第4話 生まれ変わりの朝
布団をしっかりと握りしめ目を見開くと、床にぼんやりと光るものが見えた。
光っているというより、揺らめいているといった方が近いかもしれないその青白いものは、油が燃えているような炎に似ていて、かげろうのようにゆらゆらと揺れながら、床のあちこちに落ちている。
これは……ひとだま……?
怖い話の中によく出てくる人魂だ、と栞那は思った。
浮いているものを想像していたけれど、なぜかそれは床にあり、段々と消えてゆく。どちらにしてもこれが見えるという事は、近くに霊とか妖怪とか、そういうたぐいのものの存在を示しているに違いない。
栞那はゆっくりと深呼吸をする。
どこからか風が入ってきている。窓は開いていない。
ふわりと何かが動いた気がしてクローゼットの奥の角に目をやると、黒い人影のようなものが見えた。ひいっと声が出そうになって、布団を口に押し当てる。
床の炎に照らされた、黒い人らしき体の下の部分だけがかろうじて浮かび上がり、2本の足が見えた。着物の裾のようにも、ロングスカートのようにも見える布端からのぞいた裸足に履いているのは、どうやら草履のようだ。
幽霊だ……!
そう思った瞬間、なま温かい風が正面にぶつかってきて、一瞬で目の前にきた黒い幽霊が、にゅうっと白い腕を伸ばしてきた。
「ひやぁあああっ!」
叫んだと同時に目の前が真っ青に染まった。深いプールの中に落ちてしまったような衝撃の後、上へと浮上してゆく感覚。心地よい暖かさに包まれ異常な眠気に襲われる。息はしているのか止まってしまったのかもわからない。
きっと、死ぬんだ。
薄らぐ意識の中で、最後に走馬灯のように沢山の思い出すら流れない、そんな人生だったんだな、と栞那は思っていた。
目を開けると、天井が見えた。
カーテン越しの柔らかな光が、部屋をふんわりと照らして、鳥のさえずりと朝のニュース番組のテーマ曲が、軽やかに耳に届く。
「あ、れ……?」
横たわった自分の体は温かい布団に包まれ、見慣れた朝の光景がいつもより眩しく見えた。
「……生きてる!」
栞那はベッドから飛び起きた。
部屋を見渡しても特に何も変わった様子はない。服は昨日のまま、いつのまにか眠ってしまったようだ。だとしたら、あれはどこからが夢だったのだろう。
「なーんだ」
死ななかったんだ。
幽霊は、生きている人間を恨めしいと思っていて、あの世に連れていったりするとも聞いたけれど、どうも違ったようだ。なんにしてもこういう体験をすると、どんなにつまんない人生を送っていても、生きてて良かった、と思うもんなんだな、と栞那は変に関心した。
すっかり目が冴えてしまったので、仕方なくランドセルに荷物を詰めて準備をしていると、宿題をやっていない事に気づいた。そういえば昨日、学校で嫌な事があった気がするけど何だっけ?と、すぐに出てこない事に栞那は何やら違和感を感じた。
「あれ、栞那早いね、おはよう」
「おはよう」
今朝の母親は機嫌が良さそうだ。
24時間営業のスーパーで働く母親は、フルタイムで土日も出勤し、アルバイトを指導したりするリーダー的な責任のある立場であるらしく、残業や呼び出しもしょっちゅうだ。1度正社員になるという話があり、父親の反対や祖母の負担を考えて諦めたようだけど、その頃からなんとなく両親の言い争いが増えたような気がする。
リーダーになって仕切るとか、そんなまるで自分とは違う母親のそういう姿がかっこいいとか、すごいとか、正直思った事はなかった。家族の為に頑張ってくれている事も絶対なのだろうし、家の中が散らかっていたって他を知らなければ気にならないけれど、後回しにされている事が他にもある事に、ある日気がついた。
ダイニングの椅子に座ると、とん、と目の前にグラスが置かれて、珍しく母親が牛乳を注いでくれた。
「そうそう、運動会いつだっけ?」
「たしか6月11日かな」
学校の手紙を渡し損ねる事もよくあるけれど、あまり問題はない。
「まだ休みとれると思うから」
「別に無理しなくていいよ。他のお母さんも休むんでしょ」
「そりゃそうだけどさ、さすがに最後だしね」
「ふうん」
「雨降らないといいけどね」
栞那は、焼きたての温かいパンをほおばる。
「……お母さん、これいつものパン?」
「そうだよ」
なんだろう。おかわりしたい位美味しい。
そういえば今朝は、やけに頭もすっきりしている。もしかして、やっぱり1度死んで生き返ったのだろうか。
ただ、もしあのまま本当に死んでしまっていても、いつものように爆睡していると気づかずに仕事に行ってしまいそうな母親をちよっと気の毒だと思った。気づかなくてごめんね、などと思うのかな……と縁起でもないなと思いながらも、同じ家に住んでいるのに、あまり顔を合わせないのも変なのかもしれないな、と栞那は思った。
朝食を向かい合って食べるのも、久しぶりだった。
「ねぇ、お母さんは霊感強い?」
「え?全くないと思うけど」
「じゃあ、お父さんは?」
「さぁ?聞いたことないな」
霊感は遺伝するというけれど、その可能性は低そうだ。
クラスの女子が怖い話で盛り上がっているのを時々耳にする。もちろん会話に入る事はないけれど、栞那もそういうたぐいの話は実に興味があり、いつか自分もそんな不思議な体験をしたいと思っていた。というか、きっとするだろうと思っていた。今回の事も夢ではなく、現実であって欲しいと願っている。
「おばあちゃん、夜ご飯作ってくれたんだね」
「そうだよ」
「そういえば……昔パパから聞いたんだけど、おばあちゃん子供の頃、鬼と遊んだって言ってたらしいよ」
「まじかっ‼︎」
ガタン、と栞那は椅子に足をぶつける。
「おばあちゃんは昔から不思議な話を良くしてたって言ってた」
「おばあちゃんが?!」
「この辺りは昔から、鬼の伝説みたいのがあるらしいしね」
「……鬼?」
そう口にした瞬間、栞那の鼓動が早まった。
そうだ。確かに小さい頃、紙芝居や読み聞かせで鬼の話を聞いた事がある。この辺りに残る昔話で、どこかに鬼を祀った神社があるとかないとか。たぶん、保育園の頃だ。
内容は忘れてしまったけれど、その絵本が好きでよく読んでもらっていた事も、それをきっかけに怖い話が好きになったのも、今の今まですっかり忘れていたのに、突然その時の記憶が鮮明に蘇ってきて、栞那は鳥肌がたつのを感じた。
けれど、祖母からは不思議な話や、ましてや鬼の話題など一切聞いた記憶はない。鬼と遊んだ事があるなんて、祖母は実はすごい人で、もしかしてそれを隠していたのではないだろうか。
本当なのか、知りたい。
栞那は胸のつかえるような興奮で、食事が喉を通らなくなってしまった。早く家を出ても学校が早く終わるわけではないけれど、いつもより急いで支度をして靴を履いた。
「いってきまーす」
「え?もう行くの?行ってらっしゃい。気をつけてね」
昨日の大雨が嘘のように、眩しい朝日が水たまりにキラキラと反射していた。
栞那はそれを軽快に避けていく。
青い空や白い雲を写し出す鏡が、地面に沢山散らばっているようだ。
のぞきこんだ鏡に自分の顔が映ると、昨日のあいつのバカにした顔が頭をよぎって栞那は唇をかむ。でも、ふっと息を吐くと力は抜けて痛みはすぐ消えた。もっと大きな水たまりを、今度は助走をつけて高く飛び越える。
きっと、この世界にはない何かが自分を待っている。なぜかそんな気がする。
そして、母親に手を振られ見送られながら学校に行くのはいつぶりだろう、と思いながら、ランドセルを背負い直して栞那は学校へ向かった。
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