そこにいる

 サンディ上等兵のことですか? わたしには何とも。彼女とは、単に同僚としての付き合いしかありませんでしたから。ただ、いろいろ相談に乗ったのは確かです。当時、ペアを組まされてましたので。

 彼女が、影が見えると言い出したのは、例のナノマシン投与の後です。それ以前に、そういったことを口にすることはありませんでした。最初の頃は、ときどき、視界の隅に、黒っぽいもやもやがちらつく程度のことだったようです。実をいうと、そのとき、わたしも同様の症状……といっていいのか、そういう現象を経験していました。もちろん、事前の説明で、そういうことが起こるのは承知していました。知覚増強に伴う、一種の過敏反応だということで、それほど心配はしてなかったのです。彼女も、その頃は特に不安を抱いているようではありませんでした。

 わたしの症状は、その後、落ち着いていきました。サンディ上等兵もそうだったはずなのですが……しばらくしてから、彼女の様子がおかしくなりました。何でもないように振る舞っているのですが、視線がときどき宙をさまよったり、かと思うと、いきなりどこかを凝視したままになる。明らかに様子がおかしいと感じたので、どうかしたのかと聞いたのです。そうしたら彼女は、影がまた見えはじめたのだ、と言いました。例の黒いもやもやが、また見えるようになったのだ、と。

 わたしの勧めもあって、彼女は軍医の診察を受けました。しかし、これといった異常は見られなかった、ということでした。医師によれば、まだナノマシンの定着が完全ではなく、視覚野にノイズが入るためではないか、ということでしたが、結局原因不明でした。とりあえず、日常業務や訓練には支障がなかったため、様子を見よう、ということになったのでした。

 ……ええ、そうです。その後、彼女の症状はどんどん悪化しました。影は次第に黒みを増していき、見える頻度もどんどん増えていきました。もちろん、わたしは彼女から聞いただけですが……でも、彼女の憔悴ぶりは、とても見ていられるものではなかった。それで、わたしは彼女と連れだって、もう一度軍医のところに行ったのです。軍医は精密検査を行いましたが、結局、原因を突き止めることはできませんでした。軍医のいうことには、サンディ上等兵の脳では、ナノマシンの定着とネットワーク形成は順調に進んでいて、深刻なノイズが入るとは思われない、とのことでした。軍医にできることと言ったら、カウンセリングと向精神薬の処方。わたしにできることは、せいぜい、話を聞いてやることと、怯えている彼女を慰め、励ましてやることくらいでした……。

 それでも、彼女は気丈に耐えていました。わたしも何とか彼女の役に立ちたいと思って、素人なりにあれこれと調べてみたのですが、結局これといった有用な情報は得られず……時間だけが過ぎました。そうこうしているあいだにも、状況はどんどん悪化し、影の見える頻度はますます増加し、さらに……影がくっきりした形を取るようになってきた、とサンディは言うようになったのです。どんな形なのか、とわたしは尋ねましたが、彼女はその説明を拒否しました。そのときの表情は忘れられません。そして……。

 ああ。ちょっと待って。少し休憩を。

 ……それで……あの、チェックポイント・ズールーでの戦闘のとき……サンディは、そう、症状は落ち着いてました。その数日前から、まるで嵐の海が凪いだように、影がふと見えなくなったと。はい。だからこそ、夜間パトロールに出て……くそシット、あの襲撃はひどかった。敵は多数、重武装で、たちまち我々は分断されて……ですが、知覚強化のおかげで、暗視装置ナイトビジョンの助けを借りずとも、全てが明瞭でした。なので、一時のショックから立ち直ると、我々は反撃に移り……はい。そうです。サンディは勇敢でした。負傷した射手に代わって、分隊支援火器SAWを撃ちまくり、敵を足止めした。たぶん、300発以上撃ったと思います。敵は驚いたことでしょうね。暗視装置ナイトビジョンなしで、どうして当てられるのだ、と……我々は、とにかく持てる限りの火器を使って反撃し……。

 そのときでした。サンディが突然叫びだしたんです。部隊内共通無線に響き渡る大声で、叫んだんです。

 影が、影が見える、と。

 そのあとは……狂乱、の一言に尽きます。彼女は、いきなり分隊支援火器SAWを抱え上げて立ち上がり、狂気のように撃ちまくりはじめ、そのまま走り出しました。あたり一面に銃弾をまき散らしました。分隊長の制止も効果がなく……我々は被弾しないように伏せているので必死で……でも、敵も同様だったようです。ただでさえ、我々の反撃で予想外の打撃を受けていたところへ、あの狂気じみた突撃に恐れをなして、算を乱して逃げ出したんです。我々はとりあえず生き延びました。

 サンディを除いて。

 ……倒れている彼女に駆け寄ったとき、もうだめだとわかりました。全身に被弾していて、出血がひどかった。わたしは彼女の手を握ることしかできなかった。衛生兵メディックが近づいてきて、処置をはじめましたが、彼にもどうすることもできないとわかっていたでしょう。

 そのときでした……彼女が急に目を見開いて……こっちを見たのです。わたしは彼女に声をかけようとして……そのとき、彼女が、わたしの背後を見ているのに気づきました。

 彼女は、わたしの背後を見ながら、こう言いました。


 そこにいる。


 それが彼女の最期の言葉でした。


 これでお話しできることは全てです。彼女が最期に何を見たのか、それはわかりません。ただ……あの目は、あの表情は、忘れようがない。あれは、あれほど勇敢に戦った兵士が浮かべていい表情ではなかった。

 ええ、わかっています。なぜあなたがたがわたしの話を聞きに来たのか。わたしのような、一介の退役兵士にも、噂話は聞こえてくるものですよ。他にもいるんですよね? サンディのような兵士が。ナノマシンを脳内に入れられてから、恐ろしい影を見るようになった兵士が。あなたがたは、その原因を究明する必要に迫られている。上院委員会が追及の準備を進めているというニュースも知っていますよ。

 わたしは、一度も影を見ずに済みました。今は、ナノマシンも脳から除去されています。だから、サンディが何を見たのかわからない。でも、それが恐ろしいんです。

 彼女は何を見たのか? それは、ナノマシンの不具合によるものなのか? わたしにはそうは思えない。もしかして、知覚強化の思いがけない副作用として、のではないか? ──わたしにはそう思えてならないんです。単なる想像に過ぎませんけどね。

 でも、もしこの想像が正しいのだとしたら──こんな恐ろしいことはないんじゃないですか? わたしたちのまわりに、想像を絶する恐ろしいものが、身を潜めているのだとしたら? 技術の発展が、そうした恐ろしい世界と、我々を、いきなりダイレクトにつないでしまったのだとしたら?

 ねえ、どう思います?

 やつらはそこにいるかもしれないんですよ。

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