5. エルフベリーとウルフベリー

 その日もシムリは朝早くから山菜採りに出かけていた。

 シムリの一家の家は集落の端にあり、家の裏側からはすぐに獣道が続いている。誰にも見られずに山に潜れるのは、シムリにはありがたい事だった。

 愛用の登山用靴と籠と草刈り鎌、昼食用の塩味クッキーと飲み水を入れた革袋を懐に入れて、出発進行だ。


 山菜収穫の巡回ルートはいくつもあり、今や家の裏山の大半がシムリのテリトリーだった。

 鳥のさえずり、虫のさざめきが静かに響き渡る森を巡る。一人で浴びる優しい木漏れ日が気持ちいい。足元に目を配りながら山菜を収穫していく。若過ぎる芽は残しつつ、余分な雑草は引っこ抜く。

 この作業は唯一、シムリが『手慣れた』と感じるものだった。自分の見つけた『得意』を伸ばしたくなるのも当然の事。

 そのおかげかシムリの取ってくる山菜は、量も質も評判が良かった。最近母親が近所にお裾分けをして、じわじわと集落に噂が広がり始めていたのだ。

 夕食時、その事を声高に話す母親の目端に少し涙が見えた。それだけ息子の事を心配していたのだろう。

 だからシムリは山菜採りによりのめり込むようになった。

 ワラビやフキ、ヨモギにタラノメと言った食用の山菜だけではなく、集落で使われる薬用の草、キノコ等々、その収穫対象の範囲と巡回エリアを拡大していった。


 その日はエリアの拡大のための下見を兼ねていた。

 以前歩いた道の崖下の遠くの方に、真っ赤な野いちごの『エルフベリー』が群生しているのを遠目で発見していたのだ。

 エルフベリーは集落での栽培に未だに成功していない貴重品である。直接食べるには酸味も甘みも強過ぎるものの、果汁を少量酒に混ぜるだけで非常に美味な飲み物になる。

 噂では外界でも評判を呼び始めている程で、驚く程高価な酒として取引されているのだとか。あれを沢山持ち帰ることが出来たならば、きっと集落の皆も喜んでくれる。義父さんと義母さんも泣いちゃうかも。

 内心ほくそ笑みながら、鼻歌混じりにシムリはそのポイントに向かう。

 ……油断があったかもしれない。しかしそれにしても、運が悪かったのだ。


「……あっ!」


 シムリは崖を、足下を確かめるように下りる最中で声をあげた。

 前日は通り雨で、獣道はぬかるんでいた。逸る気持ちを抑えて、迂回して崖を下れば良かった。

 たまたま酷くぬかるんでいる地表に足をかけてしまったが最後、シムリは盛大に転倒した。そしてその勢いのまま、シムリは崖を転落していく。背中を強か打ちつけて息が詰まる、腹を打って内蔵がねじれる、腕が回転と木々の枝に巻き込まれて軋みをあげる。


 天地も左右も分からなくなった頃シムリは意識を失い、次に目を覚ました時には既に深夜、星明かりが木々の隙間から見える頃だった。

 幸いシムリは夜目が異常に効く体質だ。周りを見渡すと、自分の置かれた状況が分かり始めた。

 まずは自分の体を見下ろす。出血はないようだが、右脚が痛い。骨が折れているのか、動かそうとすると叫びそうになる程痛かった。

 両腕は幸い無事だが、少し痺れている。こちらも念のため、医者に見てもらう事にする。

 籠や鎌、食料のクッキーは転がっている最中にどこかに落としたか飛んでいったか、周囲には見当たらない。水を入れていた革袋はひっくり返って中身が空になっていた。

 鎌が自分を斬りつけなかっただけでも良かったとシムリは安堵する。


「いや、安心してる場合じゃないぞコレは……」


 崖を見上げる。滑落距離は二十メートル以上だろうか。未だ体中が痛くて、到底登る気になれないし、登る程の体力もない。

 長い時間気絶していたせいか、酷く喉も乾き腹も減っていた。しかし口に出来るものは食事も飲み物もない。この時間になって帰っていなければ、集落が救出隊を組んでくれるだろう。大変な迷惑をかけるが、仕方がない。

 とは言えこの辺りの山は集落の住人も滅多に訪れない。一日二日で見つけてくれればいいのだが……。

 こんなところで餓死していたら世話はない。なんとかしなければ、と歯を食いしばりながら体を起こすシムリ。


 幸いと言うべきか、何と言うべきか。シムリは安堵の溜め息を漏らした。

 シムリはエルフベリーを求めて落下したのだ。当然その目と鼻の先には、その高級果実が群生している。

 背の低いエルフベリーの樹木。体を動かさずとも目一杯に腕を伸ばせば、その果実に指が届いた。まるまる太った真ん丸の真っ赤な実は、手のひらにずしりと重い。思わず唾を飲み込む。


「……いただきます」


 シムリはその実を、恐る恐るひと齧りしてみた。味が濃厚過ぎてそのままではとても食べられないと聞いていたシムリは、口の中に広がる甘酸っぱい香りに思わず痛みも忘れて頬を緩めた。

 柑橘類のような爽快な芳香と、熟れた桃のような甘さと潤沢な果汁、野生らしい苦みと渋みが最後に効いてくるが、味覚をリセットするアクセントに丁度良く、またもう一口を促進する。

 噂なんて当てにならないもんだ。いくらでも食べられるとはこの事だ。

 シムリは痛みを忘れて果実を貪った。

 美味い、美味過ぎる。今までこんな美味いものは一度も食べた事がない。今まで食べた果物は全て萎びていたんじゃないかと思ってしまう程、強烈な美味さだった。


 手の届く範囲のベリーは食いきってしまった。数えた限り、握り拳大の大きな実を五個も食べているのに、まだまだ足りない気分だった。

 思わずシムリは立ち上がる。そしてその樹になっているエルフベリーを貪り尽くして、ようやく気がついた。

 折れている筈の脚の痛みが全くない事に。まさかこの実には、何か傷を癒すような、あるいは強力な鎮痛作用でもあるのだろうか。

 エルフベリーにはそんな効能は勿論ない。もしかしたらこの樹は今までにない、エルフベリーの新種なのではないだろうか。

 この強力な治癒の力を持った不思議な木の実、集落に持ち帰ればたちまち高額な希少品となる筈だ。高値で売れるようならばきっと家族にも楽をさせる事が出来る。

 シムリは手に持ちきれるだけの木の実を収穫して、自分が転げ落ちた崖をたちまちのうちに駆け上った。すっかり体力は回復していて、改めて実の効能を思い知る。


 集落に到着した頃には日が出はじめており、シムリは家に駆け込んだ。

 両親とマリ、それから狩猟隊の隊長と長老が家の中に居た。シムリが帰らなかった事を相談していたのだろう。

 両親とマリはシムリの顔を見るなり安堵の溜め息を零した。義母のシルキーに至っては泣き出す始末だった。

 あとちょっとで、集落総出で救助隊を編制するところだったんだぞ、と義父のカザイーには叱られたが、おとがめはそれだけだった。


「義父さん、義母さん、それから長老と、狩猟隊の方も、本当にご心配をおかけしてしまって……」

「まぁ、無事に帰ってこられたんだ、良しとしようじゃないか」


 狩猟隊隊長は朗らかに笑ってみせたが、隣の長老は怪訝な顔をしていた。

 震えるその指先が、シムリの抱えている木の実に向いた。


「それで、シムリよ……その、両手一杯に抱えてるのは……」

「あぁ、これですか! 聞いて下さいよ、エルフベリーの新種か何かだと思うんですけど、凄く美味しいし、コレ食べたら脚の怪我まで治ったんです! もしかして、長老様、この実の事を何かご存知なのですか……?」

「ご存知も何も……! お前、その実を食べたのか……!? 何ともないのか……!?」


 長老が腰が抜けたと言わんばかりに崩れるように椅子に座り、そしてそこからも転げ落ちた。助け起こそうと近寄ったシムリに対して、傍らの杖を突きつけて。

 まるで野生の肉食獣でも見るような目で、シムリに恐怖の視線を向けていたのだ。

 長老のただならぬ様子に、カザイーは何か思い当たったのか、本棚の植物図鑑を猛烈な勢いで捲り始め、とあるページで凍り付くように指を止めた。

 二度三度と、その図鑑スケッチと、シムリの抱える実を見比べる。やがて、カザイーが慌ててシムリに向かって叫んだ。


「シムリ、今すぐその実を家の外に出せ! シルキー、マリ、窓を急いで全開にしろ!」

「ちょ、ちょっと義父さん、一体何を」

「今すぐ全員医者に行くぞ! シムリ、二次災害を防ぐ為にお前は一旦川にいって全身を皮が剥けるまで洗い落とせ! 誰にもすれ違うなよ!」

「ね、ねぇお父さん、どうしたの? お兄ちゃんが持ってる実って、エルフベリーじゃないの?」


 父のあまりの剣幕に怯えながら尋ねるマリ。

 父は一度冷静になったのか、一呼吸置いてから額の汗を拭っていった。


「色は似てるけど、形も大きさもまるで違う。アレは『ウルフベリー』と言う完全な別種だ。味は美味とされているが、強烈な毒を持っている。匂いを嗅ぐだけで毒に犯され、果汁を一舐めした者は絶命を確約され、実を食べた物は即死すると言う……」


 父が何を言っているのか、シムリには全く分からなかった。むしろ真逆だ。シムリは怪我さえもこの実のおかげで治癒出来たのに。

 未だ呆然と立ち尽くすシムリに、義母のシルキーが歩み寄る。


「まぁまぁ、貴方。そんな事言っても、現にシムリはこんなに……あ、あら……」


 そしてシムリの数歩目の前で崩れ落ちた。顔色があっという間に土気色に替わり、瞬く間に白目を剥いて泡を吹き始めている。

 ようやくシムリは悟った。自分が持ってかえってきた物は、とんでもない危険物なのだと。

 言葉も発しなかった。そんな暇もなかった。シムリはウルフベリーを抱えたまま、父に言われた通り川に向かって全力疾走した。

 その時の家族の表情を、シムリは思い出す事も出来なかった。

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