第15話 明日という希望

 帰りの挨拶が終わると、教室から飛び出すように家に帰るのが栞那の日課になった。

 今日は彪鬼が来てくれるかもしれないと思うと、学校での嫌な出来事など気にもとまらなくなった。だって、鬼という友達が自分にはいるのだから。約束して来てくれるのだから。だからきっと自分は他の人とは違う、特別な存在なんだ。

 栞那にとって1番の話し相手だった祖母も、今日は居ないでくれていいと思うようになっていて、そんな薄情な自分に少し引いてはいるものの、とにかく1人で彪鬼を待つ時間がなにより待ち遠しかった。

 彪鬼は、約束どおり夕暮れ時に時々きてくれた。特に何をするわけでもなく、空が暗くなってゆくほんの短い時間を、ベランダでただ話をする。

 もちろん「つの」はあるのか、とかどこに住んでいるのか、とか気になる事もたいてい聞いた。彪鬼はその度に少し間を置きながらちゃんと答えてくれた。(ちなみに、つのはないらしく、つのとは何だ?と言われた。)

 友達と遊ぶ、というのとは少し違うのかもしれない。それに、彪鬼は質問には答えてくれるけれど、自分からはほとんど話をしない。人の生活や行動もよく知らないようで、人にとっては当たり前だと思う事も、関心するように彪鬼が聞くので、栞那は得意げにたくさんの事を教えてあげた。

 そして、この世には、鬼や人ではないモノ達の世界が幾重にもあるらしく、人には見えないもの、聞こえないものが本当は沢山あるのだと彪鬼は教えてくれた。どの話も本当に不思議で、栞那は夢中になって彪鬼に話しかけた。いつもあっと言う間に時間が過ぎ、それでも話はつきなくて、栞那は意外にも自分がおしゃべりだった事に気づく。

 そんな足早に過ぎてゆく時間の中で、空が夕焼けに染まり段々暗くなると、何かに呼ばれるように彪鬼は消えてしまう。

 ベランダに1人残されて眺める夕焼けが、いつからかまるで別の世界を見ているように、どこか懐かしく暖かく感じられるようになった。

 夕焼けがゆううつで、夜が嫌いだったのはその先に朝が来るから。また学校へ行かなくてはいけない1日が始まる。

 けれど今は、明日が怖くない。たとえそれがどんな未来であっても。目の前にある現実とは違う世界の確かな感覚が、ただひとつそれを支えてくれている。

 彪鬼を見送った先の星をしばらく眺めていると、玄関から慌ただしい物音がした。帰ってきた母親を栞那は出迎える。

「おかえり!今日のご飯なに?」

 給食も残さず食べられるようになったのに、たくさん話をしたせいかお腹がペコペコだ。

 栞那は荷物をキッチンに運ぶと、夕飯の支度を手伝う事にした。


 彪鬼は、本を読むのが気にいったようだ。

 10月に入り、ベランダに冷たい風がやってくるようになると、栞那は彪鬼と部屋の中で話す事にした。

 ある日、彪鬼が本棚をじっと見ていたので「何か読んでもいいよ」と勧めると、それ以来彪鬼は来るたびに本を読むようになった。

 それは、時には図鑑であったり、小説だったりして、続きが気になるのか栞那の部屋に入るなり迷わず一冊の本を手に取ると、すっとその場にあぐらをかいてページをめくるのが日課になった。

 その姿を横目に栞那は机に向かい宿題をしながら、時々彪鬼に話しかける。そんな時間がいつしか当たり前のように、夕方の部屋に流れてゆく。

 学校の後の、1週間に1度ほどの、日が沈むちょっと前の、きまぐれなひととき。そんななんでもない時間をただ一緒に過ごしている。それだけなのに、心が落ち着いて、安らかで、包まれるように温かい。

 栞那は頬杖をしながら本に夢中になっている彪鬼を眺めた。さらさらとページをめくっていく様子をぼんやりと見つめる。

「……彪鬼、どこまで読んだの?」

「5冊目だ」

「読むの早っ」

 彪鬼の視線は、本に注がれたままだ。

 彪鬼は、文字は読めるけれど意味がわからないものがあるらしく、本はとても興味深いと言っていた。

 これは何と読むのか、意味は何か、と時々聞かれるので、時には辞書からその意味を探しては教えてあげたりして、そんな不思議なやりとりが栞那はとても楽しかった。

「今は、何読んでるの?」

と、聞くと彪鬼が表紙を見せてくれて栞那はぎょっとする。少女漫画だ。しかも恋愛漫画。登場人物がありえないほど個性的で、笑いあり涙ありの王道ストーリーは、確かに面白くおすすめの漫画ではある。

 お小遣いをもらっては大切に残しておき、発売日に本屋にかけこんだ栞那にとっても思い入れのある漫画だ。ただ、男の子向けではないと思うけれど……。

「……それ、面白い?」

「ああ」

「ほんとに……?」

 栞那は眉をひそめる。だって彪鬼は一切笑わないどころか、表情すら変えない。

 格好こそ今の時代とは釣り合わないけれど、こうして漫画を読んでいる姿は普通の男の子と変わらない。なのに、恋愛少女漫画を毎度真剣に読んでいる様子はやっぱり面白すぎる。

「栞那」

 彪鬼がページを開いて指を指して「これはどういう意味だ?」と聞いてきた。近づいてその場面を覗くと、主人公の女の子の脇に「きゅん……」と書いてある。彪鬼の表情はいたって真面目だ。

「ええ……?」

 栞那はとりあえず辞書を取り出して「き」の欄を目で追ってみる。

「辞書には載ってないみたい。たぶん、胸が苦しくなる、みたいな感じ?じゃないかなぁ」

「そうか」

 彪鬼はまた漫画の世界に戻っていった。栞那はそっと辞書を閉じて彪鬼を見つめる。

 鬼も、恋愛、するのだろうか。

 放っておいたら彪鬼はずっと漫画にはまってしまうかもしれないな、と栞那は思いながら宿題を片付けると、ベッドの上に移動して「ふう〜」と伸びをした。

「この間のマラソン大会、135人中、80位だったんだ」

 栞那が話し始めると、彪鬼は漫画を閉じて顔を上げた。

「予行の時はほとんど最後だったから、かなり頑張った方だと思うんだよね」

「そうか」

「あ、あとね、学力テストで社会が94点だったんだ。今回ちゃんと勉強したし」

「そうか、良かったな」

「うん、良かった!」

 彪鬼が全てを理解しているとは思わないけれど、それでも構わなかった。どんなささいな事でも彪鬼はいつも真剣に聞いてくれて、穏やかに答えてくれた。もっと頑張れ、とか、こうした方が良かったのに、なんて事も一切言わない。

 作文が上手だと先生に褒められた事や、掃除が丁寧だと言われた時も、すぐに彪鬼に報告した。「そうか」と答えてくれるたびに栞那は舞い上がるほど嬉しかった。

 はたから見れば全然大した事ではないけれど、あたかも自分がすごい事を成し遂げたと錯覚してしまうほど、彪鬼の一言は魔法のようだった。

 先生やクラスメイトの不満や悪口も、世の中の不公平さや矛盾を訴えても、彪鬼は否定もせず自分の考えを押し付ける事もなく静かに聞いては「そうだな」と共感してくれた。

 いつしかそういう話は自然と少なくなって、今では愚痴を聞いてもらう事より、小さな事でも彪鬼に聞いてもらいたくて、次は何をやってみようか、とそんな事ばかり毎日探してしまっている。こんな自分でも、もっと何か出来るんじゃないかと思えてくるのが不思議だった。

 ひと通り最近の事を報告し終わると、彪鬼は窓の外を見て立ちあがり、漫画をもとの棚に戻した。いつのまにか空は暗くなっていた。

「もう見回りの時間?」

「そうだな」

「じゃあ、またね」

「ああ」

 ベランダに出ると少し冷たい風が吹いて、いつものように彪鬼はすうっと消えた。その風にのって乾いた秋の匂いがして、栞那は思い出した。

 通学路に良い香りのするオレンジ色の小さな花を見つけた事を。辞典で調べると、それはキンモクセイという名前だった。

 早く、明日にならないかな。

 学校に行ったら帰りに取ってきて、彪鬼に教えてあげるんだ。

 

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