2章
第1話 桜の木の下で〈前編〉
土手沿いの桜は、ずいぶんと散り始めていた。
夕日の沈んだ空は薄い桃色をまとい、風に消えそうな羽雲がゆっくりとその姿を変えてゆく様子が、木々の合間から見える。
栞那は、街頭のない土手沿いの道を歩く。目の前を雪のように舞い落ちる桜の花びらを目で追いながら、風に揺れて、さわさわと奏でる枝の音に耳を澄ます。
この時期の土手は、仲良くお弁当を広げる家族連れやカップルで、昼も夜もわりと人が多い。でも今日は肌寒いせいか、桜を見ているのは栞那だけだった。
「はぁ。綺麗だなぁ……」
花は、どうやって咲く時を選ぶのだろう。
厳しい冬を乗り越え、春が来たと何をもって感じとる事ができるのだろう。誰とも比べる事もなく、周りと合わせる事もなく、自分だけの感覚を信じて堂々とその生き様を見せつける。
自分はどうだろうか。
平気なフリをしながらも、誰にもわかってもらえない虚しさがいつもあった1人の時。孤独は安心と引き換えに何を残したのだろう。
それでも今、自分は大丈夫だと思える。
周りや他の人と何かが違っていたとしても、もう怖くない。自分はたった1人の自分なのだから。
それは1本の桜の木のように。
そしていつか蕾は花開くのだ。
新しく、大きめで着心地はあまり良くないけれど、とても気に入っている制服のスカートが時折ふわりと膨らみ、降り注ぐ花びらが優しく髪や頬を撫でてゆく。
花吹雪の中は微かな香りと、そっと触れる花弁達がくすぐったい。
毎年訪れるこの景色は、いつの間にか変わってしまう景色の変わり目を、ちゃんと感じられるほんのわずかな数日間だ。それは新年を迎えるよりも新しい始まりの意味を持っている。
午後からの式の後、栞那は彪鬼に中学生になった事を伝えたくて制服のまま、ここで待ってみる事にした。
もちろん、彪鬼が来てくれるとは限らない。でも、桜はもうすぐ散ってしまう。
今までは1人で楽しんでいた好きな景色を、いつからか一緒に見たいと思うようになっていた。1番近くにいる彪鬼と一緒に。
ふいに吹いた風が、枝を鳴らして花びらが一斉に舞い落ち、歩道にピンク色の波が流れる。
「良い香りだな」
「彪鬼!」
栞那は、舞い上がったスカートと、なびいた髪を少し押さえた。
「今日から中学生になったんだよ」
紺色に白いラインの入ったセーラー服。まだ上手に結べない白いスカーフも、ふわふわと風に泳いでいる。少し前まですごく大人に見えた制服に、今は包まれている。
「そうか。学校、が変わったのだな」
「そうなの」
「良かったな」
……それだけ?
制服の事とかも何も言わないんだな、と予想はしていたものの、栞那は少し拍子抜けした。
彪鬼は桜の木を見上げながら、まるで自分に向かってくるものを受け止めるように、じっと上を眺めていた。
「彪鬼も、花吹雪好き?」
栞那は彪鬼に近づいて顔を覗きこむように聞くと、彪鬼は首を傾げた。
「好き……とは?」
「気に入ってる、とか嬉しい、とか。自分にとって大事だなってこととか。そう思うことは、彪鬼もあるでしょ?」
「そうか」
そう言って彪鬼はうつむくと、右手を前に出した。彪鬼の手は、とても白いけれど、骨ばっていて厚く、しっかりした男の人の手だった。その手に花びらが落ちてはこぼれてゆく。
栞那も両手をお皿のように合わせて、その中に桜が落ちてくるのを待ってみた。けれど花は手をかすめるばかりで、風が花びらと共に手の中で微かな感覚を残してゆく。
風に触れると、自分も草や花になって揺れている気持ちになれる。透明な自分が景色に溶け込む感覚。それがとても心地よくて好きだ。
「私、桜の花が1番好き。だから良かった。彪鬼と今年の桜を見れて」
「ずっとここで待っていたのか?」
「ずっとじゃないけど、何回か来たかな。でもいいの。私が勝手に待ちたかっただけだから」
頬にかかる髪を耳にかけると、彪鬼と目があった。
「栞那、何か変わったか?」
「制服?それとも髪型?」
何か気づいてくれたんだ、と思って言葉を待ってみたけれど、彪鬼は、きょとんとしたままだった。髪も10センチほど切ったけれど、そういう事はやっぱりわからないようだ。
そう思うと、彪鬼は出会った頃とほとんど変わらない。表情も顔の半分しか見えないせいかよくわからない事が多いけれど、最近は目元や口元がゆるんだりして、なんとなくわかるようになった気がする。
今だって桜吹雪に包まれながら、目を細めて唇を尖らせていて、その表情はなんだか嬉しそうだ。
でもいつも静かで穏やかに話を聞いてくれる彪鬼との時間が、前よりも増えて濃くなったのは確かだけれど、本当にそこにいるのか、空気のような存在に思えてくる時が時々ある。
暑さや寒さを感じない、雨や雪にも濡れない体。暗闇でもはっきりと見え、窓が閉まっていても部屋に現れる姿。
目の前にこんなにちゃんと見えるのに、ふとその実感が薄れてしまう時がある。一瞬でも何かに気を取られていたら、消えてしまうシャボン玉のように。
しばらく桜を見ていると、前から人が歩いてきた。
「ね、あっちいこ」
栞那は小さな声で石畳を指差す。
「そうだな」
いつものように土手の草の上を降りていくと、
「きゃっ!」
2・3歩下った所で栞那は慣れないローファーで足を滑らせ、とっさに隣にいた彪鬼の腕を掴んだ。その瞬間、彪鬼は栞那の手を振り払うように後ずさりした。
「わっ!うそ!」
頼みの綱がなくなり、栞那はそのままダダダっと駆け降りるしかなく、それでもなんとか転ばずに自力で立ち止まった。
「あー、びっくりした……」
とりあえず制服は汚さずに済み、栞那はホッと胸を撫で下ろした。深呼吸をしてからゆっくりと振り返る。
土手の上の方で、ぼうっと立ち尽くす彪鬼に、栞那は頭の中がカッと熱くなった。
「そんなに、拒否らなくても良くない?」
「……すまない」
栞那は、ふいっと顔を背けると、制服の事など忘れて石畳に座りこんだ。と同時に彪鬼が左側に腰を下ろした。
「栞那、すまなかった」
「いいよ、別に」
「怪我がなくて良かった」
「そうだね」
今、怪我よりも痛い何かが、ここにある。
近くにいる人が赤の他人だったら、絶対につかまらずに転ぶ方を選んだだろう。彪鬼が隣にいてくれたから、彪鬼だったら助けてくれると思ったのに。
「栞那」
栞那は、水の底を見るように、視線を川にぶつけたまま、ゆっくりと息をはいた。
初めて彪鬼を無視した。
別にたいした事じゃない。きっと彪鬼は触れられたりするのが嫌いなのだろう。それで納得して終わりにすればいいだけだ。そう思うのに、こみあげる何かに言葉が浮かばない。
「すまない栞那。人に触れられたのは、初めてだった……」
そうなんだ、と思ったけれど、すぐには素直になれない。
それは体がそう覚えてしまっているからだ。
傷つけられると、それを怒りに変える事で自分自身を守ってきたあの頃のように。
それっきり彪鬼は口を閉ざしてしまった。
沈黙の時間が流れてゆく。
こんなはずじゃなかったのに。
栞那は、膝を強く抱えながら、桜の花びらが転がって川に落ちてゆく様子を、憐れむようにじっと見ていた。
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