第6話:一拍遅れてくるもの

 前と同じホテルの、違う部屋。

 また電気を消して、今日は沢君はシャワーへは行かない。

 こないだ、バスタオルを二枚使ってしまったことを気にしているらしい。人は妙なところを気にするものだ。

 しかし先に洗面台でコンタクトを外してくるというので、また真っ暗にして待っていたら、「本気で見えない!」と声がする。

「こっち、こっちって!」

「ちょ、こっち?何か踏まない?転ばない?」

「大丈夫だいじょうぶ」

 パチ、と、沢君が目の前を探る手が、俺の胸にあたった。

 もう全裸だったから、そういう音がした。

「あ、あれ、当たった?ごめ・・・」

「平気」

「あのさあ、イケさんさあ、俺さあ」

「・・・うん?」

「これ、現実逃避かなあって思うんだよ。ここ来んのも、そんでもはや、音楽も」

「・・・うん」

「やっぱり現状がどうにもならなくて、あがいてみて、で、その、なぜかこんなとこ来ちゃって、でもこれって、俺の現実逃避にイケさんを付き合わせてるだけっていうか」

「付き合ってないよ」

「・・・え」

「俺だって、何か、やっぱり下心じゃないけど、期待して来た面もあるし・・・でもそれは置いとくとしてもさ、俺だってやっぱり逃避かなって思うわけだけど、でもそもそもがさ、そもそも俺にとっては音楽自体が全力の逃避みたいなもんで、だから、互いの逃避先がここならもう、それはそれでいいんじゃないかって」

「お互いの、逃避先?」

「うん。きっとこういう場所が、必要だったってことで。とりあえずは、今のところ」

「・・・で、でも」

「今日はもう少し、・・・踏み込んでみる?」

「・・・っ、ふ、ふみこむって、どこへ」

「沢君のいいところ」

「・・・はっ、な、なんすかそれ・・・」

「沢君が、逃避はまずいと思ってるなら・・・でも今だけそれが許されるんなら何をするか、その実験場でいいと思う」

「・・・や、ちょ、・・・あたま、ついてってない」

「まず全部脱いで」

「ひっ・・・」


 沢君がTシャツを脱いで、俺が短パンのボタンを外してファスナーを下ろした。

 ふぁさりと足元にそれが落ち、一拍遅れてその風が届く。

 ・・・この一拍だ。沢君が言ってる、サビの詞のいっこか二個手前。たぶんこの空気、ああ、森の風の、あっちからこっちに届く、その時間差と距離感のことだったのか。

「沢君」

「・・・え、あ」

「ごめん。沢君がそこへ踏み込めばいいって思ってたけど、その前に俺からいい?どうしても・・・そうなっちゃって」

「な、・・・なんすか?」

「キスしていい?」

「・・・」

「嫌だったら言って。それは嫌でも普通、仕方ないと思う」

「・・・え、いや・・・」

「いや?・・・嫌?」

「いや、し、していい、別にいい、たぶん、けど・・・」

「けど?」

「けど何で、なんでそんな落ち着いてんの?俺そこがわかんねー」

「だって沢君の音に集中してるから」

「はあ?そ、んな・・・でもそっか、じゃあ俺も、イケさんの、詞に、集中・・・」

 その声を遮るように、ベッドの前に立ったまま、両手でその顔を探って、人差し指でその唇を横になぞった。

「あの・・・でもその、何で、キス・・・?」

「さっき言ってた、サビのいっこ手前ってやつ。それが分かった気がして、肉体と記憶にフィックスさせておきたくて」

「ふぃ、フィックス?」

「くっつけるってこと。連動して憶えておくと後から引き出せる」

「え、えと、あ・・・」

 構わず唇をふさぐと、ほんの少し、タバコのガサガサした分子がどこかから入ってくる気がした。さっきの居酒屋かもしれないし、沢君が吸うのかもしれない。

 舌がやや痺れる。音が曇る。

 ちょっと、森の風とは似つかわしくないけど、でもそれも、沢君なんだから仕方ない。


 やがて沢君が少し声を漏らし、身体を小刻みに震わせ、俺の腕をつかんできた。

 ・・・しかし、ややあって抱き合っていた腰が離れて、唇も離れた。

「あ・・・や、やっぱ俺、こんな・・・、いけないと思う。こんなの沈んじゃうっていうか、溺れちゃうっていうか」

「・・・うん」

「コラボの話も、や、やっぱりナシにしませんか。こんなんじゃ俺、わけわかんない。こういうのまずい。マズイとしか思えない」

「・・・うん」

「・・・ちょ、・・・『うん』って、・・・え?」

「最初に誘ったの沢君だよ」

「わ、分かってますそれは!だからごめんなさい!本当にそれは」

「・・・コラボの話はナシにしましょう。やりたければまたいつでもやればいい」

「・・・は、・・・は、い」

「そしたらどうします?」

「・・・え」

「帰る?でももう終電もないし」

「・・・」

 しばらくの沈黙。

 焦っている息遣い。

 気まずいんだろうな。気の毒に思う。でも俺はそうじゃない。

「あのね沢君。・・・さっきはちゃんと言わなかったけど、俺ね、あのサビのさわりのとこ、すごくいいと思う」

「・・・」

「これまでの<サワーPのすごくいい感じ>とはまたちょっと違うんだけどさ、・・・何だろう、やや朴訥としてるのに、内側から壮大で、何か気迫を感じる。まだラフだと思うんだけど、俺すごくね、・・・期待しちゃってる」

「・・・それは、・・・それはすごく嬉しい、けど、・・・うん、ちょっとだけ俺もね、何か、新しい感じ、つかめそうかなって」

「ならいいじゃん」

「でもね、でもね、・・・それ、もっといくために、・・・あのね」

「・・・うん」

「イケさんの詞、・・・だけ、じゃ、足りないって、思う自分がいる」

「・・・う、ん?」

 ごくりと、唾を飲み込む音がした。

「こ、こわい。たぶん、こないだの・・・あ、あの体験が何か、強く残っちゃってて、・・・でもさ、そんなの、そんなのってその・・・ただの性欲っていうか?でも性欲で曲を書くわけじゃないじゃん!?こ、恋の曲だってさ、セックスの快感を書いてるわけじゃないじゃん?それがお、奥には、あったとしてもさ!」

 無言で、もう、抱きしめた。上半身の、肌と熱。沢君は「ひいっ」と驚き、でも、抵抗はしなかった。

「沢君ってそんなに純粋?そんなに清純じゃないと思うけど。繊細、ではあるんだろうけど」

「・・・せ、清純、では・・・わ、わかんない。でも」

「もっと肉体を信用した方がいい。そっか、サワーPの世界観には、肉体があまりないのか。下の層にはあるんだけど、上には絶対表れてこない。その、絶対出てこないのは敢えてそうしてるのか、無意識なのかって・・・」

「イケさん、そういうの・・・勝手な分析、だよ、ね」

「はは、そうだけど?・・・でも俺、音楽に関しては、そうそう間違ってない自信がある」

「うん、・・・そうっぽくて悔しい。そんで、何か、やっぱり」

「・・・うん?」

「足りない」

 その一言は、それまでの、どうしようどうしようの沢君じゃ、なかった。

 何かをつかんだ時の声。確信的。ああ、これだっていう音が分かった時の声。

 沢君が俺をベッドに押し倒して、後ろから羽交い絞めのようにして、脚を脚で押さえつけられた。

 一瞬、これが性的なことなのか、プロレスごっこのような戯れなのか、あるいは苛められているのか、自分が何をされているのかよく分からなくなる。

 反射的に「ううっ」と声を上げて身をよじったら、さらに脚を開かされた。それで、ああ、・・・沢君は俺を<あらわ>にしたいんだなと思った。

 ぞくぞくする。

 俺は、何だかんだと沢君をあおって、その衝動を引き出したかったんだろう。

「いいよ、もっと、そうして」

「ねえイケさん、今気持ちいい?・・・恥ずかしい?」

「どっちも。でも気持ちいい方が大きい」

「わりと・・・おかしいよ、それ」

「うん」

「俺もだけど」

 後ろから急に弱いところを刺激されて、変な声が出た。でも、衝動を引き出してるという充実感が、やはり一拍遅れて込み上げる。

「イケさん・・・恥ずかしいよ?そんな声」

「うん、今のは恥ずかしかった」

「じゃあもう一回・・・」

 思わず身体を縮めようとして、すると、許さないとばかりに力を込められる。それでもう、ああ、ここが、あの時の、手首をドンと鳴らしたあの瞬間なんだ、俺の詞と沢君の音がばちっとリンクする、それがここなんだと分かった。俺は沢君の衝動を引き出したいし、沢君は俺を恥ずかしい目に遭わせたい。たぶんそれは、俺を苛めたいんじゃなく、自分の奥底の欲求を俺を通して解放したいから。

「沢君、俺、恥ずかしいよ・・・」

「何それ、さっきまで何か余裕だったのにさ・・・」



* * *



 それで火が付いたらしい沢君に、もう身を任せた。


 直後、ぼうっとしてしまって何も考えられないが、今は後ろで何かそういう音がしている。その音と沢君の声は俺の耳にいつまでも残って、頭の中でいつの間にか譜面になっていった。

 そうして俺はぼんやりと、次の歌詞を考えた。

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