第5話 記憶

 栞那の父方の祖母、秋川和枝あきかわかずえはマンションから自転車で15分の所に1人で暮らしている。築50年の一戸建てだ。

 祖父はすでに他界していて、栞那が生まれてすぐに祖母と両親は1度同居の話になったけれど、母親と折りがあわないため、近くのマンションを買う事で落ち着いたらしい。

 祖母は、不規則な仕事に追われる母親の代わりに保育園の送迎はもちろん、病院に連れていってくれたり、料理や手芸を教えてくれた。怒る事などないだろうと思うくらい、いつも穏やかで、でもフラダンスを習ったり、友人達と登山に行ったり、アクティブな一面もある人だ。

 もしかしたら、そんな祖母にあるかもしれない秘密を探るために、そして昨日の出来事をどうしても話したくて、放課後、栞那は急いで祖母の家に向かった。庭先に自転車を止めると、つんとした香りが鼻をついて、その後甘く広がった。

「うわぁ、すごい」

 栞那は、かしゃん、と門を開けて石畳を進む。祖母の家の庭は、まるでどこかの植物園のようだ。小さいスペースでもバランス良く、いつ来ても違う草花が、家を包み込むように配置されている。

 今日は色鮮やかなバラが、ようこそ、と言わんばかりに堂々と咲き誇っている。その花道の先の物置小屋の前に、祖母の姿が見えた。

「おばあちゃん、こんにちは」

「栞那?どうしたの?何かあった?」

 庭仕事の途中だったのか、手袋を外しながら驚いた顔で祖母が駆け寄ってきた。

「遊びに来ただけだよ。ごめん急に」

「そう、それなら良かった。昨日はごめんなさいね」

「ううん、夜ご飯美味しかったよ。ねぇ、それにしてもこのバラすごいね。また増えた?」

「きれいでしょう?」

 祖母は小さな独り言を言いながらバラをハサミで丁寧に切ってゆく。それはまるで、花達と会話をしているかのようにも見えた。

「あ、中にお菓子とジュースあるよ」

「うん、お邪魔しまーす」

 栞那が部屋に上がり、ジュースを注いでいると、祖母はバラの花束をキッチンのシンクに水をため、優しく置いた。

 祖母の家は、いつも何かの香りがする。

 草花の香り、蚊取り線香の香り、お味噌汁や煮物の美味しそうな香り。

 香りは、過去に感じた記憶と繋がっているのかもしれない。だから人はそれをもう一度嗅ぐ事で、懐かしさと安心を思い出すのだろう。

「栞那、あとでバラを持って帰ってね」

「ありがとう」

「学校はどう?もうすぐ運動会でしょ?」

「うん。そんな事より今日はおばあちゃんに聞きたい事があって」

 学校の話はあまりしたくない。栞那はリビングのソファに腰掛けると、祖母がお茶を用意するまで静かに待って、ようやく向かい合って座ったと同時に声を放った。

「昨日ね、不思議な事があったんだ」

 栞那は、身に起きた出来事をありのままに祖母に話した。

 暗い部屋に青い火の玉があった事。窓も開いていないのに風が吹いていた事。そしたら着物のような格好で裸足に草履の人がいて、その後いつのまにか眠ってしまった事。

 夢でも見てたんじゃない?と、たいていの大人が言いそうな事を祖母は言わない自信があった。

 少しの沈黙の後、祖母はお茶を一口飲んでから、「それは、鬼かもしれないね」と言った。

「やっぱり‼︎」

 栞那は隣にあったクッションを抱きしめた。

「ねえ、鬼って何?」「おばあちゃん、会った事あるの?」

 興奮して身を乗り出すと、意外にも祖母は困ったような顔をしたので、栞那は言葉を飲み込んだ。

「この辺りは、昔からそんな話があってね」

 そう言いながら祖母は窓の向こうの庭先を眺める。その静かな口調に栞那は少し緊張した。

「うん、私も聞いた事ある気がする」

「栞那は怖くないの?」

「昨日はさすがにびっくりしたけど、今は何だったのか、本当なのか知りたい」

「そうね……、もう何十年前になるのかな」

 遠い記憶を大切に呼び覚ますように、祖母はゆっくりと話し始めた。


 それは、祖母が中学生の頃だった。

 突然現れた女の子は、祖母と年が近いように見えたけれど、なぜかいつも着物姿で学校にも行っていない様子だったらしい。どこに住んでいるのかも教えてくれず、夕暮れや夜になると家や学校の周りに時々いて、祖母も最初は怖いと思いながらも、何度か会ううちに、辛い時優しく声をかけてくれたり、どこかへ連れて行ってくれたり、彼女と過ごす時間はとても楽しい安らぎのひと時だったという。

 そして、鬼の姿は幼い子どもにしか見えないのだそうだ。いつのまにかいなくなってしまったけど、すごくいい思い出だよ、と祖母は懐かしそうに言った。

「それが……鬼、なの?」

「鬼かどうかはわからないけれど」と祖母は言葉を続けた。

「そうだったのかもしれないな、って。すごく不思議な子だったから。でも本当にあった事なのか夢だったのかも、今はもうはっきり思い出せないけどね」

「私は、おばあちゃんの話も、鬼がいたって事も信じるよ」

「そう?」

 祖母は少女のように、はにかんだ笑みを浮かべながら「名前すら思い出せないのに、何年経ってもあの子の笑顔がよぎるのよね」と言った。

 その時、何か聞こえた気がして窓の外を見ると、強い風が吹いたのか、バラ達がゆらゆらと大きく揺れた。その様子を祖母はどこか嬉しそうに眺めていた。

 もしかして、普通の人が見えないものや聞こえないものが、祖母にだけわかる何かがあるのではないだろうか。そう思った瞬間、栞那は無性に家に帰りたくなった。

 確かめなきゃ。

「ありがとう、おばあちゃん、もう行かなきゃ」

 テーブルの上のジュースを飲み干し、栞那は勢いよく立ち上がる。

「え?もう帰るの?ちょっと待って、今バラを包むから」

 祖母は新聞紙に包んだバラの花束を用意してくれた。「トゲに気をつけて」

「いいの?こんなに」

「おじいちゃんに、もう見せたから」

「あ、そっか、お参りしてなかった」

 廊下に出てすぐ隣にある和室の仏壇には、白いバラがこんもりと供えられていた。それは、黒い背景に折り重なるように咲く艶やかな花びらがとても映えて、はっとするほどアンバランスで美しかった。

 花束を一旦祖母に預けて、お線香を供え祖父の遺影に手を合わせる。

「おじいちゃん、バラの花が1番好きだったの」

「そうなんだ」

「だから、この香りを嗅ぐといろんな思い出が浮かんでくるのよね。つい昨日まで忘れていたような、ささいな出来事まで」

「なんか、わかる気がするかも」

 祖父は、父親が大学生の時に亡くなったと聞いた。祖父がいたから自分がいて、自分がいるという事は祖父がいた、という事実は、たとえお互いに出会う事が叶わなくても、消える事のない確かな繋がりだ。

「おばあちゃん、寂しい?」

「全然大丈夫よ。それに天国から見てくれているでしょう。きっと栞那の事も見てるんじゃない?」

「ありがたいけど、ちょっと怖い気もする」

 祖母の笑顔を見て、栞那はホッとする。 

 まだおじいちゃんと呼ぶには若すぎるであろう写真の中の祖父も爽やかに笑っていた。


「じゃあね、おばあちゃん、ありがとう」

「栞那、本当は何か困った事があったんじゃないの?」

 帰り際にドキっとする事を言われたけれど、「大丈夫ー」と急いだフリをして出てきてしまった。祖母には心配かけたくないし、心配してほしくない。

 いや、今はそんな事より大事な事がある。

 自転車のカゴでふわふわと揺れる花束を気にしながら、栞那は急いでペダルをこいだ。

 楽しみでワクワクするような、怖くてドキドキするような、初めての胸の高鳴りを感じながら、息をきらして家を目指した。












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