第6話 鬼の少年
栞那は下校中、あの日の事を思い出していた。
祖母の家に行った日から、もう2週間は経っている。いつか鬼に会えるかもしれないと毎日ワクワクしていたのに、こっそり夜中に起きてみても、夕方に家の周りを散歩してみても、いっこうに鬼が現れる気配はなかった。だんだん自分の記憶まで怪しくなってきて、すっかり気分は逆戻りだ。楽しい事がないとわかっている未来に、何を思いながら生きればいいのかわからなくなる。
ポツ、と額に雨が落ちて顔を上げる。黒い雨雲の向こうに光が放たれた。雷だ。
「うわ。やばい……!」
早く帰らなくては。
風が冷たく変わっていくのがわかる。雨の匂いが混ざった空気が重さを増してくる。栞那は何かに追われるように一目散に走り出した。
小さい頃から1人で家にいる事が多かった栞那にとって、まるで自分を探しているかのような強い光が、部屋を一瞬で覆い尽くす様子や、怒鳴り声のような体に響いてくる大きな音は本当に恐ろしく、今でも1人の時に雷が鳴ると泣きたくなるほど怖いのだ。
「おばあちゃん、来てないかな……」
マンションに駆け込み、突き当たりの扉を開けると、4階まで階段を駆け上がる。停電してエレベーターに閉じ込められたら、と想像するだけで足がすくむ。
震える手で鍵を取り出し玄関のドアを開けると、そこに祖母の姿はなかった。
「はぁ、はぁ、もー、なんだよー」
栞那は部屋に入るとランドセルを床に投げ捨て、カーテンを閉め、ベッドの上で布団にくるまった。このまま寝てしまえばいいと思うけれど、もちろん眠れるわけがない。
だんだんと雷の音が大きくなって近づいてくるのがわかる。どうか見つかりませんように。
幼い頃は寂しいと感じていた1人の時間も、好きな音楽を聞いたり本を読んだり、いつのまにか上手に過ごせるようになった。誰にも邪魔されない空間は、安全だとわかったし、どんな事でも我慢すれば、そのうちなんとかなる事を知ったから。
けれど、こんな日の1人は、嫌だ。
ふと、両手で耳を塞いだ隙間から何か聞こえた気がした。
「おばあちゃん……?」
おそるおそる布団から顔をのぞかせると、栞那はカーテンが揺れている事に気がついた。
まさか。
栞那は、すっぽりとかぶった布団の隙間から目だけをぐるぐると動かして、部屋の天井や本棚の上、扉のすきまなどを確認する。
ピカっとカーテンの隙間からフラッシュのような白い光が入り込み、その瞬間、人のような黒い影が、はっきりと見えた。
来た。
鬼が来た。
ドーン、ゴロゴロゴロ……、と大きな音が地響きのようにマンションを揺らした。
一瞬で雷への恐怖は吹き飛び、黒い影の動きだけに集中する。大丈夫。きっと祖母の言っていた優しい鬼に違いない。
初めはぼんやりとした黒い影が、徐々に色をなして人の姿に変わってゆく。裸足に草履、着物を着た侍のような格好。あの日と同じだ。顔は髪で覆われてよく見えない。というか、あれは髪なのだろうか。真っ青だ。
ごくん、と唾を飲み込んだ瞬間、栞那は不本意にも「ゴホッゴホッ」とむせてしまった。
さっき死に物狂いで走ってきたせいだ。あぁきっと、鬼は逃げてしまったに違いない。せっかくのチャンスだったのに!
一度大きく咳こんでしまうと、なかなか止まらないのがやっかいだ。布団の中でうずくまり、焦らないよう喉に張り付くような空気をかろうじて行き来させる。ゆっくり息をして胸に手を当てて温めると、咳は峠を超えていった。
「はぁ、はぁ、死ぬかと思った……」
がばあっと布団を脱ぎ、顔を上げた瞬間、
「大丈夫か?」
——鬼と、目があった。
青く長い前髪が顔の半分を覆い隠していて全部は見えないけれど、おそらく少年——のような鬼らしき人物は、いつのまにかベッドの近くにいて、逃げる事もなくしっかりと栞那を見下ろしている。
あなたは……鬼?
聞いてみたいが声がでない。金縛りのように体も動かない。じっと見つめる事しかできない。というか、目が離せない。
本当にいたんだ。
あの日自分が見たのも、祖母の話も嘘ではなかった。
栞那が何も答えず、動けないのを察知してか、鬼らしき少年はゆっくりと後ずさりして、窓際に座り込んだ。
しばらく静かな時間が流れる。
ふと、時計に目をやると5時を回っていた。帰ってきてから30分も経っていないのに、とても長い時間を過ごしたかのようだ。
雷鳴は小さくなり、雨の音も聞こえなくなった。栞那は布団を抱きしめたまま、じっと少年の姿を見つめる。
少年は、あぐらをかいて壁にもたれるように座り、カーテンのわずかな隙間から外をずっと眺めている。腕を組み、時折瞬きをしながら見つめるその静かな横顔に、恐怖心は沸かなかった。
「雲は遠くへ行った。もう大丈夫だろう」
はっきりと言葉を発し、少年は栞那を見た。
「俺が見えているのだろう?」
栞那は大きく深呼吸をして答えた。
「うん……、あなたは……鬼、ですか?」
「人は、そう呼ぶ」
鬼の少年は静かに立ち上がり、音も立てずにベッド脇に近づいて言った。
「お前、病を抱えているだろう」
「病……?」
「とても多い邪気だ。だかおおかた祓えた。少しずつ良くなるだろう」
彼の言葉は、栞那には良く理解できなかった。でもそんなに悪くない、というような話には聞こえた。言葉を言い終わるやいなや、彼はくるりと背を向けた。
「ちょ、ちょっと待って!」
栞那は思わず引き止める。
ゆっくりと振り向いたその1つの瞳に、ドキっとする。
「何だ?」
「えっと、その……、邪気とか、祓う、とか何かなって……」
彼の右目は赤くてガラスのように透き通っている。まだ少し幼さの残るような顔立ち。肌も白い。肩までの青い髪が風もないのになびいている。地獄で人を懲らしめると言われている、今まで想像していた鬼の格好からは、とても似つかない姿だ。
「俺達は、人の邪気を浄化している」
「浄化?それって綺麗にするっていう意味?」
「ああ」
「鬼が、人のために?」
「やるべき事をやっているだけだ」
感情のわからない表情で、淡々と話す彼の低い声が、しっとりと耳に残る。俺達、という事は他にも鬼は沢山いるのだろうか。
「あの……」
と栞那が言いかけた瞬間、ピンポーン、とチャイムが鳴った。
「栞那ー、いるのー?」
祖母の声だ。パタパタとこちらに向かってくる。
「あっ!」と思ったと同時に、ふわっと風が舞い少年の姿は消えてしまった。
勢いよく扉が開いて、祖母が険しい顔で部屋に入ってきた。その顔を見たら体中の力が抜けて、何が可笑しいのかわからないけれど、栞那は思わず吹き出した。
「なによー、心配して来たのに」
「ごめんごめん、来てくれてありがとう、おばあちゃん」
「雨、思ったより早くやんで良かったね」
祖母がカーテンを開けると、眩しい夕陽の光が部屋に差し込んだ。
「栞那、虹が出てるよ」
「え!ほんと⁈」
窓の向こう、東の空にうっすらと7色の大きなアーチが描かれているのが見えた。
「うわあ!すごい!」
夢のような現実。現実のような夢。
そのどちらでもいい。
自分にとっての真実が見えると、こうも堂々とした気持ちになれるものなのだろうか。
栞那は、ぼんやりと消えかけてゆく虹を眺めながら、雨上がりの空のように晴れ晴れとした気分だった。
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