第22話 リセット
1年の始まりは、青空が永遠に続きそうなほど晴れわたった気持ちの良い朝だった。
お昼少し前に着いた祖母の家の玄関には、迎春と書かれた手作りのリースがかけられていて、見慣れた景色が少しよそよそしく感じられる。
チャイムを鳴らし父親が扉を開けると、いい匂いが溢れてきた。下駄箱の上には黒い器に豪華に生けられた花が置かれ、可愛い干支の蛇の置物が2匹並んですましている。祖母のセンスの良さや丁寧な暮らし、そしてこの嗅ぎ慣れた匂いに、栞那は心がほぐれていくような安心感を覚える。
「こんにちはー」
「いらっしゃい。よく来たね、どうぞ」
「あけましておめでとう」
4人で代わる代わる新年の挨拶をかわした後、大人が近況を報告しあってある脇をすり抜け、栞那はそそくさと上がりこむ。リビングのテーブルには、沢山のご馳走が所狭しと並べられていた。
栞那は洗面所で手を洗い、和室の仏壇にお線香を供え手を合わせると、キッチンの戸棚からガラスのコップを取り出し、冷蔵庫のジュースを注いでソファに腰掛けた。
「すっかり自分の家みたいだね」
母親が呆れた声で言った。
「お雑煮食ってきたのに、もう腹減ってんのか」
父親も薄ら笑いを浮かべている。そういう自分だって持ってきたビールを、もうしっかりと握りしめながら、並べられた座布団に早々にあぐらをかいて座った。
「ゆっくりしていってね」
祖母が3段の黒い重箱の蓋を開けると、宝石箱のように色とりどりの食材が、どれもキラキラと存在を主張しているようだった。
「これも、よかったら、と思って」
少し控えめな表現とともに、母親も持ってきた重箱を開けた。母親の務めるスーパーで予約したいたおせちだ。ノルマのような空気があるのだそうで、秋川家のお正月にたびたび登場する。
4人が座り、もう1度挨拶をすると、つつましくお祝い会がスタートした。栞那の箸は栗きんとんやら伊達巻やらを、せわしなく口に運んでゆく。
「栞那は甘いのが好きだね」
「うん、おばあちゃんの手作りの栗きんとん、栗がいっぱい入ってて、最高」
煮物も買った方はダシの香りが強かったけれど、味はやっぱり祖母の手作りの方が食べ慣れているせいか美味しい。けれど母親の機嫌を損ねないよう格付けはしないでおく。
毎年お正月には必ず帰ってくる父親は、30日から3日までこっちに居れるらしいけど、母親の休みは今日までなので、家族旅行や出かける予定はなにもない。
両親が家にいるとなんとなく落ち着かないので、栞那は祖母の家に今日から3日間泊まる事にしていた。それがなにより楽しみだったので作文や習字なんかの面倒な宿題を頑張って終わらせてきたのだ。
お年玉ももらって話も弾み、ほろ酔いの父親が3本目のビールを開けた時だった。
「栞那、お父さんの所へ来ないか?」
栞那は箸と口の動きを止める。穏やかに会話していた祖母と母親も一瞬で視線を父親に向けた。とうの父親はテレビに話しかけているように、誰とも目を合わせないまま、言葉を発したようだった。
栞那は口の中のものをゆっくり飲み干す。その間のみんなの沈黙がとても長く感じた。
「どうして?」
「ああ、とてもいい所なんだよ、お父さんの今いる所」
「それって、引っ越すって事?」
「そうだな」
「えぇー、急だね」
「まぁ、そうかもしれないけどな。あっちは海も近いし、川の水も透明でとても綺麗なんだ。お父さんなんか毎週釣りに行ってるよ。近くの学校の生徒数は少ないみたいだけど、みんなのびのびとしてるよ」
「ふぅん」
「水遊びとか好きだろう?川に飛び込んで泳いだりできるぞ」
テレビの画面は、ハワイの生中継を映し出していた。綺麗な海や川で泳いだりできたらさぞかし楽しそうだ。でも、という事は、
「転校するってこと?」
「いや、卒業してからの話だよ。中学からあっちの学校だったら、新しい環境で条件は一緒だろう?近くの中学校は綺麗なプールがあったぞ」
きっと、まだ父親は水泳を続けてほしいと思っているのだろう。たしかにそれしか取り柄がなかったのだから、それを伸ばすべきだと考えるのが普通なのかもしれない。
けれど目標を持ってそれに向かって無理をする事も、それが報われたとか報われなかったとか思う事も、疲れてしまった。とはいえ、せっかく気分良くなっている父親にそれを言うべきではない事もわかっているので、栞那はまた気持ちを胸にしまった。
それに卒業まであと3ヶ月もない。急な話に栞那も頭が整理できないでいると、
「いくら中学生でも1人で、パパがいない時は食事とかどうするの?いろいろと大変よ」
黙っていた母親が口を開いた。
今までだって充分1人でなんとかやってきたんだけど、と言いたいのを栞那はこらえる。
「いや、みんなで、だよ」
「はあ?」
「え?」
祖母と母親の同時に吐き出された言葉で、不穏な空気に変わったのを栞那は感じた。
「また、勝手なことを」
祖母が呆れたようにつぶやいて、キッチンに消えてしまった。
「私は仕事、今は辞められないからね。人手不足で忙しいのに」
母親もトイレに去ってゆく。ひるまず父親は振り返ると続けた。
「まあ、マンションはまだ買い手がつくだろう。ここも悪くない場所だけどな」
顔をほんのり赤くした父親の目は潤んでいるのか、好奇心を隠せない子供のように光っていた。もしかしたら、本当は家族みんなで暮らしたいと、父親は望んでいたのかもしれない。
「栞那、犬が欲しいって言ってただろ?しばらくは今の社宅にいながら、土地を探していずれ一戸建てを買おう。広い庭の」
「うっそ!やった!」
「高校もそんなに遠くない所にあったしな」
父親はいつのまにかしっかりと栞那を見て話をしていた。高校の事まで考えているなんて結構真剣に引越しを考えていたのかもしれない、と栞那は思った。
なんだかとてもドキドキする。新しい環境の始まりは未知数だけれど、不思議と不安よりも期待の方が膨らんだ。
今までの自分を知らない人達の中で暮らす。新しい自分になって何かがやり直せる気がする。
リセットという言葉はとても魅力的だ。何度そうできたら良いと考えたことだろう。全てを壊して、始めからやり直す事ができたなら。引っ越しはそれに近い変化になるに違いない。
「栞那ー、ちょっとこれ持っていって」
祖母の呼びかけに栞那は席を立つ。母親が戻ってきたのが合図のように、もうそこからは誰も引越しの話題に触れる事はなかった。
夕方、母親の運転で両親はマンションに帰っていった。きっとこれからケンカが勃発するのだろう。今日から祖母の家に泊まる事にしておいて本当によかった、と顔を合わせない2人を見送りながら栞那は思った。
「やっぱりさぁ」
栞那はみかんの皮をむきながら、なるべくさりげなく「おばあちゃんは、引越したくないよね?」とそっと聞いた。
「まあねぇ、住みやすくていい所だしね」
栞那もこの街はそこそこ気に入っていた。目の前を流れる川と、庭代わりの土手、図書館も近いし、大きなお祭りや花火大会もある。少し足を伸ばせばショッピングセンターや百貨店も密集していてわりと都会だし、反対に内陸に向かえば小さな山もあり、ふもとには田んぼが広がり、自然豊かでキャンプ場もいくつかある。
ずっとここに住んできた祖母にとって、それ以上の何かがなければ、きっと心動かされないだろうな、と栞那は思っていた。
「栞那は、お友達と離れたら寂しくないの?」
「あー、そっか」
そう言われるまで、そんな事は全く浮かばなかった。むしろ離れられる方が都合が良いと思っていたのだから。
新しい土地で新しい人との出会い。生徒数が少ないという事は、グループを作ったり、いじめや派閥もなさそうだ。それに自然の中での暮らしに、そんな事が小さくくだらない事に見えるかもしれない。
栞那はわずかな期待に胸を躍らせていた。
「明日、初詣に行こうか」
祖母がテレビを見ながら言った。引越しの話は祖母には完結しているようだ。
祖母と離れるのは寂しいけれど、気持ちはかなり揺らいでいた。もう少し詳しく父親と話ができる機会をどう作ろう。どんな学校なんだろう。どんな犬にしよう。
その日の夜、祖母の家の匂いが染みついた布団の中で、栞那はなかなか寝付けなかった。
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