖をついた。

「栞那は、どうした?あ、もう寝てんのか。じゃあ、寝顔を拝借〜」

「おい、叉羅鬼」

と、彪鬼が言い終わるよりも先に、すうっと叉羅鬼は消えた。そして風が吹くよりも早く、すぐに戻ってきた。

「5月8日とは……明日、あたりか」

「そうなのか」

 彪鬼がここに降り立った時も、栞那の部屋はいつになっても暗いままで、時折中に入ってもその姿はなかった。その代わり「しばらくお父さんの所へ行ってきます。5月8日には帰ります。ごめんね」という小さなメモが、机の上に残されていた。


「彪鬼、お前もしかして、栞那の帰りがいつだかわからず、ずっと待っていたのか?」

「……別に、いいだろう」

「まぁ、オレ達には人の暦なんて関係ないからな。知ったところで……」

「教えてくれないか」

「は?暦をか?」

「ああ。他にも聞きたいことがある」

「はあ、なるほどね」

 隣に並び、同じように外を眺めながら、叉羅鬼はそれっきり何も言わなかった。

 おしゃべりな叉羅鬼が黙る時はそうないが、そんな時はたいてい真剣に言葉を選びながら、言いたい事をこらえているのだと、彪鬼は知っている。

「そんなに栞那に会いたいのか」

「そういうわけでは……」

と、言いかけて彪鬼は言葉を探す。

 叉羅鬼は、普段まるで見ないような穏やかな笑みでこちらを見ていた。それは不自然なほど心を殺した作り笑いのように見え、彪鬼は何も言えなかった。

「オレにできる事は、なんでもするさ」

 そう言って去った叉羅鬼の風が、重くいつまでもベランダに漂っていた。


***


 連休明けの朝は、あいにくの雨だった。

 久しぶりの学校の匂いは湿気で増していて、月曜日の一限目は暗く重い空気が教室を漂っている。先生のさらに気怠さを増すような退屈な声は、栞那の耳には届かずに静かに響いては消えてゆく。

 昨晩遅くに帰宅し、彪鬼を待つつもりが気づくと朝になっていた。話したい事が山ほどあったのだけれど、飛行機と電車とタクシーを乗り継ぎ、くたくたになっていた体は素直にすぐ眠りについてしまったらしい。

 時差ボケもないはずなのにとても眠い。ああ早く彪鬼と話をしたいなあ、と外を眺めていると突然、

「秋川さんだよ」

と、前の席の女の子が振り向いて、小さな声で言った。

「え?」

 すっかり気が抜けて、とぼけた返事をすると

「次の列、いって」

と、冷たく言い放つ先生の声で我にかえる。

 しん、とした空気の中、隣の列の先頭の子が続きを読み始めているのを聞いて、これは国語の授業の最初のお決まりの音読の時間だという事を、栞那はようやく思い出した。と、同時に

教科書を握る手に、じっと汗がにじむ。

 またやってしまった。

 授業中、こんな風にぼうっとして先生に注意される事がたびたびある。

 魂が抜けてしまったような、頭がからっぽになったような感覚は心地良く、無意識に現実を完全に遮断してしまう。でも最近は、いい加減まずいだろうと自分でも気をつけていたつもりだったのに……。

 気まずい音読の時間が終わり、カサカサとプリントが配られる。すると前の子がプリントを差し出しながら、

「秋川さん、まただね」

と、言って、クスっと笑った。

 それは、久しぶりに感じる気持ちだった。

 栞那は、ぐわん、とする軽いめまいのような体の浮遊感を唇を噛んでなだめる。

 連休前に席替えをしたばかりで、まだ彼女とはほとんど口を聞いてはいないけれど、名前は知っている。笠原ゆかり。

 声が大きく、テキパキと良く動く彼女の周りにはいつも人がいて、それは男女関係なく、時には先生も混ざって賑やかに話し合いをしている場面を、栞那もよく目にしていた。

 栞那が背が高い事を理由に後ろの席を希望すると、たいてい自然とそうなり、教室の1番後ろから眺める景色がなんとなく気にいっていたけれど、ここは教壇からも良く見えるらしく、先生の意図的なものなのか、そんな面倒見の良さげな彼女が自分のお目付け役に抜擢されたのではないか、と今疑った。

 中学に入ってからは、昔のような態度はしていないつもりだし、周りの人達の事はあまり深く意識していなかった。けれど、笑われるのはやっぱり好きじゃない。

 不穏にざわつく胸の鼓動を感じながら、栞那は授業に集中しようと、がたんと椅子を座り直した。

 チャイムが鳴り教室の空気が緩むと、突然ゆかりが勢いよく振り向いた。1つに結んだ長い髪が、くるっと回転して栞那はビクっとした。

「今度は、早めに教えてあげるね」

 ゆかりはそう言って、少し悪戯な目で笑った。栞那は身構えた体をどうして良いか分からず声も出せないでいると、

「ゆかり、でいいよ。よろしくね」

と言って、ゆかりは髪を躍らせ前を向いた。

 湿気に負けない艶やかなまっすぐな彼女の黒髪を、その日何度も栞那は見つめていた。


「栞那ちゃん」

 放課後、栞那が急いで帰りの支度をしていると、突然ゆかりに呼ばれ驚く。

 誰かに下の名前で呼ばれたのは保育園以来だ。今の自分の顔がどんな風か気にしながら、ゆかりの方を見る。

「……何?」

「部活、決めた?」

「ううん、まだ……」

「今日、予定ある?」

「えっと、塾が……」

 相変わらず自分でも上手に嘘がつけるなぁと変な自信を栞那は確信する。部活には最初から入るつもりはないし、塾など行っていない。もちろん彪鬼に会うためだ。

「じゃぁ、仕方ないか。部活見学行くかなぁって思ったんだけど。じゃ、また明日ね」

「うん」

 ゆかりの後ろ姿を見て、栞那はホッと胸を撫で下ろす。

 どうして自分なんか。彼女ならいくらでも一緒にいれる人がいるはずなのに。

 平気で嘘を言ったくせに、嫌な顔や感じの悪い断り方はしていなかっただろうか、と栞那は考える。そして小さな不安と、いつまで経っても臆病な自分にほんの少しの苛立ちを覚える。

 そんな思いを振り切るように、彪鬼の顔を思い浮かべながら、栞那は走ってマンションを目指した。

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