第17話 知るということ

 彪鬼はベランダに降り立つと、右目をパチっと見開いて叉羅鬼と栞那の顔を交互に見た。

「叉羅鬼……、なぜここに?」

「いや、すまん。ちょっと気になってな」

 彪鬼は眉をひそめて、少し困ったような顔をした。それは栞那が初めて見た、彪鬼が表情を変えた瞬間だった。今までどんな本を読んでいても、いろんな会話をしても変わらなかった彪鬼の、初めて見せた感情のような気がした。

「何か、あったのか?」

 彪鬼は叉羅鬼にではなく、こちらをしっかりと見てくれた。

「あー、オレが悪いんだ。なんか怒らせちゃったみたいで。だから、すまん、帰るわ」

 頭をわさわさと掻きながら、逃げるようにベランダに出てきた叉羅鬼の腕を彪鬼は掴んだ。

「いやいや、オレは何も怒らせるつもりはなかったよ。可愛いとかモテるとか言ったのが気に障ったのなら謝るよ」

「別にそれがどうとかじゃ……」と言いかけて、自分でも何に腹を立てていたのかわからなくなった。2人の視線が自分に注がれ、しばらく無言の時間が流れる。

 自由気ままで相手に気を使う素振りなどなかった叉羅鬼の態度に気分が良くなかったのは確かだけれど、特に何かをされたわけでもないし、傷つけられたわけでもない。結局モヤモヤしたまま、なんだか面倒くさくなって「別にもういいよ」とだけ言った。

 すると叉羅鬼は彪鬼の手をそっと離し、栞那の前に立った。

「オレはな、いや、オレはこんな性格だから、それが嫌だったのなら申し訳ない。でも嘘を言ったつもりもないし、悪気もなかったのは本当だ」

 その言葉に栞那はそっと顔を上げてみた。叉羅鬼はとても真剣な表情で栞那を見つめていた。その瞳に息をのむ。この人もなんて綺麗な瞳をしているのだろう。

「それじゃあ」

 そう言って、叉羅鬼は乾いた秋の風のように軽やかに空へ消えてしまった。

 

 風の音が遠くなると、街に5時のチャイムが鳴り響いた。叉羅鬼が消え、彪鬼のいるベランダに栞那も出ると、風が少し冷たかった。

 突然現れて言いたい事だけ言って勝手に去っていった小さな嵐は、栞那の中でまだ渦巻いていた。

「はぁ……」

 手すりに体を預けて大きくため息をつくと、側にいた彪鬼も手すりに腕をのせた。

「叉羅鬼は、嫌か?」

「え?嫌っていうか、だって勝手に人の部屋に来て、好き放題言って……。いきなり仲良くなんてなれないよ」

「勝手に部屋に来たのは俺も同じだ」

「まぁそうだけどさ……ううん、なんていうか、でも全然違う」

「そうか……」

 彪鬼の声がため息まじりに聞こえた。

「叉羅鬼って前言ってた仲間?友達なの?」

「友達?」

「仲が良いってこと」

「争った事はない」

「へえ……そうなんだ」

 ヘラヘラ笑ったり、女の子に可愛いとか言ったり、彪鬼はそんな事きっとしない。でもそれはなんとなくそう感じるだけで、もしかすると知らないだけで、勝手に想像した彪鬼の姿をそう思い込んでいるだけなのかもしれない。

 紫月鬼や叉羅鬼という人達が登場したせいで、1対1だと思っていた彪鬼との関係が急にあやふやなものに変わっていく気がした。

 そう思うと、彪鬼の事も、彪鬼の気持ちも、本当は何も知らない。

「叉羅鬼は、彪鬼とは全く違うね」

「そうだな」

「いろんな人がいるように、いろんな鬼もいるんだってよくわかったよ」

「すまなかった」

「なんで謝るの?彪鬼は関係ないじゃん」

「叉羅鬼に怒っていたのだろう?」

「だから、彪鬼には関係ないよ」

「関係なくはない」

 彪鬼の少し強い口調に、栞那は顔をあげた。やっぱり今日の彪鬼はいつもと違う。

「俺は……、叉羅鬼に、助けられている」

「助けられている?」

「ああ、俺にはないものを持っているから」

 彪鬼のその言葉に、栞那は胸が締め付けられるような気がした。それは、初めて聞いた彪鬼の気持ちだった。

 自分を助けてくれて、自分にないものを持っている人を想う気持ち。もしかしたら、彪鬼にとって、あの叉羅鬼という人はとても大切な人なのかもしれない。

 表情や感情が変わらなくて、いつも何を考えているのかわからない彪鬼にも、きっと人と同じように沢山の気持ちがある事に、本当は気づかないフリをしていたのだと思う。

 自分の事ばかり夢中になって話していたのは、全てを認めてくれる存在に、いつか「それは違う」と否定される日がくるかもしれない、とそれが1番怖かったからだ。だから相手の気持ちなど深くわからなくてもいいと、きっと心のどこかでそう思っていた。知ろうともしなかった。

 叉羅鬼を想う彪鬼の気持ちに、栞那は自分の身勝手さを突きつけられた気がした。

「彪鬼にとって……、叉羅鬼ってどんな人?」

「叉羅鬼は、いつも笑っている」

「確かに。来てからずーっと笑ってた」

「そうか」

「でもね、私がムッとしたら急に泣きそうな顔になってね」

 その場面を思い出したらなんだか可笑しくなって、栞那は思わず、ふふっと笑った。

 その瞬間、あ、と栞那は思った。

 彪鬼の横顔がほんの少し柔らかくなったように見えた。そしてその穏やかな表情のまま、彪鬼は栞那の方を向いて、そっと目を細めた。

「叉羅鬼の周りの人間は、必ず笑う」

 その優しくも、寂しくも見える眼差しに、栞那は改めて気づく。

 彪鬼は、どうして笑わないのだろう。

 空を見上げた彪鬼の横顔に、部屋の灯りが影を浮かび上がらせてゆく。なんとなく、今日はまだ帰って欲しくないと思った。暗くなってゆく空に焦りが募る。

「もうすぐ、見回りだよね?」

「そうだな」

「見回りって、叉羅鬼もやってるの?」

「ああ、手分けして邪気を払うんだ」

「そっか、大変なんだね。じゃあ私は、まだその邪気があるの?」

「なぜ?」

「だって、だからこうして来てくれているんだよね?」

 彪鬼は、「ああ……」と小さく言った。

 もしかしたら、彪鬼の本当の気持ちはちゃんと別の所にあって、自分が言った「友達」という約束に縛られて、ここに来てくれているだけなのかもしれない。ずっと避けたかった疑問から、もう目をそらす事はできないな、と栞那は思った。

「ねえ、彪鬼」

「なんだ?」

「今度叉羅鬼に会ったら、もう1度来てって伝えて」

「いいのか?」

「なんか、叉羅鬼ともっと話してみようかなって思えてきた」

「……そうか」

「彪鬼の事も、いろいろ聞いちゃおうかな」

 彪鬼の一瞬丸くした目が、またゆるやかに細くなってゆく。そして、

「また、来る」

と、言って彪鬼は風と空へ上っていった。

 栞那は願うような気持ちで、そっと風につぶやいた。

「うん、待ってる」

 今まで、なるべく周りの人と関わらないように、深く知らないようにしてきた。それは自分を守るためでもあった。傷つくのが怖くて、がっかりするのが苦しくて、知らない方が良かったと、もう思いたくないから。

 でも今は、彪鬼にないものを持っていて、彪鬼を助けてくれる人。そんな人ともっと話をしてみたいと素直に思えた。

 そしてそれはきっと、彪鬼を知る事になるのだろう。



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