第3話 欠片
登校前に降り出した雨は、午後になっても降り続いていた。
いくつもの水たまりをかろうじて避けながら栞那はマンションへ向かう。短縮授業で早く帰れると朝から待ち遠しかったはずなのに、学校からずっと重たい荷物を引きずってきているみたいに、思うように足が進まない。
3時間目の音楽は、合唱の練習だった。音楽の森田先生は、口調は厳しいけれど1人1人に声をかけてくれる活気の良い女の人で、4年生の時、声の出し方や気持ちがこもっている、と褒められたのがきっかけで、栞那は森田先生にどこか尊敬や憧れのような気持ちを抱いていた。
1度だけ、歌手になりたいと打ち明けた事があった。先生も歌手になりたかったんだよ、と授業の後ピアノの前で話をした日を今でも時々思い出す。そんな記憶も今日の出来事がなければ良い思い出のままで済んだのに。
合唱の練習が終わり音楽室から教室に戻る途中、1人の男子がふざけて勢いよくぶつかってきたのだ。振り返るとよく見覚えのある顔だったので、栞那は何事もなかったように無視した。関わってはならないお手本のようなやつ、
「ムダにでかい奴、じゃま〜」
片方の口の端を上げ不揃いな歯を見せながら、一馬はニヤついて言った。
はぁ?勝手にぶつかってきたくせに。
頭にきて思わず「うるさい」と言い返してしまったのが間違いだった。案の定、一馬は嬉しそうにからんできて、
「うわぁ怖ぇ。お前歌ってる時もそんな顔してるぜ」
と、白目をむいて大きな口を開けながら、直立不動で首だけを前後に激しく振った。相変わらずバカな事をするなぁ、と栞那は感心していると
「やめなよー、可愛そうじゃん」
と、
周りの空気が、一気に重くなるのを感じた。
彼らは大きな声や笑っていた事を先生に注意されながら逃げるように去っていった。周りの人達もその後に従うように、ぞろぞろとついてゆく。
誰のせいでみんなが嫌な気分にならないといけないんだ。そう沢山の背中が自分を責めているように見えた。
そして、見て見ぬふりをするように、智花の後ろ姿も、彼らの波に乗って視界から消えた。
一緒に帰ろうと誘われたあの日以来、智花とは、目を合わす事もなくなった。横谷加奈子を中心とした5人グループは、その反面相変わらずだ。
栞那が相手にしなくても、一向に引き下がる素振りはみせない。聞こえるように悪口を言ったり、話を盛って噂を流したり、相手にするのも馬鹿バカしいような事を、飽きもせずに続けている。
そんな様子を、智花はずっと気にしていたという。今日の放課後、担任の
小湊先生が、あのグループの機嫌をとっている事くらい見ればわかるのに、智花は一体なんのつもりだろう。自分ならどうにかできると思っているのだろうか。余計なお世話だ。
「私は気にしていません」
と、言った栞那の態度が気にいらなかったのか
「秋川さんも、無視するからだよね?」
と先生は、やんわりと責めた。
[いじめ]は、被害を訴える事で[いじめ]になるのだと先生は言った。もちろん、あのグループが勝手に言っているだけだし「いじめられているとは思っていません」と言うと、先生は困ったような呆れたような笑みをみせた。きっと面倒臭くなったのだろう。
確かにもう面倒だ。何もかもやめてしまいたい。消えてしまえばいいのかもしれない。
大好きだった歌も、もう歌いたくない。
森田先生はどう思うだろう。小湊先生のようにやっぱり自分を責めるだろうか。
段々と雨足が強くなる。雨から自分を守ってくれているはずの傘すら、投げ捨ててしまいたくなる気持ちを抑えて、栞那は走り出した。
そうだ、今日は祖母が来てくれているからタオルを持って出迎えてくれるはず、と期待して玄関の鍵を開けると、そこに祖母の靴はなかった。
「おばあちゃん……?」
キッチンのテーブルの上には、お菓子とメモが置かれていた。
[おかえり、栞那。急に用事ができたので帰るね。ごめんね。夕飯は冷蔵庫に入っています。鍵はちゃんと閉めてね。何かあったら連絡ください。ばあばより]
「ふぅん……」
栞那は洗面所で濡れた服を着替えると、タオルで髪を拭きながら窓の外を眺めた。遠くの空は少し明るくなってきている。雨さえ降っていなければ、今からでもショッピングセンターに行けたのに。
春休みに1人で何回か行った時はとてもドキドキした。学校ではそういう場所へは保護者や誰かと一緒に、と言うけれど、毎月もらえるお小遣いも管理できてるし、迷子にならない自信もあるし、もう1人でも結構いろいろできる。
「あーあ、何しよう」
濡れた髪や手足が冷えて寒い。栞那は読みかけの本をベッドに連れて布団にくるまった。雨の音がやけに響く。とにかく1人は静かだ。
しばらくしてお腹が空いたので、冷蔵庫の夕食をレンジで温めて食べた。母親の務めるスーパーの惣菜に飽き飽きしていたので、たまに食べる祖母の料理はとてもほっとする。
一緒に暮らす事は叶わなかったけど、祖母も母親も、父親も、みんな別々に、自由に暮らせている今が1番良いのかもしれない。そして、唯一自由ではないのは自分だ。早くなんでもできるようになって、大人になって、自由に暮らせる日々が待ち遠しい。
栞那は食べ終えたお皿とシンクに残ったままの食器を洗って片付けた。
夕方になると、風がベランダにある物をバサバサと鳴らし始めて雨がさらに激しさを増してきた。どこかの扉が時々バタンと響く。その音が聞こえないように、栞那はテレビの音量を上げて、音楽番組の録画をぼーっと眺めて過ごした。
何を言われても平気だと思っていたはずなのに、大好きだった歌がこんなにも嫌な気持ちを思い出させる事になるとは想像もしていなかった。何が歌手になりたい、だ。自分の歌など聞いてくれる人なんて、いないに決まっている。
洗っていて不意に欠けてしまった器のように壊れてしまう時は簡単に壊れてしまうものなのだ。そして、それは元には戻らない。合唱の時間だけが唯一好きな授業だった。どうして人は、人の大切なものを平気で奪えるのだろう。
「おかあさん、今日も遅いな……」
テレビを消すと一瞬で真っ黒になった画面に、ぼんやりと自分の影が映った。その残像が怖くなって、栞那は急いで自分の部屋のベッドにもぐりこむ。
別に、親に虐待を受けているわけでも、壮絶ないじめを受けているわけでもないけれど、こ
の絶望感みたいなものは、一体何なのだろう。
「もう、疲れた……」
栞那は、なぜ出てきたかわからない涙を拭いながら、いつのまにか眠ってしまった。
顔にひんやりとした風が触れて、ふと目を覚ます。少し腫れた目をこすりながら見渡すと、部屋は真っ暗になっていた。ベッド脇の時計を見ると8時。母親はまだ帰ってきていないのか、相変わらず音のない空間にぽつんといる事を実感する。
「しまった……宿題……」
栞那はゆっくりと体を起こすと、どこからか流れてくる風に背中がゾクっとした。でもそれはすぐに部屋の温度のせいではないと気づく。薄暗い部屋が見た事もない青白い色に浮かび上がる。感じる視線。
何か、いる。
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