第8話 ばんそうこうのおまじない


 肌寒さを感じて目を覚ますと部屋は薄暗く、半分開いたままの窓の向こうに、夕日を浴びた薄い雲が見えた。

「痛……」

 体を起こそうと腕をベッドに突くと、肘から痺れるような痛みを感じて、栞那はもう一度横になる。思い出したくもないのに今日の出来事が勝手に頭に浮かんできて、同時に身体のあちこちが痛みを呼び覚ます。

 腕を上げると、擦り切れた皮膚から滲んだ血がたくさんの小さな赤い塊になっているのが見えた。夢の中なら痛みを感じないで済むのなら、このままずっと眠り続けたかった。

 栞那はゆっくりと体を起こし、クローゼットから薬箱を取り出してベッドに置くと、ベランダからふわっと風が吹き込んだ。少し強い。窓際の机に置きっぱなしだったプリントやテスト用紙が、はらはらと散らばる。

「あー、もう……」

栞那は、曲げると痛む膝をかばいながら、それらを力なく拾い集める。

「すまない」

「うあああっ!」

 口から心臓が飛び出るほど驚くとはこの事か!全く気がつかなかった鬼の少年の存在に、せっかく集めた紙が、ばさぁっと床に落ちた。

「びっくりした……」

「すまない」

 すまない?とは、ごめんなさいという意味だろうか。

「あの、今日は、どうして、ここに……?」

「見回りだ」

「見回り?」

 彼の視線が栞那の足に向けられたのがわかった。膝に大げさに貼られたガーゼは結構な赤色に染まっている。

「怪我を、しているのか?」

 彼は同情とも慰めとも違う単調な口調で聞いてきた。

「え、まぁ……」

 栞那は散らかった紙を集めて机に置くと、薬箱を手に取り床に座った。すると、彼は栞那の正面にやってきて、目の前であぐらをかいて座った。

 少し驚いた。でもなんだかワクワクした。

 彼の様子を見て見ぬふりをしながら薬箱を開けて散らかった中身の中から消毒液を探す。「怪我の時はこうするんだよ」と祖母に教わって何度か自分で手当てをしてきたものだ。

「何をするんだ?」

「何って……手当てだけど」

 栞那は赤く染まったガーゼをゆっくりと剥がし、消毒液を染み込ませたティッシュで皮膚についた血を拭き取る。その作業を何か珍しいものでも見るように、彼がじっと見つめている様子が、視界の隅でわかる。

「大丈夫か?」

「うん。痛いけど」

と、答えて思い出す。そういえばあの時も、彼は大丈夫かと聞いてきた。

「転んだのか?」

違う、と答えそうになって、栞那は言葉を飲み込んだ。

「お前は女だろう?無茶な奴だな」

 思わず栞那は顔を上げる。彼の1つの目は、しっかりと自分を見ていた。けれどその表情からは全く感情を読み取る事はできない。

 バカにしてるのか、呆れているのか、心配してくれているのか……。どちらにしても鬼とこんなに普通に会話できるとは思わなかった。しかも、意外と失礼な事を言う。

 栞那は「ふっ」と鼻で笑った。すると、すとんと肩の力が抜けた。

「転んでなんかない。あいつのせい」

「あいつ?」

 近くで見る彼の真っ赤な右目が鋭さを増して、ガーゼと消毒液を持った手が固まった。瞳を見て石になってしまったという物語が頭をよぎり、同じように体が硬直しながらも、なぜか口元だけが力をなくした。

「……前から苦手な男の子がいて、その子に突き飛ばされたんだ」

 自分の意識より先に口が動いて、栞那は驚いた。

「そうか」

彼は、静かにそう答えた。

「悔しくて。だって、許せなかった」

 こんな話を彼にしても意味がないと思いながらも、口は勝手に言葉を声に変えてゆく。今まで誰にも言わずにいた気持ちや我慢してきた言葉が、いともたやすく体から解き放たれて、身体中の力が抜けて視界がにじんだ。

 栞那はそれをごまかすように彼から顔をそらし、大きなばんそうこうを膝に張り付けた。

「それは、何だ?」

「え?ばんそうこうだよ」

「ばんそうこう?」

 栞那は彼の視線を感じながら、腕やすねの切り傷に小さなばんそうこうを貼ってゆく。その様子をあまりにもじっと彼が見ているので栞那は可笑しくなった。「これはね」

「貼っておくと、いつのまにか傷が治るおまじない」

「呪い?」

「そう、しばらくすると、傷が消えちゃうんだよ」

 ちょっとからかうように言ってみた。でもあながち嘘ではない。

「そうなのか」

 彼の赤い瞳がキラキラと輝いているように見えて、栞那は彼の顔をじっと見つめる。それに気づいた彼と目があうと、慌てて下を向いて薬箱を閉じた。そして、音も立たずに彼が立ちあが楽ると、栞那もその後を追った。

 並んで立つと、彼は栞那より少し背が大きかった。本当に鬼なのかと思うほど、見た目も姿も普通の人と変わらない。青い髪や着物もただコスプレしてるだけの人に見えてくる。

 ただ違うのは、その存在感だ。袴姿の男の子を近くで見た事はなかったけれど、きちんと着こなされた姿は、武道を修めた人のような勇ましさがあった。辛子色に近い着物に、深いえんじ色の袴はとても上質なのだろうとわかる。ほんのり艶があってまるでアイロンをかけたばかりのようにシワひとつない。鬼のイメージである荒々しさや豪快さは全く感じられず、すっとしたその姿勢や佇まいは凛としていた。

「あの……帰るの?」

「見回りだ」

 見回りとは何の事だろう?一体どこから来てどこへ行くのか。なんのために自分の所へやってきたのだろう。聞いてみたい事が次々に浮かんでくる。「あの」

「お前は、間違っていない」

 そう言って、まっすぐ見つめる彼の視線に、栞那の体はまた動けなくなった。

 その眼差しは、笑みも歪みもない無の表情で、発せられた言葉もただ淡々と声に変わっただけのものに聞こえた。それなのに、ものすごい風が吹き抜けたような衝撃と、過ぎ去った後の静けさのようなものが、一瞬に起きた感覚に包まれた。

 何と答えていいのかわからない。

 なんの事を言っているのだろう。どういう意味なのだろう。

 たくさんの感情が胸の中でいっぱいになった。とても苦しい。でも言葉にならない。

「そうだろう?」

 彼はそう言うと、ゆっくりと姿を消した。

 部屋にまた吹き込んだ風で、机の上のプリントが、さらさらと音を立てていた。


 朝、目が覚めてすぐに布団の中で栞那は自分の体を確認する。昨日貼った沢山のばんそうこう、そして膝にはガーゼではなく、やはり大きなばんそうこうが貼られている。

 彼が来たのは絶対に夢じゃない。

 けれどこの姿を母親に見られると面倒くさい事になるのに気づき、栞那は急いで着替えてリビングへ出た。

「栞那、おはよう。もう大丈夫なの?」

「平気」

「そう、調子悪かったら連絡してね。悪いけど先に出るから」

「いってらっしゃい」

 母親に何か聞かれても面倒だけれど、一緒に朝食を食べながら話をするつもりなどないのかもしれないな、とテーブルに用意されたラップごしの朝食を眺めた。まるで、昨日早退してきた事の方が夢の出来事のようだ。

 でも本当に痛みもなく体調は良い。なによりあんなに学校に行くのが憂鬱だったのに、なぜか気持ちのもやもやは晴れている。

「お前は間違っていない」

 彼が目を見て言ってくれた言葉が、いつまでも耳に残っている。たったその一言が何度も何度も響いてくる。何も知らないはずなのに、間違っていない、とどうして言えるのだろう。そう思うのに、なぜか力が湧き上がってくる。

 そして、すとん、と何かが収まるように心が答えを導いた。

 そうだ、一馬に謝ろう。


 教室に着くと一馬はまだ来ていなかった。

 周りの子達がチラチラと視線をおくってくるけれどもう何も気にならない。小湊先生が教室に入ってくるなり栞那を見つけ向かってくる。

「秋川さん、体調はもう大丈夫?」

「はい」

「昨日、ご自宅へ電話をしましたが、どなたもでなかったので心配しました」

「すみません、祖母の家にいました」

「そうですか」

 先生は、それ以上は聞かずに教壇へ戻って行った。相変わらず嘘が上手につけるなぁと栞那は胸をなでおろす。始業のチャイムが鳴り見渡すと、一馬の姿はなかった。

 一馬が登校してきたのは、1時間目が終わった頃だった。さすがに教室では目立つので、一馬が廊下に出た瞬間に栞那は追いかけた。

「古賀」

と、呼びとめると栞那の声だと気づいたのか、睨むように振り返って、

「なんだよ!」

と、わざわざ大きな声を出した。何人かこっちを見ているけど、今しかない。

「昨日は、砂をかけてごめんなさい」

 栞那が軽く頭を下げると、一馬がひるんだように顔をひきつらせた。

「はぁ?ふざけんじゃねえし」

 吐き捨てるような一馬の声が、廊下に響き渡る。周りの視線を一様に浴びながら、栞那は堂々と教室の席に戻った。





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