第2話 桜の木の下で〈後編〉

 川の色は少しずつ濃くなり、光が無くなってゆく空を悲しげに映して流れる。

 水の温度を奪って吹いてくる風が、栞那の体を冷やし始めていた。カエルの鳴き声と時々さぁっと草を鳴らす風の音だけが聞こえる。

 あまりに静かなので、彪鬼がいなくなってしまったのではないかと栞那は不安になった。そっと視線だけを横へ動かすと、彪鬼の足が見えてホッとする。

 あの時と、きっと同じなんだ。

 初めて彪鬼の左目を見た時の自分と。ただ驚いただけ、彪鬼も本当にそうだったのだと思う。

 それなのに、自分でもびっくりするほど怒りが湧いてきた。とてもショックだったから。そうか。人は悲しいと怒るのかもしれないな、と栞那は思った。

 そう思ったら、今までの沢山のいろんな怒りの正体が、少しわかったような気がした。


 栞那はゆっくりと振り返ってみる。

 彪鬼は腕を組み、横になって目を閉じていた。

 よく見ると、その青い髪に2羽のモンシロチョウが羽を休めている。しばらくして離れ、またとまりを繰り返している。彪鬼は全く気づいていないようだ。

 栞那はその様子を見て、いつだかベランダで話をしていた時、彪鬼の頭にスズメがとまった時の事を思い出した。

 スズメは全く警戒する様子もなく、むしろ呼ばれたように集まってきて、間近で見る人懐っこい愛くるしい姿にとても感動した。

 「楽しいか?」と彪鬼に聞かれ「楽しい!」と答えると、その何日か後に、今度は彪鬼はカラスを肩に乗せて現れ、ベランダにカラスがどんどん集まってきて恐ろしい光景になった事を思い出した。

「ふっ」

 栞那は思わず思い出し笑いをする。

 あれは、きっと彪鬼なりに気を使ってくれたのかもしれない。

 言葉は少ないし、表情もあんまり変わらないけれど、伝える方法はそれだけじゃない事を、彪鬼は身をもって教えてくれる。

 こうして、ただそばにいてくれるように。


 栞那は、目を閉じたままの彪鬼とチョウを、ぼうっと見つめた。

 彪鬼の青い髪……。

 どんな感触なんだろう。

 触れたい。


 すると、今度は足元で何か動いた。

「可愛い」

 栞那はその小さな生物を捕まえようとする。

 彪鬼の足に触れないようにそっと手を伸ばしたところでやめた。それはまだ小さいカナヘビだった。

 幼い頃から、栞那にとって身近な生き物は遊び友達だった。カエルもミミズもクワガタも、とりあえず安全そうな生き物は捕まえて、撫でたり眺めたりした後、そっと逃した。

 可愛いと思うものや、心惹かれるものにはなぜか触れたくなる。

 そして触れると、相手が受け入れてくれたような気がしたり、仲良くなれた気持ちにさせてくれたのだ。

 でもそれは全てこちらの勝手な行動で、相手にとってはただの迷惑でしかないのだろう。それなのにひどい仕打ちを受けてこないでいた事が、こんなにも救いになっていた事に、今気づく。


「は、くしゅん」

 栞那のくしゃみで彪鬼が目を開けた。

「大丈夫か?」

「……うん」

 いつもの優しい声に栞那はホッとする。仲直りしたい。あの桜の木の下で。

 栞那は立ち上がり、制服のスカートをパンパンとはたいた。

「……帰るのか?」

「うん」

 栞那はすっかり体が冷えて鈍くなった足を、今度は滑らせないように慎重に土手を登ってゆく。すると、

「栞那、待て」

 彪鬼が突然、栞那の腕を抱えて自分の方に引き寄せた。すると、暗くなった足もとを何か黒い細長いものがうねうねと流れてゆく。

「ひゃあ!」

 栞那は飛び上がるようにして、彪鬼の腕にしがみついた。

「もしかして、今のヘビ?!」

「ああ、踏むところだった」

 この時期、土手にヘビは時々出てくるけれど、さすがの栞那もヘビは苦手だ。触れられる機会があれば、それはそれで興味がないわけではないけれど……。

「怖いのか?」

「これは怖いよ!」

 彪鬼の周りには不思議と生き物が集まってくるようだ。そして、その彪鬼に自分もしがみついている事に気づいた。

「あ!ごめん!」

 栞那は急いで手を離して、彪鬼から離れた。

「嫌だよね」

「違う!」

 彪鬼の大きな声に、栞那はびくっと肩を振るわせた。

「いや……、さっきは驚いただけだ」

「……うん。わかってる」

「すまなかった」

「ううん、私の方こそ怒ったりしてごめんね」

「いいんだ」

 そう言った彪鬼の目が、緩やかに細くなってゆく。 

 赤い瞳に柔らかな光が揺れる。

 いつからこんなに優しい表情をしてくれるようになったのだろう。

 暖かな風に包みこまれるように、栞那の胸の中もふわっと温かくなってゆくのがわかった。


 桜の下に戻ると、さっきよりも冷たくなった風が花びらを舞い踊らせる。栞那は思わず身を小さくした。それでも花に包まれている感覚はなぜか暖かい。

「寒いのか?」

「ちょっとね、でも大丈夫。もう少し見ていたいんだ」

 明日からは花散らしの雨だと予報で言っていた。もしかしたらこうして彪鬼と一緒に見られる桜は今日が最後かもしれない。

 ざわざわと揺れる花の色が、暗闇の中で薄紫色にも灰色にも見え、風に舞った花びらが闇に消えてゆく。

 彪鬼の髪や着物がなびく様子を眺めていると、そこだけが永遠の時間のように心地よく、怪しく、美しい。

「きれいだな」

 彪鬼がまた嬉しそうな顔をする。

「ほんとだね。……ふふっ」

「どうした?」

「彪鬼の髪、花びらいっぱいついてるよ」

「ん……?」

「ちょっと待ってて」

 栞那は少し背伸びをして、彪鬼の髪の花びらを1枚ずつ取ってあげる。彪鬼は大人しくじっとしている。

「もう、触っても平気?」

「慣れたから大丈夫だ」

「慣れたって、動物じゃないんだから……」

 相変わらず言葉はぶっきらぼうだけど、自分なんかよりずっと素直で正直な心を持っている彪鬼が、こうしていつもそばにいてくれる事が、栞那は嬉しかった。

 そして、さっき自分を守ってくれた彪鬼の力強い手の感覚が、今でもはっきり残っている。

しっかりした感触。それは人の体温のように温かく感じられた。

 あれ?でももしかして、守ったのはヘビの方だったんじゃ……。一瞬頭をそうよぎったけれど、もうどっちでもよかった。

 さっきまで時々風のように、あいまいに思えていた彪鬼の存在が、急に確かなものに思えてきたのも、きっと気のせいなんかじゃないのだろう。

 そして、初めて触れた彪鬼の青い髪は、絹の糸のように細く輝き、綿のように柔らかく、栞那はその深い藍色に落ちたピンク色の花びらをいつまでもすくい取ってあげたかった。

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