第10話 恐怖

 梅雨が明けると、まるで太陽が入れかわったみたいに強烈な光がアスファルトを焼き付け、沸き立つ熱風に襲われる。片道40分かかる通学路の往復ですっかり日に焼けてしまった肌に、日差しが容赦なく色をつけてゆく。

 栞那は下校中、遠回りをして誰もいない土手へ向かった。石段を降りて人が近くに居ないのを確認すると、水面に向かって小石を軽く蹴飛ばす。小石は川まで届かずに石畳に跳ね返ってカチンと音をたてた。思いきり蹴ると今度は勢いよく飛び、ぽちゃっと情けない音を立てて川底に沈んでいった。今日も川は静かに流れている。

「早く夏休みにならないかなー」

 体調が万全でなくても、自然と体は学校へ向いていた。いじめられている、不登校、と言われたくなかったし、授業に遅れれば成績だって悪くなる。あの人達と頭が良いか悪いかを点数や評価で計られるのは納得できない。ただそれだけだ。

 足下の石を探しながら嫌でも泥だらけの靴が視界に入ってきて、栞那はわざと草むらを蹴ったり、つま先で土を掘ったりした。

 今日も教室を最後に出ると、靴箱にはなんだかよくわからない紙や土のついた草が入れられていた。物が無くなったり見覚えのない汚れがあったり、そんな事はもう驚かない。人目につかないであろうみんなが帰る頃まで残って準備しているなんて、なんて暇な人達なんだ。

 別に、すごく気に入っていたわけではないけれど、6年になった時に母親に買ってもらった水色のスニーカー。罪もないのに汚された姿が今の自分と重なって見えた。

 栞那はランドセルを草の上に放り投げ、今度は石を川へ投げつける。真夏の太陽が照りつけている川はギラギラと光りながら、そんなもの別に痛くも痒くもないよ、という風に悠々と流れていった。

「はぁ、頭いたい……」

 栞那は大きな枷のようなランドセルを抱えると、フラフラと家に帰った。


 玄関で汚れた靴下を脱ぎ、ごみ箱に投げ捨てると、顔を洗い水を飲む。濡らしたティッシュで靴の土を落としても、案の定綺麗な水色には戻らなかった。きっと「こんなに汚してきて」と、また怒られるんだろうな。

 部屋の窓を全開にして、こもった熱気を逃すと、地上よりも少しマシな風が駆け抜けていった。ここから見える川も、ギラギラと輝いている。

 あんな風に小さな石なんて動じない心を持てば、いつも強くいられるのだろうか。それでもやり返す事をしないのは臆病者だと、きっと川は笑わないだろう。

 ランドセルを下ろそうと肩からずらすと、そのまま床に落ちて転がった。

「はあ、限界……」

 本当に、疲れた。

 この窓を塞いでしまえば、街の騒音も人の視線も笑い声も遠くなる。こうして部屋に流れてくる風だけが、そうしたい自分を留まらせてくれているようだ。

 風や空気のような存在なら消えてしまったって何も変わらない。もともと最初からなかったようなものなのだから。なのにどうしてそんなモノを人は見つけたがるのだろう。誰も探さなければこんな姿をさらけ出さずにすむのに。ただ、無色透明に消えたいだけなのに。

 栞那は、急にやってきた立ちくらみのようなめまいで倒れそうになった体を、机に両手をついて支えた。立っている事も息をしているのもやめてしまいたい。そう思うのに作り出された感情が、瞳から溢れ出してポタポタと落ちる。

 机を埋め尽くす片付けていないプリントが水玉模様になってゆく。黒い水玉はどんどん増えて大きく汚いシミのように広がった。


「大丈夫か?」

 びっくりして振り返ると、彼が立っていた。

 栞那はすぐに顔をそらす。いつのまに……。

いつから見ていたのだろう。

「な、なに?」

「何かあったのか?」

「……なんでもない。今は誰とも話したくないから」

 待っているとは言ったけれど、何もこんな日に現れるなんて!

 栞那はティッシュの箱を手繰り寄せ顔を拭く。薄い紙は汗と涙ですぐに千切れた。何度も顔を拭いて最後に鼻をかみ、深呼吸してそっと振り返ると、彼はまだ部屋にいた。

 目があっても彼は無表情のまま、ただじっとこちらを見ている。とても冷ややかな視線。何を考えながら黙って眺めているのだろう。傷の手当てを興味深そうにしていたけれど、これは見せ物なんかじゃない。

「だから、もう帰ってってば」

 栞那はベランダに出ると、その勢いのまま、まだ熱い手すりから顔を乗り出し下を除きこむ。遠いようで近い地面の痛みはきっと一瞬だろう、とふいにそんな事が頭によぎる。でもすぐに取り消す。そんな方法は間違っているし絶対にいけない事だとわかっている。もちろんそんなつもりもない。それでも、そんな選択肢を残しておく事も不思議と心の支えになっている事を栞那は知っていた。

 振りかえると、彼はまだ部屋にいた。

「じゃあさ、教えてくれる?」

「なんだ」

「ここから飛び降りたら、違う世界に行ける?」

「……なんだと?」

「生まれ変わり?みたいな?」

「何を言っている」

「違う世界もあるのかなって。そういうの、鬼なら知ってるんじゃないかと思って」

「それがどういう事がわからないのか?」

「そんなの、わかってるよ」

 その瞬間、ベランダをものすごい風が吹き抜けた。

「きゃっ!」

 栞那は慌てて手すりに捕まる。すぐに突風はおさまり目を開けると、手すりの先になんと彼が座っている。マンションの4階のベランダの細い手すりに、足を外に投げ出しながら腕をくんで座っているのだ。今にも落ちそうな彼の体が揺れるたび、栞那の足がゾクっと震える。

「あ、危ないよ!」

 思わず叫んだ。

 ゆっくりとこちらを向いた彼の顔を見て、栞那の心臓はさらに激しく脈を打ち、さぁっと血の毛がひいた。

 怖い……!

 眉をひそめ、ゆがんだ彼の顔は赤黒く染まっていた。鋭い視線で睨みつけている。きっと怒っているんだ。馬鹿な事を言ったから。

「ご、ごめんなさい……!」

 何か言って欲しいのに、彼は川の方を向くと、しばらく黙ったままだった。だんだんと赤みがひいてゆく横顔は、とても寂しそうに見えて、さっきはとても怖いと思ったのに、このまま消えて欲しくないという思いになぜだかかられた。

 彼はベランダへ降りると、ゆっくりとこちらに近づいてきた。もういつもの表情に戻っている。そして、自分の首に巻いていたストールのような布をくるくるとほどき、栞那の目の前に差し出した。

「全部吐き出してしまえばいい。そして拭うといい。これは……おまじないだ」

 彼は低い声でゆっくりとそう言った。おそるおそる手を伸ばし、栞那はその布を受け取る。空気の入った風船のようにとても軽い。

「脅かすつもりはなかった……すまない」

 その言葉に顔を上げると、彼の姿はなく、舞い上がるような風が空へ登っていった。その向こうの薄い水色とピンク色の優しい空に、たくさんのうろこ雲が泳いでいるのが見えた。

 栞那は、頬をつたってゆく汗と涙を、彼が渡してくれた布でそっと拭いてみた。それは、はっとするほど柔らかく、顔に押し当てると声を出して思い切り泣いた。


 次の日、いつもより1時間も早く目が覚めた。栞那は静かに洗面所に向かう。

 夢ではなかった。目覚めると手にはしっかり彼の置いていってくれた布を握りしめていた。その布を洗面台でそうっと洗ってみる。

「うわぁ……すごくきれい……」

 薄い黄色にまだらの縞模様のような柄。何でできているのかわからないけれど、とても軽く柔らかで、たっぷりと張った水の中でキラキラと揺れている。

 昨晩、この布を顔にあてるとなんだか懐かしい香りがして、怒りが収まり力が抜けて涙が次から次へと溢れ出してきたのだ。それを拭っても拭っても冷たくならずにすぐに乾いてゆく不思議な布。

「おまじない……か」

 彼は、あのばんそうこうの話を覚えていてくれたのだろうか。

 布をそっと絞り、物干し竿に干してしばらく眺める。今日も真夏日になる事を教えてくれるように、すでに高く登った朝日と光を浴びた風が、眩しく布をはためかせていた。

 その日、急いで学校から帰ると、あの布は無くなっていた。マンションの周りを探してもどこにもなく、溜めていたいたはずの洗濯ばさみは、もとあった場所に置かれていた。

「うそでしょ……」

 栞那はがっかりしてベランダに立ちつくしていた。そしてこの日を境に、彼は栞那の前に現れなくなった。

 


 





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