第4話 空を飛んだ日

 コーという音が聞こえて栞那は目を開ける。彪鬼の着物に顔をうずめているので何も見えない。どこからかふんわりと良い香りがする。

「と、飛んでるの……?」

「ああ、怖いか?」

 彪鬼の声が体に響いて聞こえる。

 必死にしがみついていたけれど、落ち着いてくると全く風を受けていない事に気づく。髪やスカートがわずかになびいている感触があるだけで、体が下に引っ張られるような落ちる感覚もない。無重力で浮いているみたいだ。

「たぶん、大丈夫……」

 栞那はゆっくりと顔を上げる。

 目の前に彪鬼の首元が見えて、びっくりして横を向く。彪鬼の肩越しに周りの景色が目に飛び込んできた。

 本当だ!空しか見えない!

 視線を落とすと、小さくなった街が見えた。

 どんどん下の景色だけが流れ、ものすごい速さで移動しているのがわかる。なのに風は感じない。シャボン玉の中に入って、そのまますーっと動いているような感覚は、夢で見る空を飛ぶ様子と全く別のものだった。

「もう少しだ」

「どこへ、行くの?」

「見せたいものがある」


 しばらくして、平らな屋根のような物にゆっくり降り立つと、靴下のままの栞那の足は、ふにゃりと力が入らず座りこんでしまった。彪鬼も隣に腰を下ろす。

「大丈夫か?」

「う、うん、なんとか。わぁー」

 栞那は広がる景色に思わず身を乗り出す。

 今飛んできた街を眼下に見下ろせるとても高い場所にいるようだ。けれどこの景色、見覚えがある……と栞那は思った。

「ここって、風峰山かざみねやま?」

「そうだ。ここは俺が、……気にいっている場所だ」

「へえーそうなんだぁ」

 風峰山は、隣街との境にそびえ立つ、標高500mほどの小さな山だ。その中腹にある、自然公園の展望台の屋根の上にどうやらいるらしい。ここからは、栞那の住む街はもちろん、そのはるか先の海までかすかに望める。 

 幼稚園や小学校の遠足コースの定番で、栞那も小さい頃、家族で何度か訪れている。車で1時間ほどの距離だけれど、ものの数分で着いてしまった。

「見せたいものって……この景色?」

「ああ」

 彪鬼は街を眺めながら言った。

「一緒に見たいと思っていた」

「……一緒に?」

 横顔が、そっとうなずく。

 自分の好きなものや大切なものを、誰かと一緒に見たい。同じように感じたり、感動を分かち合いたい。

 そんな気持ちを、自分と同じように彪鬼も感じてくれていたのだ。そして、その誰かが自分である事を知り、栞那はとても嬉しかった。

 彪鬼の横顔を見つめ、その視線の先にある景色を、一緒に眺める。


 街を包み込むような大きく偉大な空は、2色に分かれていた。   

 もう日が沈み、オレンジ色の滲んだ西の空は段々と遠くなり、近くにあるのか遠くにあるのかわからない青を含んだ黒い空が、それを追いかけるように広がってゆく。

 そして、夕日の光が落としていったようなオレンジ色のいくつもの小さな灯りが、数を増やしながら、影を作る街並みに優しく灯る。

 ここからの夜の景色を見るのは、栞那も初めてだった。昼間の賑やかでカラフルだけど、そっけない街とは違う、もうひとつの街の色。なぜか不思議とホッとするのは、あのオレンジ色のゆらめきのせいなのかもしれない。

 ふと、さわさわと音がして、展望台の下の広場をそうっと覗くと、沢山の人がいる事に気づいた。恋人同士や家族連れ、カメラを並べた人もいる。

「もうすぐ夜なのに、こんなに人が集まる場所だったなんて、知らなかった」

「でもここなら、誰も気づかないだろう」

「ふふ、本当だね」

 彪鬼と目があう。そしてまた街を見つめる。

 栞那は、空を見上げて今度は星の多さに驚く。東の空には登ったばかりの黄色い大きな丸い月が、黒い空をじんわりと照らしていた。

 ここからは、360度全て見渡せるのだ。

 なんて気持ちの良い場所なのだろう。ベランダや土手で感じる匂いも好きだけど、ここは、もっと透き通った匂いがしてたまらない。

 栞那は思わず寝っ転がりたくなったけれど、部屋で大の字で寝ている所を見られたばかりなので、今日はやめておこうと思った。

 すると、彪鬼が静かに語り始めた。

「俺達は、この土地に憑いている」

「だから、ここから出る事はない。そうやって俺達の仲間も、この土地の人々と共に暮らしてきた」

 栞那は、彪鬼の横顔を見つめる。

「ここからの景色はずいぶん変わったが、こうしてこの場所にはいつも人が集まる。それは今も昔も変わらないらしい」

「うん」

「なぜなら邪気が少なくなる場所でもある。それを人も本能的に感じているのだろう」

「そうなんだ」

 確かに、景色を見ているだけなのに、不思議と穏やかな気持ちになってくるのがわかる。

 栞那は、広場にいる人達をしばらく見た後、彪鬼が見つめる街の明かりがきらめきを増してゆく様子を眺めた。

 あの明かり1つ1つに人がいて、家族や仲間がいて支えあっている。お店があって、電車が走って、働く人がいて、生まれる人、亡くなる人もいる。

 自分はその中のたった1人で、ちっぽけな1人だけど、それが逆に大きなものに包まれているような嬉しさと、そんな自分を支えてくれている全てのものへの感謝の想いが、段々と心に満ちてゆくのを、栞那は温かく感じていた。

 彪鬼は今、どんな気持ちで街を見ているのだろう。そしていつからこの街を見てきたのだろう。昔の様子を知っているようだけど、人の事はあまり知らないのは何故なのだろう。


「彪鬼は、この街を昔から知ってるの?」

「ああ、ずっと見てきた」

「でも、人の事はあまり知らないよね?叉羅鬼はあんなに詳しいのに。どうして?」

「それは……」

 彪鬼の表情が曇る。その一瞬の変化に栞那は嫌な予感がした。

「……お前は、人と関わるな、と言われてきたからだ」

 栞那は、言葉を失う。今、どんな言葉を言ったら良いのか、すぐには出てこない。

 街の方を向いている彪鬼の視線の先は、どこか違う1点を見つめているようだった。

 心細くなって、ぎゅっと胸が苦しくなる。そして、気になって左目を見せてもらった時のように、触れてはいけない何かに触れてしまった時のような罪悪感が、後悔と共に湧いてくる。

 もちろん、自分の知らない彪鬼の過去に、どんな出来事があったとしても、この気持ちは変わらないだろう。今ここにいる目の前の彪鬼が全てなのだから。

 ただ、彪鬼にとって触れられたくない過去や悲しみがあったとして、それを自分の興味本意で無理やり思い出させたり、聞き出したりするような事だけは絶対にしたくない。

 どんな理由でそんな風に言われていたのかはわからないけれど、彪鬼を元気づけてあげたいと思った。とても寂しそうに見えるから。

 なんにもできないかもしれないけれど、これからも、もっと楽しい事や面白い事を一緒にやりたい。

 彪鬼が、してくれたみたいに。 


「大丈夫だよ。知らなくったって、また私がいろいろ教えてあげるから」

「俺が……怖くないのか?」

「どうして?」

 彪鬼がこちらを向いた。

「彪鬼に何があったとしても、変わらないよ。彪鬼が話したい時に話してくれればいいからさ」

「……そうか」

「まぁ気にはなるけどね」

 笑ってみせると、彪鬼は少し唇を尖らせた。

「……なんでも聞いてくれて構わない。栞那には、俺の事を知ってもらいたいと思っている」

「え、ほんと?」

「ああ、それに俺も……」

「……何?」

「栞那が、どうしたら喜ぶか、知りたかった」

 栞那の胸が、とくん、と鳴った。

「栞那は、この街で生まれたのだろう?」

「う、うん」

「この街で生まれ、この街にいたから、俺達は出会えたのだな」

「彪鬼……」

 そんな風に思ってくれていたんだ。

 まるで、出会えた事を喜んでくれているかのようなその言葉に、また締め付けられるように胸が苦しくなる。

 増してゆく胸を鳴らす音が、いつまでもやまずに栞那の体を揺らしていた。

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