7. ゴブリンとの出会い

 マリがシムリを集落に復帰させると言う世迷い言を残してから数日経った。

 マリに貰った鹿の肉は、その端を僅かに食した後、大切に保管してある。ありったけの香草と僅かばかりの岩塩に漬けて、少しでも長持ちさせている。

 シムリは口慰みに骨の欠片をくわえて、いつも通りよりは幾分か上機嫌で山狩りを始める。

 マリに感謝を伝えられるのはいつになるのだろう。まさか集落に戻って、白い目で見られながら、とはいかないだろう。


「獲物の不作、ってのは本当みたいだな」


 シムリが住まうのは毒沼の周辺ではあるが、毒沼には毒沼独特の生態系が築かれているものだ。

 毒沼から栄養を吸い上げる植物だっているし、それを喰う虫や獣、それらを捕食する大型の獣やワニだって居る。

 シムリは外部からやってきた、立場としては最終捕食者にあたるが、それでも精々日に取れる獲物など物の数でもなく、生態系に影響を与える程のものではなかった筈だ。

 だが、最後に蛇や兎を見たのはいつだったか。仕留められずとも目の前を横切った獣や鳥さえも数が明らかに減った。

 マリが狼の群れを懸念していたが、どうやらそれも違うらしい。

 普段獣道を歩くシムリは、無意識的ではあるがぬかるみに足が取られないよう、自然に踏ん張りの効く足場を見極められる。

 広い獣道も、自然とシムリが足跡を付ける位置は限られるのだ。そして、当然そこから外れた場所に足跡が見つかれば……。


「今回はいつまで保つかな……」


 侵入者が居たのは、一度や二度ではない。ここはエルフの森の外れにあり、時折エルフの森を襲撃しようと企む者たちが通りかかる。

 あるいは逆に、集落を襲撃して追い返された哀れな賊かもしれない。

 いずれにせよ、真っ当な理由はなく、止むを得ずにやってくる連中ばかり。真っ当な理由があるものは、こんな所を通るはずもない。そしてそう言う者達は大抵、碌な準備もなくこの毒沼を訪れ、彷徨う。

 始めは元気に獲物を探し求める。障害である害獣の排除もする。だが、二日もすれば矢弾も尽き、腹も減る。喉も乾き、意識も朦朧とするだろう。

 ただでさえひどい悪臭、不衛生な環境。折角捕えた獲物も殆どが食用に適さないような、毒を持つ動物なのだ。食事も飲食もままならぬこの世の果てとはここの事である。


 この数年で、シムリは何人ものならず者の亡骸から衣服と装備をはぎ取り、同時に彼らを弔ってきた。

 屍肉を喰らう動物が多いので、大抵は骨となった彼らを、住処の裏に埋めるだけであるが。


「足跡は小さいな……まるで子供だ」


 食い詰めた子供でも逃げ延びてきたのだろうか。可哀想だが、哀れんでやる程の余裕もない。

 むしろ都合がいい。そろそろナイフの切れ味が落ちてきた頃だった。

 この彼が上手い事この周辺で命を落としてくれれば、交換も出来るかも知れない。だが、同時に注意が必要だ。シムリはそうした悪意ある者と対峙した事はなく、戦いの経験もほぼない。

 子供とは言え、手負いの獣と同じだ。窮鼠猫を噛む。争いの苦手なシムリでは負けてしまう事もある。


 この数日間はしっかり引き蘢って、住処を守ろう。間もなく死ぬ事に間違いはないだろう。そうそう住処が見つかることもないだろうが、一応入り口は薮で隠しておいた方が良いだろう。そうと決めた以上、早く引き上げねば。ここでばったり出くわすのが一番マズい。

 しかし、踵を返す直前に、近場の草むらが揺れた音を立てた。


「動くな」


 甲高い声が背後から聞こえた。シムリは身を竦ませる。しまった、既に見られていたようだ。そして、その事に気づかなかった。

 背中に触れているのは、そのものの掌だ。位置としては腰か、それより低い位置。

 ナイフでも突きつけられている訳ではないが、声には殺気がある。迂闊に動くのは危険そうだ。

 声も随分と低い位置から聞こえた。本当に食い詰めた子供かなにかが縋っているのではないか。そう思わせる程に幼い声だった。


「貴方は、誰ですか」


 シムリは必死で声の震えを抑え込んだ。努めて低く、強気に聞こえるように。

 ここで弱気を見せてはダメだ。ここは笑える程の治外法権、弱肉強食の世界。何も言わずに殺されても文句が言えないような場所である。


「名乗る程のもんじゃないさ、ただお前……随分長い事こんなとこ住んでるみてぇだな?」

「どうしてですか、こんな酷い場所、一週間だって人は住めませんよ。食べるものも飲む水もない」

「その格好で良く言えたもんだな。泥まみれで不衛生の塊のくせに」

「さぁ、その辺で転んだのかも」

「一週間だって人は住めない、と言ったのはアンタだ。なんでそんな事分かる? 答えは簡単、少なくともアンタは一週間弱はここに住んでるからだ。多弁は損するぜ、旦那」


 ヒヒヒ、と得意げな笑いが聞こえてくる。またしても、しまった、だ。シムリに心理戦は出来ない。

 恐らく相手は、慣れている。であれば、シムリに出来る事は何もない。


「要求は飲みます。だからせめて、命だけは」

「殊勝な心がけだな。……よし、まずは両手を上に掲げろ。動くなよ?」


 言われた通り、シムリは両手を高々と掲げてた。腰の当たりに突きつけられた掌はまだ離れない。

 反対の手がシムリの身体を弄る。シムリが視線を落とすと、まだ子供のような小さな手があった。肌が緑色だ。

 武器がないかを探している様子だ。その指がポケットの中にある折りたたみナイフをかすめ取るのが見えた。


「……他に武器はなし、か。不用心も良いとこだな」

「得意ではないので、持ち歩かないんですよ。獲物は罠で捕えるので」

「……にわかにゃ信じられんが、まぁ良い。今持ってないのは本当らしいしな。良いぜ、こっち向け」


 軽く背を押されたシムリが振り返ると、そこに居たのは、シムリの身長の半分程しかない、あどけない表情の少女だった。少し高い鼻と丸く大きな瞳。

 緑色の肌と、やせっぽちの体型。ゴブリンの特徴だ。

 エルフの集落に一度だけ、侵入者として捕えられている者を見た事があったが、子供のゴブリンを見るのは初めてだった。

 曰く、悪食で、腐ったものや毒物を食べても病にはかかりにくい。

 魔術の才能に乏しい分、悪知恵が周り、下品で粗野と見下される一方で、銃火器や爆弾を取り扱わせたら右に出る者は居ないと言われる器用な種族だ。

 長靴はぬかるみと泥で汚れている。身につけたのは厚手の黒いジャンプスーツ、頭を保護するためのレザーハット。目を保護するためのデカいゴーグルが顔の半分程を隠している。

 森を探索する装備は整えていると言った所か。

 背負った頭陀袋は厚く、それなりの距離を旅してきているのが伺えた。


「別にアンタの命を取ろうって訳じゃねぇ」

「は、はぁ……ならナイフを返してくれませんか?」

「ダメだね」


 指の間でくるくるとナイフを回しながらゴブリンの少女は八重歯を覗かせながら笑った。

 なるほど、器用な種族と言うのは嘘ではないようだ。


「こんな所に住んでる輩に碌な奴がいねぇってのは、お前も分かるよな? そんな所に旅のか弱いゴブリンの少女がやってきたとなりゃ、こりゃもう先住民には申し訳ないと思いながらも非武装を貫いてくれねぇと困るよな?」

「僕が非武装になるんですが……」

「男がそんな女々しいこと言うない。ついでに言えば、ちょこっとこの恵まれない少女に僅かばかりの施しがあると嬉しいんだけどなぁ」


 流石にシムリも理不尽に腹を立てた。結局は脅迫じゃないか。

 シムリの不穏な空気を感じ取ったのか、ゴブリンの少女は偽悪的に微笑みながら、右手を上げて軽く指を鳴らす。途端、彼女の指先から、青色の炎が火柱を立てる。距離を取っていた筈なのに炎の熱気を感じ、シムリは背筋を寒くした。

 魔術だ。

 シムリは怖じ気づいた。ゴブリンは魔術の才能に乏しいと聞いていたのに、嘘だったのか。炎を揺らめかせながら、ゴブリンの少女は妖しく微笑んで舌なめずりをした。


「テメェがくわえてンのは骨。しからば、旦那、肉喰ってるだろ? アタシに寄越しなよ」


 シムリは眉間に皺が寄るのを自覚した。口の中に入っている骨の欠片まで見られていたようだ。

 そもそも鹿肉はマリが気まぐれに持ってきたものであり、自分でこの周囲で捕ったものではない。

 捕れたとしても精々ネズミか蛇。それも最近は数が減ってきているのだ。


「鹿肉、食べたいのですか?」

「そりゃな。この森にきて一週間。ネズミも蛇も飽きてきたよ」

「振る舞って上げても良いですよ。ただしもちろん、ただでとは言えません」

「おいおい、あんた状況分かってんのかい? 取引出来る状況かね?」

「貴方こそ、ですよ。ゴブリンのお嬢さん。僕が一人で鹿を狩っているとでも?」


 いかにも鈍臭い、エルフの落伍者といった風情のシムリをためすがめつ眺めて、ゴブリンの少女は唸った。

 なるほど確かに、弓矢もまともに扱えないエルフが鹿を狩っている訳もない。となれば必然的に、彼には仲間がいる事になる。


「定期的に僕の様子を見に来る者が施してくれたんですよ。ここは治外法権ではありますが……彼女が僕の遺体を見たら、一体どうなることか」

「……その頃にはアタシも森を出ているかもしれないぜ?」

「そうですね、でもその様子を見に来る者は、僕の妹であり、狩猟部隊と警邏部隊の重役です。一存で部隊を動かす権力を持った、ね」


 ゴブリンの少女の顔色にうろたえが見えた。弓を携えたエルフの集団に追われる様でも想像したのだろう。

 エルフは外界でも、執念深く、そして仲間意識が強いため、一度害された記憶を決して忘れないと恐れられている。

 文字通り、死ぬまで復讐をやり遂げるのだ。そしてエルフは長命で有名であり他の種族の倍以上は生きるのだ。ゴブリンにとっては恐ろしい事この上ないだろう。

 ゴブリンの少女は生唾を飲み込んだ。


「嘘を付くにしちゃぁ、随分盛ったな」

「嘘じゃないですからね」


 シムリは内心でマリに必死に頭を下げた。身内の権力を翳すなんて、なんと情けない事か。これっきりだから許してくれ、マリ。彼女に伝わる訳もないのだが、シムリは何度も謝っていた。


「相応の対価を示して下さい。ついでにナイフも返す事。約束してくれれば、鹿肉をごちそうしましょう。もちろん、毒に犯されていない、ね」

「相応の対価、ねぇ……身体で払えって意味?」

「……他に払う物ないんですか? 食料はないでしょうけど、例えば旅のお方ならば、珍しい物品とか」

「ないね。土産話と、精々安い酒くらいなもんだ」

「……仕方ない、ここで会ったも何かの縁。精々面白い話をしてくださいね」


 ゴブリンの少女はすっかり気が抜けたのか、いつの間にか手の中の青い炎も消えていた。お互い、剣呑な雰囲気も無くなったと見たのか、ゴブリンの少女はナイフを放り投げて寄越した。

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