第12話 強くて弱い
昼休み、栞那はスタディルームにいた。
新学期が始まった今では、この部屋を利用している人はずいぶんと少なくなった。がらんとした部屋の本棚の前で、不揃いでくたびれた背表紙を眺めながら栞那は控えめに咳をする。
夏休みの終わりに熱を出して以来、体調がすっきりしない状態が続いていた。長い休み中に熱を出すのはなぜか毎年恒例だったけれど、この夏は頻繁に夜のベランダにいたり、窓を開けたまま寝てしまい、いつも以上に体を冷やしたのが原因かもしれない。
あまり気がすすまなかったけれど、分厚い歴史の本を手に取ってみる。この部屋にある本は、もうほとんど読み終えてしまった。開いたどのページも漢字だらけの退屈そうな本をパラパラとめくると、ふわっと床に何か落ちた。しおりだ。拾い上げると、可愛い動物が描かれた厚紙の上部にピンク色のリボンが結んであり、それはずいぶんと色褪せていた。
「あ、それ、私の」
後ろから声がして振り返ると、小柄な女子が近づいてきた。
「ありがとう……。探してたの」
小さな声で彼女はそう言うと、栞那の顔をあまり見ずにしおりを受け取った。
彼女は隣のクラスの佐々木さん。春からずっとここに来ていて、栞那と同じようにいつも1人で本を読んでいた。名前は名札で知ったけど、声を聞いたのも会話したのもこれが初めてだ。一見つまらなそうなこの本を彼女が読んでいたのも意外だったし、重厚な本に可憐なしおりが不似合いで、栞那は胸の中が少しほころんだ。
「可愛い、しおり」
うつむき去ろうとした彼女に栞那は思わず声をかけた。彼女は、びくっと足を止めて顔を上げた。
「……妹が作ったの」
「へえ、そうなんだ」
お互いここに来ている身分上、会話は得意でない事はわかっているけれど、栞那は何故かしおりが可愛いと思った事を彼女に素直に伝えたい気持ちになった。案の定そこから会話は続かず、彼女は少し気まずそうに離れていった。
偶然しおりを見つけただけなのに、お礼を言われてなんて答えていいかわからなかったけれど、息を吐くように自然に出てきた嘘のない気持ちが、栞那はなんだか心地良かった。
歴史の本は棚に戻し、床に座り壁によりかかった。部屋に流れてきた風が肌にさらりと触れて窓の外を眺める。焼け付くようだった日差しが今は滑らかに降り注ぎ、真っ青だった空はぼんやりと霞がかっている。秋がもうすぐそこまで来ている。
一馬は休み明けから1度も登校してこない。横谷達のグループは、休み中に何かあったのか、教室でつるまなくなった。あからさまな悪口や嫌がらせもなくなった。必ず巡ってくる季節のように、変化は自然と訪れた。
ずっとこれから先も同じような毎日しか自分にはないと思っていたのに、いつのまにか全く別の未来を歩き始めているような気がする。
本当は当たり前のようにある変化に気づかずに、毎日はただの繰り返しだと想像した未来に失望し続ける人生なら、あまりにも長くて苦しい時間を、自ら選んでいる事ときっと同じなのだ。
彼が、それに気づかせてくれた。小さなきっかけでも、たった一言でも、変わる事があると知った。それなのに、彼との出会いという大きな出来事すら、段々と記憶が薄れてゆくのがわかる。
本当は時間の流れはものすごい速さで過ぎていて、心を引き裂かれるような辛い事も、潰れるほど感激した事も、人はいつのまにか忘れてしまうものなのかもしれない。きっと、ずっと同じままではいられない。
栞那は彼を思い出すたび、胸の中がチクッとするような感覚を感じていた。きっとそれも時間が経てば、いつか忘れて消えてしまうのだろう。
いや、本当に消えてしまうのだろうか。
6時間目の体育は10月の持久走大会に向けての試走だった。9月も半ばとはいえ気温は高く、ついていない事に午後から風が出てきて校庭は埃っぽく最悪のコンディションだ。本当は見学したかったけれど、前回もその前も休んだので、さすがに今日は何か言われると思い諦めた。
嫌な予感は的中して、走り始めてからすぐに咳がひどくなった。先生達の強制的な応援に応えるように歩いてようやくゴールできた時には、すでに走り終えた子達が退屈そうに待っていて、振り向くと自分の後ろには2人しかいなかった。栞那は倒れこむようにその場に座る。ゆっくりと呼吸を整えてもヒューと喉が鳴りはじめて息苦しい。喘息の発作の前触れだ。
「大丈夫?」
声をかけられた気がして、はっと顔をあげる。砂を巻き上げて去っていく風の向こうに、ぞろぞろと教室へ帰る人達の姿が見えた。誰もこちらなど見ていない。届くはずのない声。どうかしてる。
栞那は立ち上がると、体についた砂を強く払い落とした。誰かが声を掛けてくれる事を期待してしまっている自分に栞那は驚いた。そしてそんな弱々しい自分がとても嫌だった。
なんとか自力で家に帰れたものの、頭は痛いし吐き気もする。
「はあ、苦しいよお……」
ずいぶん我慢したよね、と自分に言い聞かせながら栞那は祖母に電話をかけた。何度もかけたけれど全く出ない。栞那は玄関の脇で電話の子機を持ったまま、壁にもたれて座り込んだ。仕方なく母親の携帯にもかけたけれど、やっぱり出ない。
お母さんの帰りが遅かったらどうしよう。
このまま、死んでしまったらどうしよう。
栞那の呼吸は、ますます浅くなってゆく。どんなに誰にも頼りたくないと願っても、助けてもらわないと生きていけない時がやってきてしまう。それはきっとまだ子どもだから。だから早く大人になりたかった。
誰かを許したり、自分の非を認められた時は、少しでも大人に近づいて強くなれたからだと思っていた。それなのに、結局何かを期待している自分が惨めで悔しかった。
もしかして、彼との出会いは、逆に自分をもろく弱くしてしまったのではないだろうか。
すると、ガチャンと鍵が開いて、勢いよくドアが開いた。
「栞那⁉︎」
「おばあちゃん……」
「大丈夫⁉︎急いで病院に連れていってあげるからね!」
祖母の柔らかく細い腕に抱き抱えられる。さりげなく袖で涙を拭った。
「ごめんね……」
「謝らなくていいの。立てる?」
祖母に寄りかかりながら靴を履き、重い足を引きずるように玄関の外に出た。その時だった。
「あ……!」
もうろうとする意識の中、それでもはっきりと、鮮明にその姿を見た。
まるでスローモーションのようにゆっくりとドアが閉まってゆくその隙間の向こうに、こちらをじっと見つめて立っている彼の姿を。
青い前髪が顔を覆っていて、その合間から覗く1つの瞳とはっきりと目があった瞬間を。
無情にもドアは閉まり、祖母は急いで鍵をかけた。この扉の向こうに彼がいる。
来てくれたんだ。……ひゅうき。
彼の名前はずっと忘れなかった。小さな胸の痛みと共にずっと消えなかった。
なぜだろう。助けられてばかりの人間に、弱い人間になりたくないのに。なのにどうして、こんなにも嬉しいのだろう。
栞那は後ろ髪をひかれるような思いを胸に、やまない強い風の中、祖母の車で病院へ向かった。
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