第9話 蒸し暑い日の午後

 まるで梅雨明けのような真夏日のせいで、プールには人が溢れていた。久しぶりに帰ってきた父親に「どこか行きたい所はあるか」と聞かれて、栞那は迷わず「プール!」と答えた。一昨年までは必ず連れていってもらっていた3つのスライダーがある大きな県営プール。ロープの張られた50メートルプールをひたすら泳ぐのが目的だ。

 6年続けたスイミングスクールを辞めてからは、学校でも何かと理由をつけてまともに泳いではいなかった。真面目に泳いでも何か言われるし、見学していても結局言われる。もういろんな事が面倒で、すっかり泳ぐ事から気持ちは離れてしまっていた。

「自分の得意な所をのばしなさい」と先生は言っていたけれど、秀でて目立つ事は誰かには目障りなだけだと知ったのもこの頃だった。「周りの人の言う事をいちいち気にしていたら生きていけないよ」と声をかけてくれる人もいた。

 気にするなと言われても勝手に気になってしまうのだから、その頭か心の中の何かを壊さなければ、きっとそれをやめる事はできないのだろう。それでも、こうして生きているのだから。

「栞那、久しぶりなのに結構早かったな」

「そうかなぁ」

「また背も伸びたんじゃないか?」

「かもね」

 駅からの帰り道、アイスを食べながら親子2人で並んで歩く。日差しがじりじりと冷えた体に焼きつく感覚も気持ちいい。蝉の声がどこからか聞こえてくる。

「あれだな、父さんは腕が上がらなくなった。明日は筋肉痛で動けんな」

「っていうか、お腹もちょっと」

「ははは……」

 なにげなく言ったつもりが思いのほか父親は気にしていまったようだ。薄いTシャツをやや持ち上げるお腹の丸みをしきりに撫でていた。

 一人暮らしで好きなお酒をいっぱい飲んでいるのかな、と栞那はぼんやりとその動きを眺めた。

 栞那の机に飾ってある写真の父親は、今よりもっと日に焼けていて、ずっと細かった。3年の時、水泳の大会で入賞した時のものだ。その笑顔で褒められるのが嬉しくて頑張っていた時の事を思い出す。

「学校はどうだ?」

「うーん、まあまあ」

「もうすぐ卒業なのに、学校行事にも行けなくてごめんな」

「別にいいよ」

 クラスで浮いているのを見られたくないので本当にいいのだ。

「中学に入ったら水泳部だろ?」

「んー、まだ考え中」

 その気は全くないのだけど、そう答えておいた。

 マンションに着くと、もう母親が帰ってきていた。栞那は荷物を玄関に置くと、

「ちょっと土手まで行ってくるー」と再びドアに手を掛けた。

「早く帰ってくるんだよー、おばあちゃんももうすぐ来るって」

「わかった」

 夫婦水入らず、という言葉の意味はよくわからないけれど、うちの両親にはきっと当てはまらないな、と栞那は思う。年に数回しか会わない今でもなぜか2人はケンカをする。一緒に住んでいた頃も仲が悪いのだろうという雰囲気は感じていたし、会話の声がだんだんと荒ぶっていくのを感じると、急いで自分の部屋に行って、なるべく聞こえないようにしていた。

 そんな両親を見ていると何の為に結婚したのだろうと思うし、どうして別れないのだろうと思う。そしてその度に何で自分は生まれてきたのだろうと思わずにいられなかった。


 土手に向かうと太陽は傾き、昼間ほどの蒸し暑さはなくなっていた。川が光を反射してキラキラと流れている。まるでプールの水面のようだ。

 マンションの脇を流れる川の土手には、いつもいろんな人が自由気ままな時間を過ごしている。土手沿いの歩道や石段からは、どこまでも続く大きな空と、向こう岸の街並みがゆうに見渡せ、ベランダで感じるよりも強く、風や匂いを近くで感じられる。時にはぼーっと座って自分の中の何かを整理したり解決したり、ずっとそうしてきた場所でもあった。

 草の上に座って栞那は空を見上げる。水色の空が段々と薄いオレンジ色に変わってゆく。風が湿った草の香りを運びながら気持ち良く通り過ぎる。なんて優しい風なんだろう。

「ふはぁー」

 大きく伸びをして、そのままごろんと寝っ転がった。ひとしきり泳いだ後の倦怠感が、流れる風が、音が、心地よい。

 閉じた瞼にふいに影を感じて目を開けると、誰かが覗きこんでいた。

「うわぁ!」

 その声に驚いたのか、青い髪がふわっと揺れて離れた。

「もうすぐ日が暮れる。ここで寝るのはやめた方がいいだろう」

「ね、寝てないよ。ちょっと横になっただけ」

 まさか、こんな所に現れるなんて。

 栞那は立ち上がると、草を払い周りを確認した。すぐ脇をジョギングや犬の散歩をしている人がいる。もしかしてこの人達には彼の姿は見えていないのだろうか。袴姿の髪の青い少年がいたら、みんな興味深く見るに違いない。誰もこちらを気にする様子もなく通り過ぎてゆくという事は、やっぱり自分にしか彼の姿は見えていないのだろう。

「今日も、見回り?」

「ああ」

「あの……ちょっと話してもいい?」

 栞那は人気のない川岸の近くの石畳に向かう。すると彼は何も言わずについてきて、栞那が座ると、彼もそっと隣に座ってくれた。

 川の表面のキラキラが鈍いゆらめきに変わっていく。日が沈むと土手はすぐに真っ暗になってしまう。そろそろ帰らなくてはいけない時間だけど、せめて少しだけでも話を聞いてもらいたい。

「じつはあれからね、苦手な男の子に謝る事ができたんだ」

「お前は間違ってなかったのだろう?」

「うん、でも私も悪い所、あったから。そしたらなんか、すっきりした」

「そうか」

 彼は川の方を向きながら答えた。

 座って気づいたけれど、彼の左側にいると髪で顔が全然見えない。すると彼の顔がこちらに向いて赤い右目がちらっと見えた。その視線は栞那の足に向けられたまましばらく止まっている。ショートパンツからのぞく素足をなぜかじっと見ている。

「あの……なに?」

「傷が消えている」

「え?」

 もしかして本当におまじないだと信じてる?あれからずいぶん経っているし、ばんそうこうがなくたって治っているよ、と思ったら栞那は思わず吹き出した。

「あはは!おもしろーい」

 誰かと喋ってこんな風に笑ったのは久しぶりだ。でも彼は少しも表情を変える事なく、そのまま視線は川へと注がれた。

 笑わないんだ……。

 栞那は開いたままの口をぽかんとさせながら彼の姿を見つめた。

 もしかして笑ったのが気に障ったのかもしれない。バカにされたと思ったかな。

 川の方を向いて何も話さない彼と自分を、夜を呼ぶ風がまとわりつき始める。青い髪や首に巻いたストールのような布がふわふわと揺れて、着物の袖や裾が音も立たずに風を含んでは解き放してゆく。

「ごめん、ちょっとそっちにいくね」

 そう言って、栞那は彼の右側に移動した。そっと座り、川を見つめる彼の横顔を見る。

 人でいうと、高校生くらいなのだろうか。

 こんな風に男の子と並んで座り、ましてや2人きりで会話をした事など今まで一度もない。鬼といっても人とそんなに変わらない姿なのに、なんの為にここにいるのか、何を考えているのか、何もわからないし想像もできない。聞けば教えてくれるだろうか。どうすれば、またここに来てくれるだろうか。

 彼の瞳は、沈む夕日を映すように赤く静かに輝いていた。

「栞那ー」

 しまった。父親の声だ。消えてしまう。「あ、あの!」

「また来てね。……待ってるから!」

 栞那は彼の横顔に伝えると、振り返らず土手を駆け上った。


 

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