転生
目覚めたとき、彼は心底驚かずにはいられなかった。まさか目覚められるとは、それこそ夢にも思わなかったのだ。全身をまさぐってみる。傷ひとつない。痛みもない。信じられなかった。
こんなことってあるのか?
彼の脳裡には、自分がいちばん最後に見た光景──自分に向かって突き進んでくるトラックの、ヘッドライトのぎらぎらした白い輝きが焼きついていた。それから、全身を打ち据えた激しい衝撃と、耐えがたい痛みも……。
あの事故を生き延びたっていうのか?
こんなことってあるのか? いやマジで。
ところで、ここどこだ?
彼は起き上がり、周囲を見回した。最初は病院かと思った。だが、どうにも違う。奇妙な空間だ。うすぼんやりと明るい、やたらとだだっ広い場所である。はるか彼方は、霞がかって見通すことができない。今しがたまで横たわっていた床──というか地面は、何やら柔らかくて温かった。土ではなく、石でも木でも金属でもない。正体不明の素材でできているとしか言いようがなかった。気温は暑すぎず寒すぎず、適度な湿度も感じられ、快適といっていい雰囲気であった。
しかし、彼はどうにも不安を感じずにはいられなかった。奇怪な床の感触もさることながら、どうにも静かすぎるのだ。ほんのわずかな音も聞き取ることができない。かすかなざわめきや、それこそ風の音すらも……。都会暮らしの経験しかない彼にとって、これほど静かな環境に放り出されたのははじめてだった。静けさも、度を過ぎれば安らぎではなく不安を人に与えるのだと、彼はこのときはじめて知った。
「おーい!」彼は叫んだ。「おーい! 誰かいませんかあ! 返事してくださーい!」
あたりはしんと静まり返ったままだった。彼の声は、彼方の霞に吸い込まれてしまったかのように、どこにも反響せずに消えてしまった。
言い知れぬ不安と恐怖が彼の心臓を鷲掴みにした。
もしや、ここは死後の世界というやつでは?
ぼくはやはりあのとき死んだのでは?
脳から血の気が引いていく感覚に、彼は膝をついた。目の前が暗くなっていく。死んでも気絶はできるのか、と彼はぼんやり考えた。
「んなわけないっしょ」
声がした。女の子の声だ。自分とそれほど年は離れてなさそうだ。とても近くで聞こえた。
気絶している場合ではない!
彼は反射的に覚醒し、周囲を見回した。誰もいない。しかし、確かに声が聞こえたのだ!
「おーい!」彼は声を限りに叫んだ。「おーい! きみは誰だ! どこにいるんだ! ここはどこなんだ! 返事してくれーっ!」
「ここ、ここ。こっち向いて。そんな大きな声出さなくても聞こえてるよーん」
彼は声のした方を振り向いた。
果たして、女の子がひとりそこに立っていた。彼は、その女の子の美少女ぶりに腰を抜かしかけた。これまでの人生で、こんな美少女をこんな間近で見たことなど、彼には一切なかった。アニメかゲームのキャラクターのようだ。服装も何だか浮世離れしている。彼は、自分がプレイしている、最近流行りのオンラインゲームに出てくる女の子のキャラクターを思い出した。あの子の服装にずいぶんよく似ている。どういうことだろう?
よっぽどポカンとした顔をしていたのだろう。美少女はくすくす笑い出した。ツインテールというのか、彼女の頭の左右に振り分けられた水色の長髪が、笑いに合わせてふわふわ揺れた。
「あっはは……いっやー、こんなにびっくりされるとはねー。まいったなあ。……もしもしー、また気絶しちゃったかな?」
「……あ、いや、その、目は覚めてます」彼はようよう言った。「でも、その、こういうことってはじめてで」
「だろうねえ。人間ってさ、いつでもこうなるんだよねえ。転移慣れしてないっていうかさあ……」
え?
「あらら、ごめんね。変なこと言っちゃったかな?」女の子はちょっと申し訳なさそうな顔になった。「いやー、マジごめんね。ついデリカシーのないこと言っちゃうんだわ。えっと、言い忘れてたけど、あたしの名前はアイシャ。よろしくね」
「ええっと。アイシャ、さん。いま言ったことって、どういうこと……」
「や、文字通りの意味だって。きみみたいに、人間って種族は、ここに転移してくるとたいていぼんやりしてるってこと」
言っていることがうまく理解できない。彼はおそるおそる尋ねた。
「あ、あのさ。きみは……きみは、人間じゃ、ないの?」
すると、アイシャは笑い出した。笑いは先ほどよりずいぶん長く続いた。涙を流すほど笑ってから、彼女は彼に向き直って、こう言った。
「あのね、あたし、人間じゃないんだよね」
意味不明である。どこからどう見ても人間ではないか。そう思ったので、彼は言った。
「いや、アイシャさん、きみはどこからどう見ても……」
「残念だけど違うんだなあ。あたしはね、きみらのいうところの、妖精とか精霊とか、そういう存在なんだ」
そのセリフを聞いたとたん、彼の胸の中に、またも先ほどの不安と恐怖が黒い雲となって沸き上がってきた。
「と、と、とすると、こここここは死後の世界……」
「なんでそうなんの」
アイシャは彼の頭をはたいた。痛かった。
「痛い」
「でしょー? 死んでたら痛いも何もないっしょ。きみは死んでません。あたしが保証します」
「じゃ、じゃあさ、ここはどこなの。ぼくはどうなったの」
「えっとね。それを説明するのはちょっとめんどくさいんだけど……ちょっと待ってね」
アイシャはしばらく唇に指を当て、空を見上げて考え込んでいたが、ややあってうなずき、彼に視線を戻した。
「ここはね、一種の駅みたいな場所。あるいは空港の待合所。きみにはこれから行くところがあるんだけど、そこに行くための準備が整うまでのあいだ、ここで待機することになっているんだ」
「いったいどこに行けっていうの」彼は尋ねずにはいられなかった。「ぼく、まだ学生なんだよ。学校に行かないと……」
「ごめんね」アイシャは目を伏せるようにしながら言った。それまで冗談めかした喋り方だったのに、不意に言葉の端に痛みと湿り気が混じった。「学校にはもう戻れないんだ。きみの家族や友達とも、もう会えない」
脳天を殴り付けられるようなショックに、彼は再び膝をつかないようにこらえるのが精一杯だった。
「どういうこと……」吐き出した声は呻き声に近かった。
アイシャは居ずまいをただして、彼にまっすぐ向き直って言った。
「きみは選ばれた」
「……誰に」
「いと高きお方、としかいえない。そのお方がきみを選んだ。
あたかも刷り込まれでもしたかのように。
彼はおずおずと尋ねた。
「どんな使命を果たせって言うの……」
「それはあたしにはわからないんだ」アイシャは寂しげに笑った。「その思念の数はいかに多きかな、我それを数えんとすれどもその数は
事態は、今や彼の理解をはるかに超えて、途方もなかった。これまで経験したこともないほど凄まじい孤独感が、不安が、彼に押し寄せ、飲み込み、押しつぶそうとした。
しかし、そのとき、彼はこういうシチュエーションに、なぜか馴染みがあることに気づいた。しばらく考え、それから不意に答えに思い当たった。
異世界転生!
ライトノベルや漫画で何度もお目にかかったことがある王道の展開だ。最初はあまりに異様だから気づかなかったが……そうか、これはチュートリアルなのか、と彼は得心した。
「そう、そう。まさにその通りだよ。これはチュートリアルみたいなもの、さ」
アイシャのセリフは、まるでこちらの心を読んでいるかのようだった。しかし、妖精なり精霊なりの類いであるなら、そういう超自然的な力を持っていても不思議でない、と彼は思った。もう不安は感じなかった。
自分は選ばれたのだ。魔王との対決か何かはわからないが、とにかく何かをなすために、神様か誰かに呼び出されたのだ。もう家族とも友達とも会えず、元の生活には戻れないというのはつらかったが、それ以上に、自分の内側から何やら力が沸き上がってくる感覚を、彼は抑えることができなかった。
「いい顔になったね」アイシャは言った。「よし、もうそろそろ出発の準備ができる。心の準備をしてね。その前に、きみに伝えておくべき情報がある。まあ、スキルセットと思ってくれたらいい。これから先、きっときみの役に立つよ。さあ、目をつむって」
彼は言われた通りにした。
彼の額に、ひんやりとして柔らかな、手のひらの感触が伝わってきた。
アイシャが小声で何か言った。
そのあとはもう何もわからなくなった。雪崩を打って、彼の頭の中に、膨大な情報が渦を巻いて流れ込んできたからだ。凄まじい情報の洪水に、彼は溺れた。これまで見たこともない景色、触れたこともないもの、聞いたこともない音、嗅いだこともない匂い、味わったことのない味……そして、その中に入り交じる、何かしらの戦いの技術らしき情報……やはり、ぼくは勇者になるのか、と彼はぼんやり思った。膨大な情報が脳内に蓄積され、ネットワークを構築するにつれ、自我がどんどん、どんどん希薄になっていく。情報の奔流が、彼をどんどん、どんどん洗い流していく。漂白していく。ただ、強い使命感だけが、きらきらと輝きながら強まっていく。
自分のものではない使命感が。
自分ではない誰かが、自分を押しやり、押し流し、かき消そうとしている。
それに気づいたときには、もう彼に抵抗する力はなかった。彼の人格を構成する情報の大半はほぼ消滅していた。今や彼の肉体の主導権すら奪った、その偉大な精神の輝きの前では、ぼろぼろの彼の精神はまさに影絵のようだった。
もう彼には恐怖することすらできなかった。
意識が消え果てるその一瞬、彼は、青い髪を揺らして、アイシャが泣き笑いのような顔をしながら敬礼するのを見た気がした。
最後に、アイシャの声だけが残った。
行ってらっしゃい。
彼が行ってしまうと、そこはまた静寂を取り戻した。死と生のあわいに、そして砂粒の数より、星の数よりなお多い分岐宇宙の
アイシャはまたひとりになった。
彼女はその場に座り込んで、しばらくぼんやりとしていた。この仕事のあとは、いつもこうなるのだった。何回、いや何十回、何百回、何千回、何万回と経験しても、慣れなかった。顔かたちはそのままに、中身を上書きされた人間が、さようなら、と言い残して、光に包まれて消えていくのを見送るのは……。
彼らが、送り込まれた先で果たしていかなる運命を迎えるのか? それは彼女のあずかり知らぬことであった。いかなる世界が、いかなる者たちが、いかなる理由で、彼らを召喚したのか、そして無数の分岐宇宙を内包する上位構造、いわばメタ宇宙におわす上位存在が、何ゆえにそれに応え、いかなる基準で以て彼らを選抜したのか……それは、アイシャが知らなくてもよいこと、いや、知るべきではないことであった。
ひとつだけ確かなことは、彼らに求められているのは、〈勇者〉の精神の器としての役割だけである、ということだった。そう、彼らの意識、彼らの過去、そういったものは求められていなかった。有り体にいえば、彼らはただ必要なテキストを書き写すためのノートに過ぎなかった。写本製作のために用意されたパピルスの束でしかないのだった。
写本。そう、写本に相違ない。まっさらの大脳皮質というパピルスに記述されるテキスト、それによって引き継がれていく存在。それが〈勇者〉だ。いったいいつ頃からこのシステムが構築されたのかはわからない。アイシャがこの任に就いたときには、もうそのシステムは存在していた。彼女には計り知れない、無数の分岐宇宙のいずれかの過去に存在したオリジナルの〈勇者〉の精神、二度とは得難い
わたしは罪を犯している。アイシャはその自覚にずいぶん前から責め立てられていた。わたしは、多くの人をだまして、死へと追いやっているのだ。たとえ肉体が健在であろうと、元の精神が消されては、それは死と同義ではなかろうか? わたしは大量殺人に手を貸しているのだ。その心の有り様を少しも理解することのできない上位存在のおぼしめすままに!
しかし、わたしに、何ができるというのか? 彼女は顔を伏せて苦悶した。幾度かは、送り込まれてきた者たちを元の世界に戻そうとしたこともあったのだ。しかし、ことごとく失敗し、思い出すのも恐ろしい罰を与えられ……それで、彼女はあきらめたのだ。この恐るべきシステムの手先としてあり続けること、その道を選んだのであった。
いかにして、そして、何ゆえに? ──それを問うても無駄なことだ。ならば、わたしにできることは、せめて笑顔で勇者を見送ること、それしかないのではないか? ──それすら欺瞞とわかっていても、それにすがらぬことには、アイシャは自身の精神を維持することなどもはやできなかった。……
いつまでそうしていただろうか。
どこかで風か吹いた。
彼女はのろのろと立ち上がった。行かねばならなかった。また誰かが送り込まれてきたのだ。
彼女は、広漠たる空間の果てに視線を投げた。そこにはただ、晴れることのない霞しかなかった。
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