第13話 価値

 栞那は一晩入院する事になった。 

 喘息の発作は薬の効果で落ち着いたけれど、母親となかなか連絡がつかず、時間だけが過ぎてしまい、家に帰りそびれてしまった。別に祖母の家でも良かったのだけれど、いつもお世話になっている小児科の先生が、母親が忙しい事情も昔から知っていてくれて、「久しぶりに入院してみる?」みたいな流れになったのだ。

 入院といっても軽い点滴をして、ご飯を食べてぐっすり眠る、という規則正しい生活をするだけなのだけれど、きっと祖母や母親にとってもその方が安心できるのかもしれない、と栞那も思ったからだった。

 あとで聞いた話だけれど、母親はパートではなく契約社員として働いていたのだそう。栞那はもちろん、祖母も知らなかったのでとても驚いた。とはいえ契約社員とパートの違いなんてよくわからないけれど、とにかく店長が休みの日はいろいろと大変で、この時もクレームの対応とか発注ミスの処理とかで、別の店舗にも行っていたそうで、病院に来るのが遅くなってしまったのだそうだ。

 そんな話を聞いて改めて母親の大変さに気づき、そして母親としてではない頑張っている1人の人間、として見えてきて、初めてすごいな、と栞那は思った。

 以前の自分だったら、またみんなに迷惑をかけてしまった、自分は弱い人間でだめな奴なんだと思っていただろう。母親は家族よりも仕事の方が大切で、きっと自分なんていない方が良かったと、自分や周りを責めていたと思う。けれど今は、なんとなく違う。

 いろんな人が心配してくれて、自分のために何かをしてくれている。たとえその原因が自分が弱いせいであっても、それを素直に認めようと思った。そして、感謝するという事を、自分はすっかり忘れていたのだと気づいた。

 なにより、もしかしたらそれをしてもらえるだけの価値が、ほんの少しでも自分にあるのかもしれない。そう思えたからだ。今こうして生きているという事は、そういう事が積み重なってきた結果なのかもしれないのだから。


 次の日、用意された朝食をしっかり食べて、点滴が終わるのを病室の大きな窓から空を眺めながら待っていた。今日も風が強そうだ。灰色の雲がすごい速さで流れてゆく。

「すぐ退院で良かったね」

 母親とすれ違うように来てくれた祖母が、持ってきた梨を剥いてくれた。

「お母さんはもう仕事行ったの?」

「うん、さっき」

「本当に大変ねぇ」

 母親にはいつも通り仕事に行ってもらったと話した。立場上あまり休めないのをわかっている。それに昨日の夜は、眠れるまでずっとそばにいてくれた。そして目覚めた時も。

 栞那は梨の甘い汁をすすりながら、祖母に昨日の事を聞いてみる。

「おばあちゃん、どうしてあの時来てくれたの?」

「ごめんねぇ、ほんと気づくの遅くて。携帯電話がマナーモードのままだったのよ」

 祖母がバッグから携帯電話を取り出し、昨日の着信履歴を見せてくれた。

「昨日も風が強かったでしょ?雨戸を早めに閉めようと窓を開けたら、すごい風が吹き込んできて、テーブルに置いてた携帯が落ちたの」

「……風?」

「いくら強い風でも携帯が落ちるなんて変だなぁと思って見たら、栞那からの着信が何件もあって、きっと何かあったんだと思ったのよ。かけても話し中でつながらなくて」

「そっか……」

「ほら、虫の知らせっていうのかもしれないね」

 そう言って、祖母は目を細めた。

 栞那は、薄暗い空に雲が勢いよく流れてゆく空を見上げた。

 きっと、彼だ。彼が知らせてくれたんだ。私を助けてくれたんだ。

 あの日、部屋にたたずむ彼の姿を思い出し、栞那の願いは確信に変わった。


 病院を出る頃には雨が降り出していた。木の枝がわさわさと苦しそうに揺れて、電線がひゅーと鳴っている。

 栞那は風で車のドアが持っていかれないように注意しながら、祖母の車に乗り込んだ。風で車体が何度も揺れ、祖母もハンドルをしっかり抱えながら運転している。

「おー、怖い。台風が通過するかもって」

 不気味な空の色はさらに濃くなり、ガラスに打ちつける雨粒もどんどん大きくなる。もうすぐ嵐がやってくる。彼は今頃、どこで何をしているのだろう。

「おばあちゃん泊まってくの?もう1人でも平気だよ」

 マンションの近くの駐車場に着くと、祖母は大きな荷物を下ろした。

「まぁ、たまにはいいでしょ。台風対策もしっかりしてきたし」

「おばあちゃんも台風怖い?」

「そりゃそうよ、自然は時に恐ろしいから」

 気丈な祖母もこんな日の1人の夜はやっぱり不安なのかもしれないな、と栞那は思った。部屋に入るとタイミングよく、プルルル……と電話が鳴った。

「栞那、お父さんからだよ」

 栞那は、すぐに退院できて今はすっかり元気だという事と、今日は祖母が泊まってくれるから心配ないと話した。また「ごめんな」と口癖のように言う電話越しの父親の思いに栞那は自分と同じ部分を見た気がした。

 心細さや不安をきっと大人も抱えてる。そして至らなさや憤りを隠しながら前を歩き続けている。避けては通れない道を、重くも軽くもなる荷物を抱えたまま。

 本当は誰もが、助けて、助けられて生きている。ただ、それだけの事なのだ。


 台風一過の朝は別世界のようだった。

 マンションのベランダで、まだパジャマ姿のまま栞那は深呼吸した。空気も空も洗い流されたようにピカピカと綺麗だ。ぐっすり眠れたせいか、体も嘘のように軽い。

「おはよう、栞那。よく眠れた?」

「うん」

 祖母は部屋に入ると、布団をチャチャっと綺麗に整えてくれた。すると、もう出勤の時間なのか、母親がせわしなく入ってきた。

「おはよう。大丈夫?調子は?」

「うん、大丈夫」

「そう。じゃあ行ってくるね」

「うん」

 母親は「すみません、よろしくお願いします」と祖母に頭を下げて部屋を出た後、「あっ」と何か思い出すように戻ってきた。

「栞那、テーブルにお薬があるから。ちゃんと忘れずに飲むのよ」

「……はぁーい。行ってらっしゃい」

 祖母はパタパタと急いで出てゆく母親の後を追って部屋を出て行った。栞那は「ふう」と川を眺める。

 昨晩、母親が帰ってきたのは10時を過ぎた頃だった。電車も止まらず、ちょうど雨も弱まっていたらしく、少しの残業で帰って来れたと祖母に話しているのを聞いて、ようやくホッとして眠った事を思い出す。

 母親に何かあったらどうしよう、と急に心細くなり、昨日は遅くなっても起きて待っていようと考えていた。そんな思いを知ってか知らずか母親の一言はいつもと変わらない。でも「うるさいな、わかってるよ」というのは、もう言わないようにしよう、と栞那は思った。


 夕方、栞那は祖母の荷物を持って駐車場まで見送りに行く。

「いろいろ心配かけてごめんね」

「いいんだよ。子や孫を心配するのは当たり前の事なんだから。それに、心配する相手がいるってのは幸せな事なんだよ」

 そう言って栞那の手から荷物を受け取ると、祖母は車に乗り込んだ。

「おばあちゃんも、あまり無理しないでね」

「栞那もね」

「うん、ありがとう。また遊びに行くね」

 車はゆっくりと走り出して、角を曲がるとすぐ見えなくなった。

 見上げると細い月が西の空に浮かんでいた。

 何かに誘われるように、栞那は夕暮れの土手を目指した。

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