第11話 彪鬼

 毎年8月のお盆に開催される市内の花火大会は、土手沿いに沢山の屋台が並び、県内外から大勢の見物客が訪れる夏の一大イベントだ。

 栞那の住むマンションは、その花火大会をベランダから見る事ができるというのがウリで、それにまんまとのっかった両親が即決で決めたのだという。あの2人にもそんな時期があったのも意外だけれど、今思えば小さい頃はいつも賑やかで、いろんな人がこの家に来て楽しかった。けれど楽しく華やかな時間はあっという間で、いつしか訪れる大人は少なくなり、今ではもう誰もこの家に来なくなった。

 人も環境も変わり続ける中で、ずっと続いていく友達や繋がりなど、やっぱり存在しないのかもしれない。それは、大人になっても同じなのだろうか。

 今夜は、相変わらず母親は仕事の付き合いという宴会に行ってしまっている。本当は祖母と一緒に花火を見る予定だった。けれどその祖母から「今日は腰が痛くて行けない」という電話がさっきあったので、栞那は1人、母親の置いていった千円と自分のお小遣いを財布に突っ込み、祭りの夜に飛び出した。


 いつもなら日が沈んだ後の川は、境目が消えた真っ暗闇の土手の真ん中で、月の光をわずかに映しながら、黒く滑らかに流れているだけだ。けれど今夜は、この夏の一夜だけは、その面影をなくす。

 両岸の提灯の灯りを呑み込み、きらめく水の輝きは楽しそうにゆったりと街を映し、下ってゆく。まだ花火が打ち上がらない、うっすらと明るい空の下、栞那は沢山の人の波を抜け、守山神社を目指した。

 境内の中にも屋台が並んでいた。そんなに広くはないけれど、七五三の時や初詣にはお参りにきている小さな頃から馴染みのある神社だ。

 賑やかな笛の囃子の音楽と、ブーンという発電機の音が胸を躍らせるように響いてくる。そして、懐かしいしょっぱくて甘い香り。

 栞那は、お目当ての焼きそばとラムネとあんず飴を買うと、屋台の下ではしゃぐ親子を横目に神社の石段を下った。

「あっ、と。すみません」

 すれ違った女子達の艶やかな浴衣姿に一瞬目を奪われ、人と肩がぶつかる。

 射的の前で同じクラスの男子に見つかり、逃げるようにその場を去ると、別の場所で女子のグループともはちあわせしていまい、栞那は急いで人影に紛れた。何をコソコソしているのだろうと思うけれど、とにかく誰にも会いたくない。こんな時、透明人間になれたらいいのに、といつも思う。

 誰の目も気にしないで生きられたらどれだけ楽になるだろう。けれどいつか、自分がここにいる事を気づいてもらえなかったり、声をかけても無視されていたら、やっぱり寂しくなるものなのだろうか。

 栞那は、土手沿いにどこまでも続く屋台を眺めながら歩く。金魚すくいをやりたいと言うと、すぐ死んじゃうから駄目だと言われ、綿あめが食べたいと言うと、どうせ残すからと言われ、結局何も買ってもらえなかったいつかの祭りの日を思い出す。

 それでも誰かと一緒に歩いた祭りの街は楽しかった。今は誰にも咎められずに1人で好きなものを買えるのになんだか物足りない。

 美味しいね。楽しいね。そう言い合える事は、奇跡に近い事なのかもしれない。


 栞那は、マンションに戻るとベランダの特等席から、始まったばかりの花火をぼうっと眺めた。大きな花火が目の前で散ってゆく。1人占めできる景色までもどこか物足りない。火薬の香りを運んでくる夜風が顔をかすめて、淡い記憶が蘇る。

 あれからもう1ヶ月以上も経ってしまった。もっと話をしてみたかった。彼がいたら、きっと違う夏休みになったかもしれないのに。

「鬼にも嫌われちゃったのかなぁ」

 その時、遠くから花火の音に混ざって、ぴゅううと風の音が近づいてきた。

「うわっ!」

 つむじ風のような渦をまく風が、栞那の髪をかき乱し、思わずよろめいた体は窓ガラスにぶつかる。もしかして……!と思って顔を上げると、そこに居たのは女の人だった。

 鬼?だろうか。

 1つに緩く結った真っ赤な髪の、背の高いその女性は、じっと栞那を見つめている。黄色から紫色へと変わってゆく綺麗なグラデーションの着物に包まれ、金色の刺繍の帯がキラキラと輝いている。まるで体の中から光が放たれているかのようなそのまばゆい姿に、栞那は金縛りにあったように動けなくなってしまった。

 白い頬にかかった赤い髪を指で耳にかけると、まるで睨んでいるかのような彼女の瞳がゆっくりと部屋を見渡して、栞那を見て言った。

「祭りの夜に、1人なのね」

 部屋のテーブルには、食べかけの焼きそばとラムネが置きっぱなしだ。祭りの夜に1人寂しく食事をしている哀れな子どもだと思ったりしたのだろうか。

「花火、綺麗ね」

 彼女は誘うように手招きした。揺れる白く華奢な手の動きに吸い込まれそうだ。

 この世のものとは思えない彼女の存在に、もう花火の輝きなど目に入らない。どんなに美しいと言われている人間でもきっと彼女には敵わないだろう。彼女の存在は、人間には絶対に作る事のできない神秘的で雄大な自然界の美しい景色のようだ。

「あの……、あなたも、鬼なのですか?」

 栞那は彼女に少し近づいてみた。花のようなとても良い香りがする。

「どうしてわかるの?」

「前も……鬼が来たので……」

「覚えているのね」

「え……?」

 彼女はふっと小さくため息をついて言った。

「彪鬼は、もうここには来ない」

「ひゅー……き?」

 彼女の目つきが鋭さを増す。

「あなた、青い髪の子を知っているでしょう?」

「!」

 そうか!

 あの鬼は、彼は、彪鬼という名前だったんだ!

 栞那の様子に彼女は肩を落とし、またため息をついた。大きな花火の光が、彼女の横顔を美しく照らし出す。

「お役目は終わったの。もう彼は来ないわ」

 花火のドーンという音でよく聞きとれない。彼は来ない、の部分だけが耳に残る。

「こ、こないってどうしてですか?」

「あなた、何か知ってるの?」

「いえ、私は何も……」

 花火が連続で打ち上がる。クライマックスの乱れ打ちの光と音だけが、彼女とベランダに反射する。

 彼の名前は、彪鬼。

 せっかく名前がわかったのに、まだ布のお礼も言えてないのに、このままもう会えないなんやっぱり嫌だ。

「だから、早く忘れなさい。じゃあね」

「えっ、ちょっと待って!せめて、お礼だけでも……」

 彼女は、さっきよりも強い風をまとい、すうっと消えてしまった。しんとなった空とベランダは、闇の中に取り残されてしまったように、輝きも華やかさも一瞬で消え去った。

 花火が終わる瞬間は、もうすぐ学校が始まってしまうという焦りと苛立ちで、いつもとても苦しかった。寂しさと変える事のできない恐怖が、また胸を締め付ける。どんなに願っても叶う事なく無情にも夏が終わりを告げるように。

 栞那はベランダの椅子に、ぺたんと座り、黒い空に流れてゆく白い煙を目で追った。

 本当に彼女の言葉どおり、彼、彪鬼は夏休みが終わっても1度も現れる事はなかった。

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