来客
その客がやってきたのは、夜もずいぶん更けた頃だった。
「久しぶりだね」客に席をすすめながら彼はいった。「まあ、一杯やろう。今日はこの家にはわたしひとりだけだ……それにしても、こんな遅くにいったいどうしたのだね……君らしくもない」
「ええ──」客はちょっと口ごもった。「こんな夜遅くにお邪魔してしまって申し訳ないと思っています。しかし、どうしてもあなたに会わねばならない、と思いまして」
「ほう。それはいったいどうして?」
「それが……自分でもよくわからんのです。しかし、いても立ってもいられなくなりましてね」
二人は酒を飲んだ。外は静かだった。家の中も静まり返っていた。
「今夜はずいぶん静かだ……」彼はいった。グラスをテーブルに置く。硬い音がやたらと大きく響いた。「いつもは、もうちょっと音がするんだ。風の音とかね……」
「静かな夜……」客は遠い目になった。「現役時代は、朝も夜も騒がしくて、おちおち眠ってもいられませんでしたな」
「そうだったね。あの頃は本当にいそがしかった」
「本当に大変な時期でしたからね。内外に問題が山積し、我々には常に決断が求められていた……」
「前任者の“宿題”をずいぶん片づけなければならなかったしね。あれは本当にひどい汚れ仕事だったな」
「まったくです」
二人はまた酒を飲んだ。外は相変わらず静まり返っていた。応接室の窓の外は墨を流したように暗かった。
「月明かりもないとはな。天気予報では、今夜は晴れるということだったが」
「おかしいな……」客は首をかしげた。「今夜、こちらにうかがったときには、月が出ていたはずです。そんなに急に雲がかかるんでしょうか?」
「さてね。わたしは気象学者ではないからな。……しかし、こうも暗い夜だと、昔のことを思い出してしまうな。たいてい、厳しい決断を下すときは、月明かりもない暗い夜だったよ」
「そうでしたかな……あまり覚えがありませんが」
「きみはいろいろと細かな仕事をやらねばならなかったからね、あまり意識できなかったかもしれないな。とにかく、何かしら大きな犠牲を伴う決断をするときは、いつもそうだったと記憶しているよ」
「なるほど……」
「ところで、用事は思い出せたかね?」彼はいった。「なんとなくわたしも気になっているんだよ。どうも、何かを忘れている気がするんだ。大事なことを……」
「思い出そうとしているんです……」客はいった。「でも、どういうわけだか、思い出したくないという気もしていて……」
「フムン。それはまた、奇妙な話だね。いったいどうして?」
「わかりません……」客はいった。額にじっとり汗が浮いていた。「すみませんが、もう一杯ウィスキィをいただけますかな?」
二人はまた酒を飲んだ。夜は静かに更けていく。コツ、コツ、コツ、コツ。響くのは時計の針の音だけ。コツ、コツ、コツ、コツ。
「そうだ……」客がぽつりといった。「時計の音で思い出しました……タイムリミットがどうこうとかいう話だった気がします。それを思い出したんです。何だったか……ええと……」
「タイムリミット?」彼はぼんやりした声でいった。「そういえば……わたしも覚えがあるよ。何だったか……」
「ああ!」客は大きな声で叫んだ。「思い出しました。A国から我が国の軍を撤退させたときのことですよ。あのとき、確かあなたが……」
「そうだ……いったな。タイムリミットがどうこうといった覚えがある」
「あのときは国内世論が厳しかった……」客は遠い目になった。「わたしは、撤退には本当は反対でした……絶対に将来に禍根を残す、と……しかし、どうしようもなかった」
「しかたがなかった……」彼はグラスを持ったままぽつりといった。「当時、この国は疲弊しきっていた。不況と、人種問題と、たちの悪い病気の蔓延……遠い国の戦争にいつまでも関わっているわけには……」
「しかし……しかし、大統領閣下」客は低く、かぼそい声でいった。「そのために……そのためにA国は……どれほどの人が……」
「政治とは、そういうものじゃないのかね……」彼はいった。疲れはてて、しわがれた声だった。「なすべきことは多く、できることはあまりに少ない……我々にできることは、せいぜい犠牲をいくらかなりとも少なくすることだけで……」
そのときだった。
ノックの音がした。
二人は凍りついた。それから、おそるおそる、ドアのほうを見た。
「大統領閣下」客──退役した元将軍は、彼のほうを見ていった。「思い出しました。そういえば今日は──A国の首都が陥落した日です……」
二人は口をぱくぱくと動かした。もう声は出なかった。
再びノックの音。いや、それはノックなんてものではなかった。扉を殴りつけ、叩き破ろうとする無数の拳の立てる音だ。
「あけてくれ」
声がした。
「あけてくれ」
次々に声が連なった。
「あけてくれ」
「あけてくれ」
「あけてくれ」
「あけてくれ」
「あけてくれ」
「あけてくれ」
「あけてくれ」
「あけてくれ」
「助けてくれ」
「見捨てないでくれ」
「死にたくない」
「あけてくれ!」
声はどんどん、どんどん大きくなっていった。
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