第24話 答え

 いつものように走って下校していると、前から母親が来たのがわかった。朝仕事に出かけたはずなのにおかしい。一瞬でただごとではないのだとわかり駆け寄る。

「栞那!あー、良かった。早く」

「何かあったの?!」

「おばあちゃん……!事故にあったって!」

「えっ」

 そこからの記憶はあまりない。

 タクシーを呼び、母親と急いで祖母が救急搬送された病院を目指す。

「意識はしっかりしているみたいだから、そんなに心配しなくて大丈夫よ、きっと」

という母親の声が上の空に聞こえる。栞那は、両手の指を組み、ただただ祖母の無事を祈った。

 祖母が運ばれたのは、隣街にある立派な総合病院だった。その大きな施設にますます重篤な事故だったのではないかと不安になり、栞那は足が震えた。

「あら。ごめんねー」

 救急搬送口の脇にある部屋の、カーテンでいくつか仕切られた簡易ベッドに横になっている祖母は笑顔でそう言った。

「おばあちゃん……!」

 栞那は全身の力が抜けて溶けるかと思った。

「心配かけてごめんね」

「頭は?頭とか打ってない?」

「うん、大丈夫。一応検査してもらったよ」

「本当に良かったです……」

 母親も近くのパイプ椅子に崩れるように座った。

「ちょっと自転車とぶつかって転んじゃったのね。ただその時手をついて、小指を骨折したみたい。それだけだから」

「もう、びっくりしたよお……」

「ごめんね」

 もともと腰が弱い祖母は、転んだ後しばらく立ち上がる事ができず、近くにいた人が救急車を呼んでくれたのだと病院の人から説明があった。そして念のため、他の部分も検査をするから今日は入院する事になったようだ。

 少しホッとしたところで、栞那も看護師が笑顔で用意してくれた椅子に座り、横たわる祖母の話や先生の説明を聞いた。まだ夢の中にいるような浮遊感の中、時折救急車のサイレンが聞こえてきて、バタバタと人が行き交う様子を、まるでドラマのようだな、とどこか冷静に眺めていた。

 自転車に乗っていたのは若い女の人で、細い歩道で祖母を追い抜こうとした際に、ハンドルがぶつかったらしい。祖母いわく「とてもいい人で謝ってくれたし、たいした事なかったから大丈夫」と怒る様子もなく、穏やかに笑っていた。とにかく本当に無事で良かった。

「百合さん、ごめんなさいね。迷惑かけてしまって。お仕事もお休みできないでしょうに」

「いいえ。気になさらないでください。何か必要な物があれば言ってください。休みはもらえたので大丈夫です」

「そう、ありがとう」

 祖母も疲れたのか、しばらくして用意された車椅子に力無く乗った。一般病棟の病室に移動するのを栞那も付き添う。

 やけに音のするエレベーターに乗りながら、栞那は自分が小児病棟で入院していた時を思い出していた。ピンクの壁に折り紙で作った動物や絵が飾ってあって、絵本を読んだり音楽の聞ける小さな部屋があってわりと賑やかだった。

 それとは対照的に、この日祖母が入るのは傷だらけの壁に囲まれた6人部屋だった。薄暗い蛍光灯の明かり、病室の独特の匂いと、時折流れるナースコールの音楽。ベッドの上で独り言を言っている人や「あら、可愛いお嬢さん」と声をかけてくるヨレヨレのパジャマを着た知らない人。

 病院は元気になるために、生きるためにいる場所なのだと思っていたけれど、今日はなぜか重苦しく別世界ヘの入口に来たような気がして、栞那はなんだか居心地が悪かった。

「じゃあまた、明日くるからね」

「2人とも気をつけてね」

 今後の予定を聞いて祖母と別れる。

 家に向かう帰りのタクシーの中で、栞那は気分が悪くなった。車内の揺れや匂いがいっそう不快さを倍増させる。

「どうしたの?酔った?」

「わかんない」

 張り詰めていた緊張がほどけて安心したと同時に、吐き気がしてきた。

「栞那も少し休みなさい。おばあちゃんはもう大丈夫だから」

「うん」


 家に帰り、ぐったりとベッドに横たわる。

「はぁ、怖かった……」

 祖母が入院するなんて想像もしていなかった。

 でもそれは誰にだって起こりうる事だ。母親だって父親だって、事故に合わないとも病気にならないとも限らない。居て当たり前だった存在が急にいなくなる事だって、もしかしたらあるのかもしれない。自分達は大丈夫だと言える保証なんてどこにもない。

 もし、明日誰かが死んでしまったら。

 人はいつか死んでしまうのはわかっているけれど、初めて死、というものの怖さを知った。

 今まで仏壇にお線香を供えたり、お墓参りには行った事はあるけれど、お葬式に行った事も身近な人が亡くなった事もない栞那にとって、祖母の事故は、あまりにもリアルな「死」を連想させた。

 大好きな人と、2度と会えなくなるのは辛いし、嫌だ。そんな日は、ずっとずっとずっと先でいて欲しい。


 しばらく経った日曜日。すっかり元気になった祖母に誘われ、栞那はショッピングセンターに出かけた。祖母の右手の小指にはまだ包帯が残っていたけれど、運転は問題ないようで、腰もずいぶん楽になったそうだ。

「おばあちゃんと買い物なんて久しぶりだよね」

「そうね、栞那にも心配かけちゃったし、今日はお洋服でも買ってあげる」

「ええ?いいのにー」

と言いながら本当はとても楽しみだった。実は最近また背が伸びたせいか、しばらく服を買ってもらっていなかったせいか、長袖が短くなったり靴も窮屈になっていた。

「栞那ももうすぐ中学生だもんね、早いわぁ」

 卒業式まであと2週間だ。毎日毎日式の練習でうんざりしている。

「これなんかどう?」

 祖母が選んでくれるのは、ピンクにレースのついたヒラヒラしたスカートや、ハートの刺繍のはいったブラウスなどだ。

「スカートはちょっと……」

「そうなの?」

 薄々感じてはいたけれど、祖母とは残念ながら好みが合わないようだ。女の子は赤やピンクか定番だという人で、小さい時は栞那もそういうものだと思っていた。けれどいつからか自分が好きなもの、というのが決まってくるのは不思議なもので、栞那はどちらかというと、黒や水色のパーカーやショートパンツが好みだった。

「今日は栞那の好きなものを選んでね」

 そう言ってくれた祖母に甘えて、前から気になっていたブランドの洋服を3着と、黒いスニーカーを買ってもらった。母親が気にしてくれていないんじゃないかと気を揉んでくれたようで、下着も一緒に選んでくれた。自分からは言いにくいような事も気にかけてもらえて栞那は本当に嬉しかった。

 フードコートでオムライスを食べて、最後にはクレープもごちそうになった。

「食べ過ぎた」

「だから言ったのに」

と祖母に笑われながら、家に戻る。その車内で

「もう決めたの?」

と言われた。

「なにが?」

「なにがって、お父さんの所へ行くかどうかって言ってたじゃない」

「ああ……」

 そういえば、制服の採寸の予約を母親が勝手に入れていたのを知った時は、しばらくまともに会話をしなかった。反対なのはわかるけど、結局ちゃんと話し合いもしていないのに何も聞かずに予約するとかほんとありえないと思った。

「栞那となかなか会えなくなるのはおばあちゃんも寂しいけれど、きっと良い刺激になるんじゃないかな」

「うん、そうかもね」

 最初は自分もそう思った。

 でもこの間の祖母の事故以来、栞那はいろんな事を考えていた。

 もし、自分がいない時に祖母や母親に何かあったら誰が助けてあげられるんだろう。そして、自分が苦しい時や辛い時に、誰がそばにいてくれるんだろう、と。

 ずっと同じままではいられないのはわかっている。でも本当に自分にとって大切なものは何なのか。なにより自分がどうしたいのか、はっきり知る事ができた。そしてその時からすでに、栞那はひとつの答えを導き出していた。

 





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