9. 毒蛇の王
翌日、シムリはギィにいわれるがまま、毒沼を抜け出し、エルフの森の領域に近づいていた。
彼本人は気が進まなかったが、ギィは「絶対大丈夫だって、見つかりっこないから!」と絶対の自信を見せた。
理由は分かっているし、シムリ本人も、エルフの集落の連中と出くわすとは思っていない。そしてこれはもしかしたら、エルフの集落を助ける事にも繋がる可能性があった。だから、エルフの森の領域に足を踏み入れたその瞬間も、罪悪感を抱く事はなかった。
「エルフが忌み嫌う『ウルフベリー』は、確かに凄まじい毒性を持つ危険な果実だ」
ギィはシムリの背に上機嫌に語りかける。
「だが、実はこのウルフベリーには強力な鎮痛作用と細胞活性作用をもたらす成分が含まれている事が分かってな」
「僕も足の怪我をこの実で治しましたからね」
「コイツは人を殺しつつも、人の命を救う成分も併せ持つ奇怪な果実。しかもとんでもなく美味いんだよな。砂糖と蜂蜜を煮詰めたくらいに甘いくせに、全然しつこさがない究極の甘味。一部の酔狂な連中は、死を覚悟しつつも裏ルートで入手しているらしい」
「本当に酔狂ですね……でも、気持ちは分かりますよ。それぐらい美味いですからね」
「そう言う事だ。だから、もし完全に毒を抽出する事が出来れば……?」
「なるほど、万能薬にもなるし、超高級食材にもなるかもしれない」
「抜き取った毒成分までも相当高価なものになるぜ。ウルフベリーの解毒が出来る奴なんて聞いた事がねぇ」
「そうなんですか?」
「食って生き残れる奴がいねぇからな。身を以て体験しなければ解毒の魔術は体得できないんだよ」
なるほど、とシムリは唸る。どれだけ自分が異常なのかも同時に再認識したが。
「ただでさえウルフベリーは希少なんだ。だからそれの群生地、しかも毒抜きの達人のおまけ付きなんてよぉ……へへ、おめぇ、金の成る木なんて生易しいもんじゃないよ、旦那ぁ。ざっと軽く見積もっても、末端価格でいや国家予算並の金が動くぜ……」
「末端価格って……まぁ、非合法のものですからね」
舌なめずりをしながら下卑な笑いを惜しげもなく披露するギィ。背負ったずだ袋は予備の物で、シムリの大きな図体でもすっぽり収まる程巨大だ。ウルフベリーを刈り尽くすつもりなのだろうか。そして、それをどこで捌くつもりなのだろうか。
「ギィさん、もしかして貴方がこの森に来たのって……」
「まぁ、毒に強いゴブリンなら、収穫も出来るからな」
「やっぱり……でも、どうやって売るつもりだったんですか?」
「聞くなよ、分かってんだろ?」
毒抜きもせずに売るつもりだったのだろうか。だとしたらどこまで極悪なのか。ギィがどこまで考えているつもりなのか、シムリは不安に思う。
「僕としては、エルフの集落から近い場所に群生しているのは夢見が悪いってだけですけど……」
「まぁまぁ、不幸なシムリ君第二号を出さない為にも、今のうちに刈り取っておくのは重要だぜ?」
「じゃあ、刈り取れなかった分は燃やしてくれますか?」
「馬っ鹿お前そんな勿体ない事二度と言うんじゃネェぞぶっ殺す」
早口で捲し立てるギィに、シムリは溜め息しか零れない。荒くれ者と言うのは間違いなさそうだ。雑談をしながら、薮をかき分け足跡を消しながら歩む二人は、さながら密猟者であった。
そうして半日程歩いた頃、シムリは不思議な息苦しさを感じた。耳がキンとなる緊張感を覚え、不意にシムリは足を止めた。
「おい、どうした」
ギィは呑気に声を上げるが、シムリはそれを制した。
シムリはエルフとして落伍者だった。本当にエルフなのかどうかも定かではない。しかしそれでも、十余年をエルフに混じって生きてきたからか、常人よりは遥かに鋭敏な感覚を有していた。
いつもと違う湿度。風が連れてくる微かに香る獣のような嫌悪感を催す匂い。
単なる違和感だと断ずる事はシムリには出来なかった。そういった違和感こそが危機を回避する。それがエルフの教えだ。
「ギィさん……ここに来るまでの道のりで、蛇か狼かネズミか……見かけましたか?」
「いや? 鳥もカエルも見ちゃいないくらいだな」
「毒沼に長く住む僕にはどれもなじみの生き物だったんですよ。……でも、なるほど、理由が分かりました」
シムリは言いながら、そのずんぐりむっくりな身体を小さく屈めた。座り込まずに、すぐに逃げられる体勢だ。ギィはシムリの言っている事が分からず、辺りを見回した。やがて、シムリが「二時の方向」と告げると、ようやくギィも認識出来た。
遠く離れた水場に、陽光を吸った鈍く輝く鱗が見える。ケバケバしい黄色と紫のコントラストが、緑溢れる森から明らかに浮いていた。視線をその頭に滑らせると、血で塗りたくったような赤黒い目。本能的に寒気を感じるようなおぞましさがある。
およそ40メートルは離れた先に居るその、明らかに異質で危険な大蛇は、堂々と姿をさらしながら池の水を啜っている。
所々傷を負っていて、気が立っているのか時折周囲を警戒するように見回すので、その度にシムリは身を更に小さく屈める。
「オイオイ……なんであんなのがいんだよ、この森……」
「声が震えてますよ、ギィさん」
「お前も御伽話で聞いたことあんだろ。雄鶏が生んだ卵を蛇が暖める事で生まれる、毒蛇の王……」
「バジリスク、ですか……」
かつて、義父から聞いた事がある。古い英雄譚の、その凶悪な敵役として。
生まれ落ちた森を腐らせ、あらゆる生き物を貪食し、死して尚土壌を汚染し、砂漠化させる。
この世の悪意と害意を煮詰めたような唾棄すべき生き物だ。
やがて水を飲み終えたバジリスクが森の奥に姿を消すのを待ってから、ようやく時が動き出したようにシムリは細い溜め息を吐いた。
額を冷や汗が流れていた。気づかれて襲われていたら、まず無事には帰れなかっただろう。
「エルフの森にはあんなレベルの怪物がごろごろ居るのか?」
「まさか。初めて見ましたよ。しかし、一体どうして……」
「いや、不思議でもねぇよ。ウルフベリーの毒も、バジリスクには効かないからな。甘い匂いに誘われたか」
「そうなると、ウルフベリーは諦めた方が良いかも知れませんね。多分、とっくにバジリスクに食べ尽くされ……!」
シムリが視線を走らせ、凍り付いた。バジリスクの身体の影に見えなかったが、人が倒れている。その姿を見て、シムリはしゃにむに駆け出していた。ギィが叫び声を上げるが、振り返る事も出来なかった。
バキバキと枝がへし折れる音がする。遠く後ろからガサガサとギィが追いかけてくる。
嘘だ、嘘だ!
近づけば近づく程に、疑念は確信へと移り変わって行く。
何で! どうしてこの子が!
うつ伏せに、それこそ死んだように倒れ込む黒髪の少女を、思わずシムリは抱き上げていた。
「マリ! しっかりしろ!」
シムリの呼びかけに、マリはうっすらと目を開ける。焦点の合わないかすみ目が、ぼんやりとシムリを眺めていた。
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