第14話 唯一の存在
御室川は昨日の台風のせいで茶色く濁り、すごい勢いで流れている。荒々しい川とは正反対に澄んだ遠くの空にはもう星が出ていて、いつもよりはっきり見えた。日が暮れるのがいつのまにか早くなっているようだ。
顔に触れる秋の風が、優しく草を揺らしながら流れてゆく。鳴り止む事のない沢山の虫達の声が土手中に響いている。
栞那は川に近づくのはやめて、この先の石階段まで歩いて戻ってこようと思いつき、とん、と踏み出した。足取りに合わせて深呼吸をすると胸が膨れて気持ちがいい。周りを見渡し誰もいないのを確認すると、虫の声に紛れるように栞那は歌い出した。
合唱で歌った曲。とても好きなメロディだった。ちゃんと歌わなかった事を今では少し後悔している。思えば、歌っている時だけはみんなの中にいる時間だった。
階段までたどり着くと歌は2周目に入っていて、空は茜から藍に変わり、さっきよりも星が白く輝きを増していた。
「か……ん、な」
誰かに呼ばれて驚いて振り返ると、その人の姿は、暗闇に紛れてぼんやりとしていた。街頭もない人気のない土手の道。それでもそれが誰なのか、栞那にはすぐにわかった。その色が鮮明に甦る。
流れるような青い髪。
前に会った時と同じ色の着物。袴の裾からのぞく草履を履いた裸足の足。少し離れてうつむくようにこちらを見ている静かな赤い1つの瞳。首には、あの時貸してくれた薄い布が、ふわふわと揺れている。
「は……、あ、来て、くれたんだ!」
栞那は駆け寄りたいのを抑えて、ゆっくりと近づいた。
「私の名前……」
「……皆がそう呼んでいた」
「そっか……」
家族以外で栞那と呼ぶ人はいない。彼に名前で呼ばれるとは想像していなかったのでとてもびっくりした。でも嬉しかった。何か、そう、友達のような……。栞那は深呼吸した。
「ひゅうき」
その瞬間、いつも表情の変わらない彼が大きく瞬きをした。
「ありがとう」
ずっと言いたかった言葉。やっと言えた。そして彼を彪鬼、と名前で呼びたかった。
「……なぜ、名を?」
「赤い髪の女の人が来て、教えてくれたよ」
彼は「そうか……」とつぶやいて川の方を見た。
「あの、今更なんだけど、私、秋川栞那。栞那って呼んでくれて嬉しい。だから私も、彪鬼って呼んでもいいかな……?」
いつのまにか心臓がドキドキと音をたてている。
「……ああ」
彪鬼は、静かにそう答えた。
さあっと流れてきた夜風が、彪鬼の青い髪と着物をひらひらとなびかせてゆく。人ではないけれど、こんなにも確かに居る。それは名前を知ったからではない。きっと、呼び合う事に意味があるのだ。
それは、この世でたった1つの存在。彪鬼が呼ぶ栞那も、栞那が呼ぶ彪鬼も、変わりなんていない、ただ2人だけが知っている。それは、居場所を伴った唯一の存在。
「ちょっと、話をしてもいい?」
栞那が近くの石段に座ると、彪鬼もその横に腰掛けた。
「私、ひ、彪鬼のおかげで助けられた事いっぱいあったのに、ごめんなさい。ここに来なかったのは、私のせいだよね?怒ってたんだよね?」
「怒る?」
「バカな奴だって呆れて、もう来てくれないんだと思ってた」
「そうではない」
「は、そうなんだ……良かったぁ」
「こちらには行かない方が良いと言われた」
「言われたって……誰に?」
「誰…?」
「家族、とかいるの?」
「家族というものはいない。仲間……」
「え、じゃあ鬼っていっぱいいるの?」
「鬼にも、いろいろいる」
「へぇー、そうなんだぁ!」
「でも、もう好きにしろ、と言われた」
「あはは!鬼の世界にもそういう事言う人がいるんだ!私もお母さんに良く、勝手にしなさいって言われるよ。どうせ勝手にすると怒るくせにね?」
「……すまなかった」
「え?何が?」
「怖かったろう?」
あの時の事か、と栞那は思った。彪鬼のあの時の顔は、今でも時々思い出す。真っ赤になった横顔。食いしばるような口元。怒りに満ちている、そんな様子だった。もちろん恐ろしくもあったけれど、彪鬼の両手は袴を強く握りしめていて、それは必死で何かをこらえているようにも見えた。
少なくても、何かに危害を与えるような、身の危険を感じるような、そういう恐怖は湧く事はなかった。
「うーん、ちょっとだけ」
すると彪鬼がこちらを向いて目があった。
「もう、体はいいのか?」
「うん。昔よりだいぶ良くなってるって。今回はたまたまだろうって。だから薬もずっと飲まなくて良くなったんだ。まぁちゃんと飲んでなかったけどね」
栞那は膝をきゅっと抱えた。
「彪鬼、助けてくれてありがとう」
彪鬼は、また何度か大きな瞬きをして視線を川に戻した。
「病を治す事はできないが、栞那の真の力が呼び起こされたのだろう」
栞那、と言われると、まだドキっとする。
もっといろんな話を聞かせて欲しい。彪鬼の事がもっと知りたい。
「……私、こんな事言うの生まれて初めてなんだけど……、友達になってくれない?」
「友達?」
「うん、こうして、時々来てくれないかな?」
「わかった」
「いいの⁉︎」
彪鬼は川の方を向いたまま、静かにうなずいた。
友達とは、こんな風に作るものではないのかもしれないと内心ではわかっている。きっと、いつのまにか仲良くなって、気づいたらいつも一緒にいて、言わなくても気持ちをわかってくれたり、慰めたり励ましたり、お互いにそう思いあっている同士の事を友達と呼ぶのだろう。
けれど、もう一度会って話をしたい、もっと知りたいと思う相手に巡り会った時、その気持ちをどう伝えればいいのかわからなかった。「友達」という約束をする方法しか、思い浮かばなかっただけなのだ。それでも、胸がぎゅっと苦しくなるほど、栞那は嬉しかった。
「そうだ。助けてもらったお礼に、私も何かしたいな。何かできる事ないかな?」
もちろん人とは違う鬼のために何ができるかなんて全く分からない。だってそんな気持ちになったのも初めてなのだから。
しばらく沈黙していた彪鬼は、小さくつぶやいた。
「……歌、もう一度聞かせてくれないか?」
「ええっ⁉︎歌⁉︎」
栞那は、顔がかぁーっと赤くなるのを感じた。聞かれていたんだ……。
誰もいないと思っていたから気持ち良く歌っていたわけで、人前で歌うとなるとそれはまた別の話で……。栞那は少し悩んで、彪鬼の横顔をチラリと見た。
彪鬼は別にからかうわけでもなく、ただ純粋に歌に興味を持ってくれただけなのかもしれない。上手に歌えるだろうか。いや、彪鬼はきっとそんな事を望んではいないのだろう。でももし、自分が好きな歌が彪鬼も気にいってくれたら嬉しい。
「じゃあ……歌います」
あの時、最後まで向き合えずに歌えなかった歌を、彪鬼のために歌った。
あんなに歌が好きで、歌で元気を与えられる人になりたいと思っていたはずなのに、誰かの為に歌った事など今まで一度もなかった事に、栞那は初めて気がついた。
星空の下、虫達の声と草を鳴らす夜風が、1つの旋律を静かに運んでいった。
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