第2話 特別な瞬間
下校の挨拶が終わり、栞那が帰りの支度をしている間に、ほとんどのクラスメイトは教室からいなくなっていた。我こそはと飛び出して行く男子達と、約束をとりつけるのに必死な女子達。嵐が過ぎ去るのを待つように、栞那はぼうっと彼等を見送る。
「ぐずぐずしてないで」と今朝も母親に言われながらやっと家を出てきたけれど、急いで準備をしたって何も良い事なんてない。時に急いでみても、今度は「がさつな子」と言われる。なんでも大人が基準なのだから。
「はぁ、終わった……」
栞那はランドセルをようやく背負う。どんなに憂鬱な時間を過ごした後でも、誰もいない教室は嫌いじゃない。けれど、綺麗に消された黒板の日付が、もう明日になっている事に気がついた瞬間、栞那はやるせない思いに潰されそうになった。
明日も明後日もその次も、ずっとずっと、同じ事の繰り返しなんだ。
たとえ友達と呼べる人がいなくても、校舎の窓から見える雲や、どこかへ向かう鳥の群れ、校庭に散らばるちっぽけな人達や、大きな森を揺らすほどの風を、眺めていれば1人でも平気だった。空気の匂いや風の温度、光の暖かさや雨の音が、いろんな事を教えてくれる。
けれど、ひとりぼっちになってしまった理由は、そこにあるだろうか。
自分の何が気に入らないのか、どうしてみんなとうまくできないのか、何がいけなかったのか、わからないし、今はもうどうでもいい。
たくさんの人と仲良くして、協力し合い、規律を守り、正しいものが選ばれ、そうでないものに時には罰を与える。一見素晴らしい世界を目指しているように見えるこの場所に、いつになっても馴染めず居心地悪く思えるのは、自分が正しくないからだろうか。
宇宙や生き物の仕組み、読めない漢字や知らない言葉を学校は教えてくれるけれど、こんな気持ちをなんと呼ぶのか、誰も教えてはくれない。
ふと、左の頬に何かが触れた気がして、栞那は窓を見る。黄味がかったカーテンが、ふわふわと裾をなびかせながら風をやりすごしている。
栞那の机から遠い窓からは、オレンジがかった夕暮れの光が窓際の机の表面を輝かせていて、わずかに届いた乾いた風が栞那の短い髪をほんの少し揺らした。
どんな環境であっても、差し込む光や吹いてくる風は、こんなふうにきっと誰にでも降り注がれているのだろう。分け隔てなく、どこまでも平等に。
けれど、それは同時に光の当たる所と影を作りだし、こんなにも不平等な世界に自分達は生きているのだという事に気づかせてくれるだけにすぎない。
それなのに。
下校のチャイムが、はるか遠くの知らない街まで届くように、ゆっくりと時を刻むと、その瞬間がやってくる。
ああ、まただ。
栞那は、そっと触れる風に体を預ける。
誰もいない場所で自分だけに吹いてくる風は、意識を持って近づいてくるようだ。
優しく、暖かく、まるで出会うように。
放射状に広がってゆく何かの中で、自分だけが特別な存在なのだ、と思える。
そんなわけないし、矛盾してる、とも思う。
けれど、そう思う事をやめられない。
全ては、私の周りから始まっている。
世界の中心に立っているみたいに。
だから、こんな1人の時間が好きだ。
きっと、誰にもわからないだろうな。
昇降口を出て西門を通りすぎ、栞那は校庭の隅にあるうさぎ小屋に向かった。たんぽぽの葉を探して細かい網の隙間からねじり込む。
「おいでー」
さっそく2匹のうさぎが近寄ってきて、葉をもくもくと食べた。人がいなくなった頃、エサをあげたり、うさぎの柔らかそうな毛並みやヒクヒクと動く口元を見るのがとても好きだ。
小屋の脇には下級生達が世話をしている花壇があって、色とりどりのチューリップや金魚草、パンジーやビオラの周りを、蝶々がせわしなく舞っている。
草花に寄ってくる虫達を観察するのも面白い。アゲハ蝶の幼虫を見つけた時はこっそり連れて帰ったり、蟻の行列を追ってみたり、トンボを指にとまらせたり、いくらでも時間がつぶせる。
約束もない。急かされたり縛られない自由な時間。校庭や通学路には、誰かと一緒に話をしていながらでは見つけられないものが沢山あるのだ。
「何、してるの?」
びっくりして振り返る。智花だ。
「別に……」
そっちこそ、なんでこんな所に。いつも一緒にいる子達はどうしたのだろう。もしかして、待ち伏せされていたのだろうか。
「……一緒に帰ってもいい?」
想像もしていなかった智花の言葉に、栞那は思わず目を逸らした。少しだけ見えたぎこちない智花の微笑みに、断る理由がとっさに浮かばなかった。
「……いいけど」
「良かったぁ。お家、どのへん?」
「
「そうなんだ、じゃあ途中まで」
栞那の家は御室川という川の近くのマンションだ。学校区のギリギリなので、その近辺から通っている子はあまりいない。正門を出た少し先の信号で、川の方と街の方と分かれる。だから今までも誰かと一緒に登下校する事はほとんどなかった。
そんな短い道のりを、2人で並んで歩く。
「秋川さんって、いつも服おしゃれだよね、どこで買ってるの?」
智花は今までの印象通り、堂々と相手の目を見て話してくる。その目の裏側を探ろうとしてしまわないように、なるべく顔を見ないで聞く。
「だいたい通販かな……」
「えーすごい、いいなあ、うらやましい」
「そうかなあ」
栞那の母親はフルタイムで働いていて、父親は3年前から単身赴任している。家族で買い物に行く事がほとんどないので、ただ単に通販を利用しているというだけであって、何もすごくないし羨ましがられる事でもない、と栞那は思った。
それに智花の方こそ流行りの服をいち早く着ていて、周りの子に憧れと嫉妬の目で見られているのを栞那は知っている。女子特有の、そういうの面倒くさい。
「雑誌とか何見てる?」
「あんまり見ないかな」
信号まであと少しだ。早く曲がりたい。
自分の事をいろいろ聞かれるのは苦手だ。褒められたり、羨ましがられるのも好きじゃない。
「読書好きなの?漫画とかも読む?」
「別に」
と、つぶやいた自分の口調が思わず強くなってしまった事に栞那は気づいた。そっと見た智花の横顔が思った通りに曇っていく。
「ふぅん、そっか……」
智花は、もう何も聞いてこなかった。
交差点に差しかかると、智花は逃げるように「じゃあね」と小さく手を振り、振り返らず走って横断歩道を渡っていった。栞那は大きなため息と同時に、緊張の糸が解けていくのを感じた。
明日から、智花は話しかけてこないかもしれない。それで構わない。良く知らない相手に自分の事を知られるのはなんだか怖い。
仲良くなりたくないわけじゃない、嫌いなわけじゃない。
栞那は心の中で、智花に「ごめんなさい」と思っていた。
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