ひゅうきの風

濱 ひろみ

1章

第1話 1人の場所

 ゴールデンウィーク明けの学校は、にぎやかだ。

 4階までの階段がこんなにきつかったかな、と栞那かんなは踊り場で息を整える。自分の汗か手すりの汚れか、手のひらの不快な湿り気を服で何度も拭いながら、追い抜いてゆく同級生達の流れに逆らわぬよう、足を踏みしめ行くべき場所を目指す。

 6の1のプレートを確認し、教室の後ろの入り口の前でピタリと体が止まる。同時に、ふわっとした立ちくらみのようなめまいが頭を揺らした。

 開け放たれたドアの向こう、まだ見慣れない教室のあちこちで、いくつもの群れがお互いに微妙な距離を保ちながら、わざとらしい笑い声と手を叩く乾いた音を競い合っている。

 いろんな柔軟剤の混ざり合った鼻をつく匂いが、白い蛍光灯に照らされて濁った空気に見えて、足元のレールの手前で栞那はそれを越えられずにいた。


「おはよー」

 こちらに向けた声の主と視線がぶつかる。

「おっはよー」

 の返事と同時に、後ろからランドセルを突かれ、栞那の足は境界を越えた。

「邪魔くさ」

「迷惑だよねー」

「ほんと、みんなが通る所なのに、そういう事もわかんないのかな」

 バランスを崩した栞那の脇をすり抜け、後ろから突いた人影が群れに加わると、笑みを浮かべた4人の視線がいっせいに自分を刺した。

 挨拶が自分に向けられたものではないとわかっていたけれど、思わず目を合わせてしまった事に栞那は後悔する。すぐにランドセルを背負い直し、淀んだ空気を祓うように自分の席へと向かった。

「耳、悪いんだっけ?」

「シカト?」

 彼女達の言葉は雑音の中でも不思議と良く通り、近くにいた誰もが会話をやめて耳をそばだてた。でもそれはほんの一瞬の出来事で、好奇心で見守る成り行きに見て見ぬふりをした後、またそれぞれの会話へと戻っていった。

 しつこいな。

 栞那はランドセルを乱暴に置いた。

 彼女達のが始まったのは、新学期になってすぐだった。きっときっかけは、何かの誘いを断った、そんなささいな事だったのだろうと思う。

 おかげで今ではすっかりクラスの注目の的になってしまった。と言っても「あの子とは仲良くならない方がいい」という意味で目立っているのであって、もちろんそんな自分に目を合わせる子も、挨拶してくるような子もいない。

 そんな人間の向かう所は、机や椅子、名前の貼られた小さなロッカーという、この部屋で唯一与えられた自分の場所だけだ。


 クラス替えをしてまだ1ヶ月。

 ここは、30人もの人が同じ部屋で毎日一緒に過ごさなくてはならない世界だ。けれどほとんどの人達は、そんな窮屈な世界でも1人ぼっちにならないように、友達と呼べる相手を探さなくてはならない。

 自分が誰と仲良くなるか、どのグループに入れるか、これからの1年を左右すると言えるほど、なにより大事な事なのだ。

 ずいぶんと大きくなった体や賢くなった頭は親や先生達にとっては喜ばしいのだろうけど、そういう事に頭を使えるようになるほど、自分達はいつのまにか健気に成長してしまったのだ。

 こんな経験も、もう何度目だろう。

 些細な、くだらないと思えるような簡単な理由で、仲間外れにしたり、嫌がる事をして喜ぶ人間がいる事を、私達は知っている。


 昼休み、栞那は6年生の教室が並ぶ1番奥の部屋を見に行く事にした。そこはスタディルームと呼ばれている空き教室だ。「少子化で子供の数が少なくなっていて、この学校も児童数がずいぶん減ってしまった」と、先月の入学式で校長先生が言っていた。だから余った教室をスタディルームという名前で自由に解放しているのだという。

 部屋には文化系のクラブ活動の作品が飾られ、図書室にはない寄付された本などが置いてあり、机や椅子は少ししかないけれど、絵を書いたり本を読んだり、生徒が思い思いに過ごせる場所になっている。

 栞那はドアの小窓から部屋をざっくりと見渡し、机はもう埋まってしまったけれど床のスペースにはまだ充分な空きがあるのを確認する。

 やっぱり今日も来てる。

 風に揺れるカーテンの下に、あの子がいる。いつものように1人で床に座って本を読んでいる。

 そう、ここは、1人でいれる場所。


「秋川さん」

 突然後ろから誰かに呼ばれびっくりして振り返ると、同じクラスの女子が立っていた。

「秋川さん、外遊び行かないの?」

「……うん」

「読書?」

「……うん」

 そう答えると、橋口智花はしぐちともかは、首をかしげてうつむいた。

 智花の身長は栞那と同じ位で高い方だけれど、彼女の手足は細長く栞那もいつか着て見たいと思うような大人っぽい服をいつも上手に着こなしている。よく発表し、顔立ちもはっきりしているので、目立たない事はまずないような子だ。

 みんなの前でも堂々と意見をいえる人。まだクラスの半分くらいは名前と顔が一致しない栞那でも、名前がすぐに思い出せるほど、彼女のような人の存在というものは、無意識に上手に入り込む。自分とは全く逆の意味で注目を浴びて、目立っている人間。そんな子が一体何の用だろう。

 それに、彼女もきっと今朝の事をどこかで見ていたはずだ。

「ともかちゃーん、早く行こう」

 遠くから彼女を呼ぶ声に、智花は少し驚いて静かに後ずさりする。そして、「あ、じゃあ私、外行くね」と小声で言うと、友達に囲まれながら階段を降りて行った。

「……なんなの」 

 栞那はドアを開け部屋に入ると、本を適当に選び部屋の隅に座った。足を投げ出して壁に体を預けると、冷んやりとした感覚が緊張して熱くなった体を落ち着かせた。

 窓から流れてくる風が、小声で話す誰かの言葉を遮るように、静けさが漂う部屋。形も大きさも自分の教室と変わりないはずなのに、息苦しさや暑さを感じない。

 広く思えるせいか、視線の先にあるあの子の姿は、年下のようにとても小さく見えた。

 その華奢な体で大事そうに抱えて読んでいる見覚えのあるブルーのカバーの本は、栞那の部屋にもある魔法が使える男の子の物語で、栞那も何度も読み返した事のある本だった。個性豊かな大人達や仲間に支えられ、次第に成長してゆく男の子の姿が頭に蘇ってきたのをかき消すように、栞那は自分の本のページをめくった。

 世の中で1番多いのは、友達でも知り合いでも家族でもなく、無関係な人だ。関わりがなければ争いも起こらない。それこそが平和なのだと思う。もし1度でも関わってしまえば最後は結局、敵か味方のどちらかになるしかなくなってしまうのだから。一体どれくらいの人が味方でいてくれるというのだろう。

 だったら関わらない方がいい。

 どうか関わらないで欲しい。

 目の前にいるあの子と自分のように、どんなに近くにいても、同じ空間にいても、平和を守るためにできる事がある。

 彼女が自分なら、きっと誰にも声をかけてもらいたくないだろうから。

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