第25話 卒業 〈第1章 最終回〉

 鳥や風に運ばれ落とされた種は、花を咲かせる場所を選べない。日が当たらない場所でも、栄養の少ない土の上でも、根を張り光を探して出来る限りの力を使い、子孫を残し枯れてゆく。

 人もそうだ。どこの国に生まれるのかも、どんな姿をしてどんな才能を持って、どんな環境でどんな親のもとで育てられるのか、何も選ぶ事はできない。与えられたものを食べて、決められた教えを覚え成長し、生きてゆく。

 でも、人には知能があって、体があって、言葉があって、感情がある。生まれ方は選べなくても、生き方は選ぶ事ができるのだ。今こうして生きている事も少しずつ、小さな分かれ道を自ら選んでここにいる。

 それは、人だけに与えられた希望と試練なのかもしれない。


「みなさんは、今日でこの小学校ともお別れです」

 小湊先生が腫れた目をまたうるませながら、ハンカチを鼻に当てて言った。綺麗な着物を着て髪を上げた先生は、別人に見えた。

 あれほど長くてつまらないと思っていた卒業式の練習が嘘のように、本番はあっけなく終わった。

 新学期から毎日カウントダウンされていた「卒業まであと◯日」という黒板の端っこに小さく書かれていた数字が、3ケタから2ケタになるまでは実感などまるでなくて、1ケタになった頃ようやく終わりが近い事を感じた。

 寂しさや悲しみなんていう感情はなかった。ただ、校歌の伴奏を弾き終えた森田先生がハンカチで頬を拭う仕草を見た時だけ、かすかに呼吸がしづらくなっただけ。

 一馬は結局最後まで学校に来なかった。家庭の事情で引っ越したのだと先生は言っていたけど、噂では両親が離婚をしたとの事らしい。あいつがどう感じているかとか、どうしてこういう事をするのかという言動の裏にあるものを、もう気にしなくてもいいのだと思うと、栞那は心からせいせいした。

 すっきりした壁に囲まれた教室。空っぽになった机。毎日座っていた椅子なのに、まるで初めて腰かけた時みたいに落ち着かない。誰かの鼻をすする音が聞こえる。何がそんなに悲しいのか、栞那は正直わからなかった。

 

 校庭にでるとみんな写真をとりあっていた。

 栞那がうさぎ小屋をのぞくと、何匹か寄ってきて鼻をひくひくさせた。この子達にもう会えないと思うと、唯一寂しくなった瞬間だった。

「秋川さん」

 振り返ると、加奈子とグループをくんでいた徳田みのりと渡辺由衣が立っていた。そわそわしながら2人で小声で何か言っている。

「……なんか、今さらかもしれないけど、いろいろごめんなさい」

 最初に声を出したのは、みのりだった。

「私も、ごめんね」

「私達、もう加奈子ちゃんとは遊んでないの。最後だし、秋川さんとちょっと話したいなって思って、ね?」

「うん」

 さんざん泣いたのか、由依の目は真っ赤だ。

 彼女達が、秋頃から加奈子のグループから離れている事はわかっていた。けれどいきなりそんな事を言われて、栞那はなんて答えていいのかわからなかった。それに、「別にいいよ」とすぐに言えるほど簡単な出来事だったとは思えない。

「許してもらえなくても仕方ないのはわかってる。でも、私達本当は、加奈子ちゃんに言われて仕方なくやってたんだ」

「本当にごめんなさい」

 2人は小さく頭を下げた。やめてほしい。親や誰かに見られたくない。

「……うん。わかった」

 栞那は精一杯そう答えると2人から離れた。

「秋川さん、もう水泳やらないの?」

 みのりの言葉に思わず立ち止まり振り返る。

「あー覚えてないか……。私、まだ東洋スイマーズ行ってるんだ」

 はがゆく懐かしい名前だ。

「途中で辞めちゃったよね?私ずっと秋川さんの事、目標にしてたんだ」

 由依も「そうなの?」と、みのりを見た。

「そうそう。いつもトップグループでさ。すごく細いのに、早くて全然追い付かなかった。お父さんが昔水泳の選手だったって聞いて、だからフォームも綺麗だし。すごく羨ましかったんだー」

 という事は4年までは一緒に泳いでいたって事なのか、と栞那は記憶を呼び起こした。でもそう言われても正直、全くみのりの事は思い出せなかった。

「追い抜くのは無理でもいつか近くで泳げたらいいなって思ってたら、いつのまにか居なくなってて」

「もし、中学で水泳部に入るなら、どこかの大会とかで会えたらいいなって思ってる。今なら追いつけるような気がするから」

「秋川さん、旭中だよね?」

「あ、うん……」

「私達3中だからさ。じゃ、またね」

「本当にごめんね」

 みのりと由依はまた軽くお辞儀をして去っていった。予想もしていなかった事態に、栞那は少し呆然としながら彼女達の後ろ姿を眺める。

 水泳は、ただ必死にやるしかなかっただけだけど、それが誰かの目標になっているとは考えもしなかったから驚いた。

 でもそんな事より、言われたから仕方なくやっていたなんていう言い訳など聞きたくなかった。悪いと思ってやっている方が、罪深いのではないだろうか?

 どちらにしても自分達だけ謝って良い事をしたみたいな、すっきりした気持ちになっているのだろうな、と栞那は思った。ずるい人達だ。

 とはいえ、みんな完璧じゃない。誰かを知らずに傷つけている事が自分にもあるかもしれないと気づいたし、もう何かを責め続けて生きていくのは、苦しいし疲れるとわかったから。

 遠くで佐々木さんが、笑顔で誰かと写真を撮っているのが見えた。

 栞那は正門を出て、白い校舎を仰ぎ見る。

 やっと、終わったんだ。


 土手は、もうシロツメクサやオオイヌノフグリがたくさん咲いていて、茶色く枯れた葉の合間から艶のある緑色の草が地面を覆い始めていた。

 川から春の匂いがしてくると、菜の花がたくさん咲いて、ここは真っ黄色に染まるのだろう。春はもうすぐだ。

 栞那は階段に腰掛けて、見慣れた風景を見つめる。空は段々と夕暮れ色に染まり始めた。

 この水色の空が好きだ。

 この街で、この場所で生きる事を決めた。

 ちゃんと選んだ道だ。誰かに与えられたわけでも、用意されたものでもなく、自分で選んだ道。何があったとしても、言い訳をしたり、それを誰かのせいにしない。そう思うだけで、どんな事も乗り越えていける気がする。

 風が、ふわっと降りてきて、近くの草がさあっと波打ち、栞那は振り返る。

「やっぱり彪鬼だ」

 石段を降りてきた彪鬼が、栞那の隣に腰を下ろす。青葉のような瑞々しい香りが鼻をくすぐる。

「何を見てる?」

「うーん、春の色、かな」

「色?」

「景色の色が変わっていくでしよ?空だってあんな風に段々と水色からオレンジになって」

「そうだな」

 数えきれないほど、こうして彪鬼と並んで話をしてきたな、と栞那は思った。向き合っているわけじゃないけれど、それでも同じものを見てきて、これからも見れたらいいな、と思う。

「あ、この間ね、叉羅鬼が卒業のお祝いだってお花を持ってきてくれたの」

「卒業」

「すごくいい香りだったんだあ。お花とかもらった事ないから、ちょっと感動しちゃった」

「……叉羅鬼は、よく来ているのか?」

「んー時々、かな。彪鬼もこの間はありがとうね。おばあちゃんが入院した時、話を聞いてくれてほんとに良かった。すごく不安になってたから」

「もう大丈夫なのか?」

「うん。元気になったよ」

 彪鬼は相変わらず川の方を眺めている。

「……いつ、行くんだ?」

「あれ?ちゃんと話してなかったっけ?ごめん。引っ越ししない事になったの」

「そうなのか」

「親に反対されたとかじゃなくてね、ちゃんと自分で考えて決めたんだ。ここにいたいって」

 栞那は足元のシロツメグサの白い花を摘み取る。「花かんむりってどうやって作るんだっけ……。あっ、四つ葉見つけた!」

「ん?」

「ほら、みんな葉っぱが3枚なのに、これは4枚あるでしょ?」

「それが何なんだ?」

「見つけると幸せが訪れるって」

「そうなのか」

「もっとあるかなぁ」

 栞那は近くの草むらで四つ葉のクローバーを探し始めた。ひとつ見つかると続けて見つけられるものらしいけれど、なかなかそう簡単にはいかない。

「栞那」

 彪鬼が栞那の前にしゃがんだ。

「うわっ。どうしたの、そんなに⁈」

 栞那が両手を差し出すと、彪鬼の手から四つ葉のクローバーがはらはらと落ちた。

「すごーい!ありがとう」

 彪鬼には不思議な能力があるのだろうか?

 四つ葉も滅多に見つからないから貴重なのであって、こんなに大量にあると有り難みが薄れてしまうような……。でも、まぁいっか。そんな彪鬼の優しさが、面白さが、とても嬉しい。

 栞那はポケットからハンカチを取り出して、クローバー達を優しく包んでしまう。

「ね、部屋までどっちが先に着くか、競争しない?」

「俺は飛べるが?」

「いいのいいの。いくよ!よーいスタート!」

 栞那は彪鬼を置いて土手を駆け上がる。マンションに入ると同時に走るのはやめて、わざとゆっくり歩く。エレベーターのボタンを押して、はやる気持ちをなんとか抑えながら4階を目指す。

「ただいまー!」

 鍵を開け靴を脱ぐと、廊下を抜けて部屋のドアを開ける。カーテンごしに彪鬼の後ろ姿が見えた。ベランダの手すりに寄りかかって外を眺めている。


 ああ、いる。

 彪鬼がいる。

 私を待ってくれている。


 思いきり窓を開けると、土手よりも濃い青葉の香りを風が運んできた。

「彪鬼!!」

 彪鬼は、ゆっくりと振り返った。








 

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