第7話 過去
今週末は、運動会だ。
小学生最後の運動会という事もあり、担任の先生達も気合が入っている。
そもそも運動も競争も好きではないし、最後だからみんなで頑張ろうという縛りも苦手だ。現にクラスはすでに学級崩壊と噂されているし、不登校の子も増えた。それの何がみんなで、なのだろう。
けれどそれより最悪なのは、昔から苦手なやつ、一馬がいる事だ。最後の最後で一馬と同じクラスになった事が、栞那は憂鬱でたまらない。
3時間目から校庭で、6年生4クラスの合同練習。クラスごとに背の順に並んで座り、先生の説明を聞く。栞那は女子の後ろから2番目だ。けれどちょうど隣の男子が一馬だった。目があった事を後悔し、栞那はため息をつく。
「あれ、秋川じゃん」
一馬はこういう退屈な時間はたいてい誰かにからんでくる。できれば無視したいけれど、後で何を言われるかわからない。「何?」と一応答える。
「お前、足太いな」
一瞬ぐさっときたけれど、こいつの言葉を真に受けてはいけない。関わるとろくな事はないのだから。
「そう」栞那は軽く受け流した。
すると一馬は、前に座っている男子の肩を掴んで無理矢理振り返らせて、
「こいつな、4年の時しばらく学校来なかったんだよな、ズル休みだと思わねぇ?」
と、栞那を指さして言った。
思わず栞那は一馬を睨みつける。話を聞かされた男子は、どう答えていいのかわからないというような、やっぱり関わりたくないような微妙な顔をしていた。
「いいなぁ、俺も休みてー」
勝手に休めよ。その方がみんなありがたいから。と心の中で毒づいて、あ、自分も似たようなものか、と栞那は思った。
4年の時にしばらく学校に行かなかったのは本当の事だ。クラスに馴染めず精神的にも不安定で喘息の発作もたびたびあったので、少し休むという話で担任と親が決めたのだ。もちろん栞那の希望でもあった。ただそんな昔話をワザとみんなに聞こえるように言う神経がわからない。小さい頃から何も変わらない。乱暴で意地悪で、どこか可哀想なやつ。
古賀一馬とは保育園から一緒だった。
その頃からよく暴れていたけれど、意外にもよく泣いていた事を知っている。そして、栞那より早く園にいて帰るのも遅く、長く園にいるせいかいつもいばっていて、栞那は数えきれないほど一馬と喧嘩をしてきた。
学校に上がっても一馬の傍若無人ぶりは変わらず、年下だろうが女子だろうがお構いなしに手を出していた。こんな子の相手をしている親もさぞかし大変だろうと子供ながらに思っていたけれど、今から思えばほとんど見かけない一馬の母親の顔も知らなかったし、参観にも来ていなかったので、もしかしたら一馬は寂しい思いをしているのではないかと考えた時もあった。
父親に殴られたというあざが噂になった事もあったし、母親は一馬に関心がないなどという話も耳にした。
でも、それがなんだというのだ。
どんな過去があっても、誰かを傷つけていい理由になんかならない。
横谷達といい、一馬といい、どうして自分勝手な人が我が物顔でいられるのだろう。命や物を大切にしなさいと教える大人達が、なぜそれを許しているのだろう。
もしかして、おかしいのは自分の方なのだろうか。
「知ってる?秋川ってキレるとやべぇから」
一馬は相変わらず誰にも相手にされないまま、今度は栞那の前に座っている智花に話しかけ始めた。智花は律儀に「静かにしなよ」と無意味な注意をしてかわそうとする。
「こいつさ、あの女芸人に似てない?ほら、あの不気味な方の」
と、一馬は続けた。
いい加減にしろ。
みんなが先生の合図で立ち上がるのと同時に栞那は勢いよく立って、右足で砂を蹴り上げた。大きな砂ぼこりとともに、小石が一馬にかかる。
「何すんだ、この野郎!」
一馬は栞那を突き飛ばした。
「秋川さん、また来たのー?」
保健室にいた関先生は、薄いピンク色の唇を緩ませて栞那を出迎えた。
今年来たばかりのまだ若く優しそうな女性。生徒には人気があるらしい。先月も転んで手当てを受けたばかりだ。でも今回は転んだわけではない。
「ずいぶん派手にやったわねー」
関先生は練習中での出来事だと思っているのか、怪我の理由は何も聞かない。ちょうどいい。どうせ聞かれても転んだと言うのだから。
栞那の擦りむけた肘と膝を、慣れた手つきで手当てをしてくれた先生は、少し休んでいきなさい、と保健室を出ていった。部屋の中に充満する消毒液の匂いがつんと鼻をつく。
最近では、あまり足を運ばなくなっていた保健室は少し懐かしい。真っ白な壁も白いキャビネットも、3つ並ぶベッドも昔のまま、変わらない。
遠くに聞こえる笑い声や教室の椅子がガタガタと響く音も、ここで聞く時だけはなぜか心地良かった。あの頃と変わらない磨かれた鏡には、いつのまにか教室で過ごせるようになれた自分の、大きく成長した姿をはっきりと映し出していた。
教室に戻ると、まだ誰も練習から帰ってきてはいなかった。まもなく運ばれてくる給食の匂いに軽く吐き気がして、栞那は保健室に戻り食欲がない事を関先生に話すと、しばらくして祖母が車で迎えに来てくれた。心配そうな祖母の顔を見て、栞那は後悔した。
マンションに帰りテレビをつけると、ちょうどお昼の情報番組をやっていた。
「栞那、ラーメン食べれそう?」
「うん、何か手伝う事ある?」
まったくなかった食欲が、家に着くと不思議と出てくる。いつもそうだ。頭痛も腹痛もそうやって出たり消えたりする。
祖母は怪我の事は深く聞かなかった。
「何かあったら連絡してね」と食事をすませるとすぐに帰ってしまった。本当は何か用事があったのだろう。また迷惑をかけてしまった。
しばらくすると、母親から電話があったので、「心配しないで」と伝えると、「今日も残業になりそうだから、夕飯は昨日のおかずの残りか、冷食でお願い」と、夕飯の事を気にかけ、いつもと変わりなく電話を切った。
栞那は、自分の部屋の窓におでこをつけ頭を冷やす。南向きの部屋からは、ベランダごしに川が流れているのが望め、前に高い建物がないので見晴らしがとても良い。
大きな空や川岸が季節によって色を変えていく様子を眺めたり、ベランダでぼんやりと風を感じられるこの部屋がとても気に入っていた。けれど幼い頃「太陽のような女の子に成長しますように」と、父親が日当たりのよい部屋を与えてくれたという話を思い出すたび、栞那は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
望まれた、期待された人になれない。
我慢ができなくて、人に優しくできなくて、だから友達もいないし、周りから嫌われて当然だ。でも、いつから、どうして、そんな風になってしまったのか、今はもうわからない。きっとこの先もこうやって生きていく事しかできない。じゃあなんのために生きているんだろう。
「鬼……、もう来ないのかな……」
なぜ今そう思ったのかわからない。
フラフラとベッドに体を乗せて目を閉じると、栞那はすぐに眠ってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます