第18話 笑顔の伝染
あれから、すぐだった。
夕暮れ時、コンコンと窓を叩く音がした。見るとあの叉羅鬼が立っている。栞那は宿題のノートを閉じて窓を開けた。
「こんばんは」
叉羅鬼は、静かなゆっくりとした口調で挨拶をした。ヘラヘラした様子は全くない。
「どうぞ」と栞那が言うと、
「お招きいただきまして、ありがとうございます」
と、ペコリと頭を下げた。
この間のでかい態度はどこへいったのだろう。まるで別人のようだ。
叉羅鬼が履いていたのは、下駄ではなく雪駄というものなのだと調べてわかった。その履き物をベランダで丁寧に脱ぐ。別に汚れたりしないのだから構わないし、すでに前回ずかずかとやってきてベッドにまで座ったのだから今更なのに、やっぱりなんだか変だ。
用意した座布団に、背の高い叉羅鬼が小さく正座した。
「先日は、大変失礼いたしました」
手を床について、体をゆっくり前に倒した。
「えっ、ちょっと……」
演技なのだろうか?ふざけているわけではなさそうだけど、こちらの調子が狂う。
真面目にしているはずの叉羅鬼の周りの空気が、なぜか楽しげに、面白げに伝わってくるのが不思議だ。そういえば外はもう暗いのに、部屋の灯り以上に急に明るくなったように感じる。
「もういいよ、こっちこそ急に怒ったりして、すみませんでした」
栞那がベッドに座ると、叉羅鬼が頭をあげて、上目遣いでチラッとこちらを見た。
「もう、怒ってない?」
「うん」
「ほんと?」
「ほんと」
「はぁー、良かったーっ」
とたんに顔から火花でもでるかのように、ぱああっと笑顔になった。やっぱり演技だったんだ、と思ったけれど、まるで欲しいものを買ってあげるよ、と言われて喜ぶ子どものような素直な反応に責める気も起きなかった。そのくせ大きな体は足を投げ出したかと思うと、あぐらをかいてテーブルに頬杖をつき、ニコっと笑った。
「ありがとう」
その笑顔にドキっとする。
「……あ、そうだ、何か飲みますか?」
「いや、大丈夫だ。おかまいなく。大人みたいな気遣いができるんだな。すごいな」
「別に、そんな……」
栞那は顔が赤くなったのがわかった。
そういえば、彪鬼にはそんな風に気を使った事は1度もなかったのにな、と思った。
「それにな、オレ達はこっちの物は口にできないんだ」
「え、そうだったの?」
「まぁ果物とかなら平気だけどな。あと酒ね」
「へぇ、知らなかった」
「それに食べたい時は食べたいとか、欲しい時は欲しいって言うし。ほら、そういう性格だから、オレ」
悪戯が成功した時のような誇らしげな顔でニヤっと笑った。
「そんな感じする」
ちょっと皮肉っぽく言ってみたのに、へへへ、と嬉しそうにまた笑った。本当によく笑う鬼だ。彪鬼とは全く正反対といってもいいくらいだ。
「ところでさ、栞那は……って、あ」
「何?」
「栞那って呼んでもいい?」
「え?」
「だって、なれなれしいって怒られたら嫌だし。栞那ちゃん?栞那さん?」
「別にもう怒らないよ。栞那でいいよ」
「じゃあ、叉羅鬼でいいぞ」
思わず、ふふっと栞那は笑う。
「オレ、あれからずっと気になっていたんだけど、嫌われてるってどういう事?」
確かにそう言った気がする。
「そんなに意地悪な子なの?栞那って」
「そう見える?」
「いや、見えない。むしろ可愛い」
「……はあ?」
「ははっ。いや、わかってる。あー、怒らないで。ごめん!」
「別に怒らないけどさ……」
叉羅鬼の見た目はどう見ても大人だけれど、真面目に話すつもりがあるのか、笑わせようとして言っているのか、よくつかめない。
でも、この間はあんなに感じ悪いと思っていたのに、こうしてちゃんと話をしてみると別に嫌な気分にはもうならない。拒否するのではなく、受け入れようと思うだけで、こんなにも違うものなのだろうか。
叉羅鬼の周りを漂う、ふわふわとした雰囲気は、妙に心地良かった。それに、大人っぽいや可愛いも初めて言われた言葉で、心の中ではちょっと嬉しいと思っている自分に気づいたのだ。絶対に悟られたくはないけれど。
「真面目に聞くつもりある?」
「もちろん!」
「私、友達がいないんだ」
「1人も?」
「そう、遊ぶ子も、話す子もいない」
「どうして?」
「なんか面倒くさくて。だからなるべく関わらないようにしてた。1人の方が気楽だったし、そしたら誰も近寄って来なくなった」
「それで嫌われていると?」
「だって、嫌な奴でしょ。私も別に周りの人の事なんて興味ないし、知られたくもないから」
「ふうん、そっか」
期待通りの軽い返事。人に話したら面倒で重くなりそうな言葉も、鬼にとっては些細な事に聞こえるのだろう。叉羅鬼も彪鬼みたいに、過剰に聞いてきたりあれこれアドバイスしたり、そういう事はやっぱりしないのだな、と思った。もちろんそれでかまわない。
悩みを打ち明けようとか、誰かに相談しようと人間の大人は言うけれど、その先が見えてしまうから言いたくないのだと、いつになったら彼らは気づくのだろう。というか、言われなければ、聞く気はさらさらないという事だったのかもしれない。
「ところでさ、栞那は彪鬼と何か約束でもしてるの?」
「うーん、まぁ約束っていうか、私が、友達になって時々来て欲しいって言ったから……」
「へえ!そんな事あいつに言ったのか!」
叉羅鬼の頬を支えていた腕が、どん、とテーブルに倒れた。栞那にとっても生まれて初めて言った衝撃のひと言だったのだけれど、そんなに驚く事だろうか、と栞那は思った。
「まあ、鬼と友達なんて、そりゃ興味本位だろう?」
「そんなつもりじゃ……」
別に鬼だから、とかそういう理由で言ったわけじゃない。
「助けてくれたし、話を聞いてくれたし……」
「じゃあ、自分を守ってくれて、優しい奴だけ友達になるんだ?」
ズキンと胸に刺さるような言葉だった。穏やかそうな笑顔がじっと答えを待っている。自分に都合の良い相手を選んでいるずるい人間。そう叉羅鬼は言いたいのだろうか。
「栞那、オレの見た所、君に邪気はほとんどないようだ」
「え……そうなの?」
「なるほどねぇ、まあ、あいつはあまり自分の事を話さないからな」
「彪鬼の事?」
「ああ。でもきっとどんな無茶な約束でも、願いでも、聞こうとするだろうな、彪鬼は」
それは、やっぱり約束したから仕方なく来てくれているという事なのかもしれない、と栞那は思った。それでも興味本位で、気まぐれに友達になって欲しいと言ったわけではない。
そう思うのに、叉羅鬼のさっきのひと言が
どこかに刺さったままで言葉にならない。
「じゃあ、こうしよう」
パチン、と叉羅鬼が手をたたく。
「とりあえず、栞那を嫌ってるってやつ、教えて」
「なんで?」
「オレが行って、脅かしてきてやる」
「ええーっ?!」
「そうすれば、オレとも友達になってくれる?」
「……え?」
しばらくあぜんとして、可笑しさと安心感が込み上げてきて、ぷっ、と栞那は吹き出した。
頬杖をつきながら、ゆったりとこちらを見ている叉羅鬼の笑顔は、ふわふわと身をまかせて揺れる綿毛のように、どこかに飛んでいってしまいそうな羽のように、軽やかで気まぐれに自由な風をまとう、そのもののような気がした。
「何がおかしいんだよ」
「だって、冗談でしょ?」
「オレらは鬼だからな。人を脅かす事なんて簡単なんだよ。ご要望とあればいつでも」
「大丈夫だよ。嫌われてたってもう平気」
「いいや。自分を嫌うのは終わりにしろよ、栞那」
叉羅鬼は、ふっと立ちあがる。
自分を嫌う?嫌っているのは周りなのに。
栞那はぽかん、と叉羅鬼を見上げた。
「じゃあ、そろそろ帰るわ。誘ってくれて嬉しかったよ」
「あ……うん」
叉羅鬼はベランダに出ると、またニッコリと笑って手を振った。思わず手を振り返す。
「その笑顔、やっぱ可愛いって」
じゃ、と叉羅鬼は消えてしまった。
栞那はそれを追いかけるように、空に消えた風をいつまでも見ていた。
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