第20話 秘密
今年は暖冬になると予報では言っていたけど、それでも11月ともなると、ここ数日は冷え込みが強く、栞那は昨夜ひどい寒気がしてよく眠れなかった。
朝方早くに目が覚めて、トイレに行こうとして立ち上がると、フラフラとよろけてしまい、何かおかしいと思って熱を測ると38度を越していた。
ちょうど母親が休日で良かった、と思った。昼間はおかゆを食べた後ほとんど寝ていて、買い物に行くと母親が出ていった後もまたしばらく眠っていたようだ。せっかく学校を休めたのに、体がダルくて1日何もできなかった。
ずっとベッドの上で退屈だなぁと寝返りをうつと、本棚の前に彪鬼が座っているのが見えた。
いつのまに……!
部屋は薄暗く、もう下校時刻を過ぎた頃だろうか。でも、まさか寝ている時に彪鬼が来ているなんて。こんな事は初めてだ。
彪鬼は音も立てず、本のページを黙々とめくっている。真剣な眼差しだけれど、対象物は相変わらず少女漫画だ。そんなに漫画が読みたかったのだろうか……。
声をかけようとして、踏みとどまる。もしかしたら。急に心臓がドキドキしてきた。
栞那は起きている事を気づかれないように薄目で彪鬼を観察する。いつもはこちらの視線を気にして笑わないのであって、誰も見ていない所だったら、笑うかもしれない。心臓の激しい鼓動と同じように頭もズキズキと波を打つように痛みが増す中、栞那はじっと観察を続けた。
しばらく見ていても全く表情の変わらない彪鬼の様子に、栞那は虚しくなってやめた。一体彪鬼は何を楽しいとか面白いとか思ったりするのだろう。
すると、彪鬼は本をそっと閉じて立ち上がった。栞那は思わず、ぎゅっと目を閉じる。別に寝たふりをする必要なんてないのだけれど、黙って見ていた事がなんだか後ろめたくて、体が勝手に反応してしまった。
しばらく静かな時間が過ぎ、彪鬼は行ってしまったのだろうな、と目を開けると、腕を組み窓際にたたずみながら、じっと外を眺めていた。帰らないのだろうか。
「……彪鬼」
思わず声をかける。
振り返った彪鬼は、小さなテーブルの脇に寄り、静かにあぐらをかいた。
「大丈夫か?」
「ん?」
「具合が悪いのだろう?」
「わかるの?」
「ああ」
栞那は起き上がろうとしたけれど、腕に力がはいらなくて諦めた。
「誰もいないのだな」
「うん、お母さん、買い物に行ってる」
「そうか」
「ごめんね。せっかく来てくれたのに。私は大丈夫だから、見回りに行ってきてね」
「でも、1人では困るだろう」
彪鬼はベッドにそっと近づいてきた。すると右手の手のひらを見せるように、栞那の顔の前にかざす。そこから冷んやりとした風がこぼれてきて、火照った頬を包むように覆った。
「あ……冷たい。気持ちいい」
栞那は目を閉じると、青白い景色に意識が遠くなっていくのを感じた。
そして再び目を開けると、天井がぼんやりと見えた。寝返りを打つと、彪鬼が本棚の前に座っている。
あれ?さっきのは夢?
けれど、今度の彪鬼は漫画を読んでいない。あぐらをかいたまま、腕を組んでうつむいている。目は閉じているようだ。寝ているのだろうか……?
栞那は、そうっとベッドから降りる。思ったよりすんなりと体は動いた。四つん這いのまま静かに近づいて、うつむく彪鬼の顔を覗きこんだ。もしかして、あれからずっと居てくれたのかな。
長い前髪が、彪鬼の顔から少し離れているのを見て、前から気になっていた事が栞那の胸の中でざわつきだした。栞那は右手をゆっくりと伸ばし、彪鬼の髪に触れようとした。
「……どうした?」
彪鬼が急に目をあけて、栞那は飛び上がるほど驚いた後、ぺたん、とお尻をついた。
「びっ、びっくりした……」伸ばした手を慌てて引っ込める。
「……何をしようと?」
低い声にドキッとする。
「な、何もしてないよ!ちょっと、髪が気になったから……」
「髪?」
「そう、前髪!どうなってるのかなって」
「何が?」
「左目が」
彪鬼は、眉をひそめて顔をそらした。
怒らせてしまっただろうか。でも怒ったのならもっと態度に出せばいいし、言えばいい。やっぱり何を考えているのか全然わからない。
彪鬼のはっきりしない態度に一瞬イラっとしてしまった自分を、栞那はすぐに後悔する。
ほんの冗談のつもりだったけれど、あまりにそっぽを向いて何も言わない彪鬼に、栞那は事の重大さに気づいた。
「……勝手な事しようとして、ごめん」
彪鬼の横顔に告げる。
すると、彪鬼はゆっくりと栞那の方を向き、
「いや、……かまわない」
左手で長い前髪をかきあげた。
そこには──
赤い瞳の右目とは全く違う、光のない静かな、悲しみを帯びた色の瞳があった。
白い水面に墨汁を一滴落として輪郭すらぼやけて滲んでいるような、それでもようやく形を保っているような、あやふやな存在。
輝くガラスのような赤が、何かを与え映し、跳ね返すものだとしたら、それは全てを塗り替えて、消し去ってしまう黒。
初めて見る、瞳と呼べるのかもわからない存在に、栞那は恐怖で鳥肌が立った。すると、そのどこを見ているかわからない黒目のようなモノが、もやっと自分の方に向いた。
「やっ……!」
思わず声が出て、慌てて手で口を塞いだ。
彪鬼はすぐに前髪を下ろすと立ちあがる。栞那も足に力を入れたけれど、腰が抜けてしまったのか、熱のせいなのか、立てない。
「あ、ありがとう」
なんとかそれだけ伝えると、彪鬼は振り向く事なく「脅かしてすまなかった」と、小さく言って消えてしまった。
そんなつもりじゃなかった。ちょっと遊び半分でふざけてみたかっただけだ。でもきっと気味が悪いものでも見るような態度に思われてしまったに違いない。どうしよう。
叉羅鬼と出会って、鬼も人と同じように気持ちや感情があるのだと知ってから、彪鬼の顔を隠す前髪をうっとうしく感じるようになった。髪が無ければもっと彪鬼の感情がわかるかもしれない。長い前髪に何か理由があるのかもしれないと思いながらも、深く考えようとはしなかった。
きっと彪鬼は、わかっていたんだ。その目を見た時に自分がどんな反応をするかを。それできっと迷って、それでも彪鬼は自分のわがままに答えてくれたのに。
とても怖かった。そしてとても優しくて悲しかった。
彪鬼は、それから1ヶ月来なかった。
真っ白な空から、一粒、二粒と雫がおちてきて、冷たさに肩をすくめて、栞那はぼんやりと歩いていた足をとめる。見上げてぽかんと口から出た息が、大きく膨らんで空の白と重なる。
今日は雪になるかもしれないから、と母親に待たされた折り畳みの傘を、両手に抱えた荷物の中から取り出そうとして、面倒になってやめた。と同時に憂鬱な感情がまた湧いてきて、ため息が目の前で散る。
栞那は部屋に入ると、スイッチを入れたヒーターの前でしばらく手を温めててから、ランドセルの中の冬休みのしおりを取り出す。宿題の内容を早々に確認して、机に向かいそれらの準備を始めた。
今までたくさん周りの人を責めてきた。自分の弱さやだめな所を責めてきた。けれど、そんなのとは比べ物にならないくらい、とても苦しい。
ひどい事をしてしまった、と思った。
もちろん、悪気があってした事ではない。けれど意図的かどうかに大きな差はあるのか。所詮自分も、人の嫌がる事をして喜ぶ人達と同じなんだ。
栞那は宿題を少し進めると、本棚の前に行き、彪鬼が読んでいた漫画を手にとった。パラパラとページをめくりながら読み返してみても、笑う気持ちには全くなれなかった。
しだいに部屋が暗くなり、電気をつける。窓の外が気になり、カーテンを少しめくると、はらはらと白いものが舞っていた。と同時に人影を見つける。
彪鬼だ!
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