第5話 終わりと始まりの日
栞那は心地良い鼓動に包まれながら、大きく深呼吸をした。見上げると、空のオレンジはすっかり黒に飲み込まれていた。次第に深い黒に染まると、地面がキラキラと青白く輝き始めた。
光の筋を八方に放ちながら、眩しく輝く月の光が、木々や人々の淡い影を作り出し、地上を静かに、力強く照らす。
遠くを眺める彪鬼の髪や、着物や、肌までもが、白く柔らかい輝きをまとっている。それは、光を反射しているというより、まるで浮き出てきたような細かい光の粒子が、彪鬼の体やその周りを薄く包みこんでいるようだ。
眩しいのにどこか儚く、畏れ多さのような仰ぎ見る存在に心が惹きつけられる。人とは違う超越したその姿に改めて気づきながら、栞那は彪鬼の美しさに見惚れていた。
「きれい……」
栞那が、息をもらすように小さく言うと、
「そうだな」
と、彪鬼は答えた。
「夜景も、もちろん綺麗だけど、彪鬼がすごく綺麗なんだよ」
「ん?」
「こんなに綺麗なのに……。人はね、鬼を悪い存在に例える事が多いの。鬼退治とか鬼は外とか。私もそう思ってた時もあった」
「もともと人にとって鬼とは、そういう存在なのだろう」
「違うよ!知らないだけ。みんな彪鬼達に会った事がないからわからないんだよ。会った事も見た事もないのに、悪いものって決めつけるのっておかしいよね?誰が決めたの?そういうものって、もしかしたらいっぱいあるんじゃないかなって私、気づいたんだ」
「栞那?」
「それにね、私が小さい頃読んだ絵本に鬼の話があったの。時々怒ったり泣いたり笑ったり、怖くなくて優しくて、人とおんなじだった。だからその話、すごく好きだったんだと思う」
栞那が大きな声で話し続ける様子に、彪鬼は圧倒されながら、きょとん、としていた。
「私もいつか、彪鬼みたいな優しい鬼がいるんだって伝えたい。人の為に悪いものを綺麗にしてくれている存在なんだって。だって私の為にこんな綺麗な場所に連れてきてくれた……」
広場の誰かがこちらを見た気がして、栞那は慌てて体を低くした。
「……では、この場所は、気にいってくれたか?」
「もちろん!空気も美味しいし、星もいっぱい見えるし、最高の景色だよ。ありがとう。連れてきてくれて」
「そうか……、それは、良かった」
その瞬間、栞那は頭と背中を同時にドンと叩かれたような、強烈な衝撃を受けた。
熱い風が体の中を刺すように通り抜けていったと同時に、何かが勢いよく入ってきて、体いっぱいに満ちた。
「彪鬼……、いま……」
「うん?」
「今……、笑った、よね……」
「?」
「笑って、たよ……?」
「……そうなの……か?」
彪鬼は、笑っていた。
今まで1度も見た事のない、その微かな笑顔は、ホッとして笑みがこぼれたという感じなのかもしれない。
それでもどこか暖かい風を呼ぶような、柔らかなその表情は、苦しいほど、切ないほど一瞬だった。
「やっと……、笑ってくれたぁ」
彪鬼は、自分でもその感覚がよくわからないのか、困惑した表情をしながら、髪をくしゃっとさせた。
いつも冷静な彪鬼のそんな仕草も、とても微笑ましくて、栞那がじっと見つめると、照れたように視線をそらした。
「ね、彪鬼」
「……なんだ?」
「ふふっ」
また唇を尖らせてる。
やっと、彪鬼も少しずつ心を開いてくれたような気がして、栞那はとても嬉しかった。
「……そろそろ、帰ろう」
「は!そうだ!お母さん帰ってきちゃう!」
彪鬼が立ちあがり、栞那もそれを追うと、彪鬼は栞那の腰にぐっと手を回した。
「ひゃっ」
と、思わず声が出る。
「どうした?」
「え、いや、べつに……」
来る時は、必死でそれどころじゃなかったけれど、どこをどうつかまればいいのかわからない。さっきは思い切り抱きついていたような……。
「早くつかまれ」
そう言われたと同時に体が浮き上がり、その勢いに任せて目をつむって彪鬼につかまった。
流れる景色も見たかったけれど、今は顔を上げられない。彪鬼の着物が頬に触れて、来る時に包まれた同じ香りに気づく。そうか。この香り……。
彪鬼は、森の中のような清々しい香りがした。そして、しっかりと支えてくれる腕は、力強く温かだった。さっきの笑顔がふいに頭をよぎり、思わずぎゅっと拳を握りしめる。
「まだ、怖いか?」
違う、と声にならなくて頭を振ると、近い声が、また体に響いて聞こえた。
「栞那の髪は、花のような香りがするな」
栞那は、ただじっと地に足が着くのを待つだけだった。早くなる鼓動と、苦しくなる呼吸を1人耐え忍びながら。
行きよりも長く感じた空の旅をようやく終えて、2人はベランダに降り立つ。足なのか頭なのか、フラフラする体をなんとか支えて、栞那は真っ暗な部屋に入った。母親はまだのようで、叉羅鬼と紫月鬼もいない。
「はあ、良かった……間に合った」
「連れだして、すまなかった」
「ううん、すごく楽しかったよ。ありがとう。また連れて行ってくれる……?」
「ああ、また来る」
そう言うと、彪鬼は、ふわっと消えた。
「はあああ……」
栞那は、風を見送る余裕もなく、どっと体の力が抜けてベッドに崩れ落ちた。そしてすぐさま制服を脱ぎ、すっかり熱くなってしまった体温を逃すように、パジャマに着替えた。
すると、バタン、ガタガタ……と、慌しい音が玄関から聞こえた。
「はぁ、ただいまー」
「あ!おかえりー」
ちょうど良いタイミングで母親が帰ってきた。それでもあの様子だと、きっと急いで帰ってきてくれたのだろう。
「あっ!」
そうだ、彪鬼におめでとうって言ってもらうはずだったのに……。
「まぁ、いっか」
どんな言葉より、常識を遥かに超えた特別な時間とあの笑顔が、彪鬼がくれた最高の贈り物だ。
栞那は、汚れてしまった靴下をくしゅっと丸めて洗面所に向かった。
「遅くなってごめんねー、今日は残業しない予定だったんだけどさ」
いつもの事なのに、母親の言い訳が優しく聞こえる。
「いいよ。そんなの」
「ちゃんと、買ってきたから」
「やったー」
栞那は、さっそく袋を開けて、ぱくぱくと唐揚げをほおばる。
「そんなに好きなの?幸せそうな顔して」
少し呆れ顔で母親が言う。
「まぁねー」
確かに唐揚げは美味しいけれど、嬉しさの理由は1つじゃない。
この家の明かりも、あの展望台から見れば、見えないくらい小さな1つの明かりかもしれない。それでも、そこにひたむきに生きている人達がいるのだ。
そんな人達を、彪鬼は今も昔もあの場所で、ずっと眺めていた。それは、この世界を見守ってくれているかのような、静かで温かな眼差しだった。
自分が生まれた時も、あの場所に幼い頃に行った時も、この家で1人過ごしていた時も、きっと彪鬼はこの街を眺めていた。そして今、2人は出会う事ができた。
そんな繋がりや、いろんな想いが、とにかく嬉しかった。
「お母さん、私、この街で生まれて良かった。ありがとう」
「どうしたの急に……。何かあった?」
「ふふっ、なんでもない」
人は、毎日人生最後の日を生きている。
栞那はまだ、13年という時間しか過ごしてきていないけれど、その人生の中で1番素敵な誕生日を迎えられた事を、本当の人生の最後の日まで絶対に忘れないでいよう、と心に決めた。
そして、最後の日は、何かが始まる最初の日でもあるかもしれないのだ。
この街で出会えた彼らにもらった笑顔で、今度は自分が彪鬼を笑わせてあげたい。
2人分ほどの四角いケーキに隙間なく並べられたロウソクに、母親が火を灯した。
「栞那、誕生日おめでとう」
栞那は、その13本の小さいオレンジ色の炎を、思い切り吹き消した。
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