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 この日、彼が最初に思い浮かべたのは、「それにしても今日はいったい何日目なんだ」という疑問だった。


 調査開始からだいたい一週間ほどか、と漠然とした推測はあるのだが、いかんせん寝起きの頭では正しくものが考えられない。


 ぐっすり寝たとは言えなかった。眠れなかったとまで言ってしまうとそれはそれで語弊があるのだが、しかし夜中に何度も目が覚めたのは事実である。なんといっても、火の様子が気になって仕方がなかったのだ。


 言うまでもないが火の扱いに慣れていないわけではない。日数のかかる移動や野外調査の際には、それこそ夜ごとに火を焚くような機会も少なくないのだ。


 されど、これまでのサムというのは、大抵の場合において着火の工程はなんらかの器具に頼ってばかりだった。ライターなりマグネシウム合金製のファイヤースターターなりといった物品に、だ。


 そもそもファイヤースターターはいざというときの保険として用意しておいた物である。よって、まさかその保険をさえ失ってしまうようなことになるとは、そもそも想定をしていなかった。


 そういうわけで、もし仮に再度、火を起こす必要が生じたとしても、先刻のように無事成功を収められるという保証はなかった。


 何より手慣れてしないし、再び同じ苦労を繰り返すだけの気力と体力とが残されているかも、定かではなかったからだ。こうなれば絶対に火は絶やせない。


 などと意気込むのは結構なことだが、昨夜は一晩中もそのことを考え続けていたせいで、まったく熟睡することができなかった。いざ眠りに落ちようとすると、そのたびに不吉な予感がサムの瞼をこじ開けたのだ。安眠妨害もはなはだしい限りである。しかし、そのおかげで焚き火は健在だ。


 今朝のサムが大した訳もなく気分を害したままだったのは、そういう事情に基づくことであった。


 とにもかくにもむしゃくしゃする。ひとまず顔を洗おうと小川に向かいかけたとき、ふと目についた手製の銛を、意味もなく叩き折ってしまいたくなったほどである。


 とはいえ無意味な破壊衝動に屈するほど彼も愚かではない。その辺りの理性が残されていることからすると、まだ幾分かは心身ともに余裕があるらしい。



 岸に着くと、彼は静かに水面を覗き込んだ。急角度から切れ込む日の光が、揺らめく水面に輝きをまとわせる。川底に沈む石さえもが朧に煌めくかのようだった。


 晴れやかな景色だった。


 樹木は清々しさに満ち溢れ、流れ行く風に涼しげなざわめきを添えている。


 一方で、雄大なる大地というのは、河原と土の地面とでそれぞれに違った趣を呈していた。


 片や緑と茶色のまだら模様。片や灰色一色の硬い絨毯。それらは一様に複雑で、ひどく乱雑に絡み合うようでありながらも、不思議と統一感を保った状態でそこにあった。見事と言うよりほかにない風情だ。


 ただサムにとって唯一、残念だったのは、やはり魚影がないということだった。


 川面にそれらしい動きは見られないし、たまに「これは」と思う物があるかと思えば、水流に弄ばれる枯れ葉だったりする。このぶんだと、今日も栄養満点の朝食はお預けのようだ。


 とはいうものの簡単に諦めるのは癪である。サムはひととおり身支度を整えたのち、銛を手に川の上流へと向かっていった。


 昨日は川を下る方向へと歩みを進ませたが、結局はむだ足に終わってしまった。そこで今度は、流れを遡りながら獲物を探すことにしたのだ。


 方向や目的のいかんにかかわらず周囲環境を調査するのは有意義な行いだ。今回は漁場の発見を第一目標と定めてはいるが、たとえそのアテが外れたとしても、薪木の補充くらいはできる。


 くわえて、運がよければ現在位置を知るための手掛かりが得られるかもしれない。サムは過度な期待をもたないよう自分自身に言い聞せつつ、注意深く歩みを進めた。


 そうして三十分ほどが経ち、そろそろ拠点と焚き火との様子が気になりだしてきたころ、彼は唐突に悟った。これは贅沢を言っていられる状況ではないぞ、と。


 きっかけは丘を発見したことだった。


 直前までは生い茂る植物に紛れていて気がつかなかったのだが、その高台の足もとまで来たとき、彼はようやくその存在に気がついた。周囲の地形を見渡すのに都合がいいだろう天然の見張り台が、サムのすぐ目の前に現れていたのだ。


 現在地との高度差は約二〇メートル。急峻な斜面と茂みとに阻まれて真っすぐに近づくことはできなかったが、幸いにして緩い上り坂が近くに見える。そちらから上に向かうことができるか、試してみるのも悪くない。


 高所から付近一帯を見渡せば、なんらかの有益な情報を得られるかもしれない。少なくとも、川沿いの地形については何かしらの発見があるはずだ。


 現状、この手の情報は喉から手が出るほど欲しいものである。のちに本格的な脱出計画を立てる際、その進路を決定する段になって、必ず役に立つに違いないからだ。


 善は急げとさっそく緩い坂に足を踏み入れたサムであったが、ここで問題が起きた。彼はそのとき億劫さを感じた。疲労困憊する自分自身というものに、思いがけず出会ったのだ。


 今日一日はまだはじまったばかりだというのに、手も足も頭も重く、背中が痛くてたまらない。穏やかだとか険しいだとかに関わらず、つる草の絡みつく坂道に挑めるような体調では決してなかった。


 いよいよもって栄養が不足しているのだ。それも当然といえば当然の話で、昨日と一昨日の二日間で口にした物といえば、川水とヤシの芽とジャボチカバくらいのものである。同じ期間に実行した作業を鑑みれば、摂取カロリーがまったく足りていないのは明らかだ。


 何時間も野山を歩き回ったり、簡易シェルターを建てたり、また火を起こしたりといった種々の行動は、いずれも重労働と呼んで差し支えない行為である。


 それらの労働によって生じた消耗を適切に補うだけの資源が体内に存在しなければ、身体が弱るのも至極当然。体力を維持できる理屈がない。


 つけ加えるなら、体温調節など恒常性のために用いられるエネルギーというのも忘れてはならない。


 連日、日中の気温が三〇度を超すアマゾン熱帯雨林にあっては、ただ太陽の下に立っているだけでも身体に負担がかかってしまう。体温が上がり過ぎないよう汗をかいたり、血管を広げて血流の量を増やしたりというように、当人に意識されない部分でも人体はエネルギーを消費しているのだ。


 無論、就寝中とて例外ではない。寝ているうちにも汗はかくし、呼吸もする。身体は働き続けている。


 このとき、サムがもっとも恐れたのは、少なくない量の蓄えをすでに失ってしまったという事実であった。


 糖質が底を突き、続いて脂肪が極端に減少すると、最後には筋肉が分解され燃料となる。


 この最後の段階までいたるころには、はっきりとした自覚症状が現れていることだろう。


 体力の急激な低下。判断力の衰え。意識の混濁。脳にも筋肉にも充分なパワーが行き渡らず、最低限の生命活動を維持するだけで精いっぱい。そんなありさまでは、自力で文明社会に帰り着くなど夢のまた夢の話である。


 幾分かでも余裕があるうちに手を打たねば。どうせ食べるなら魚がいいなどと、腑抜けたことを言っている場合ではない。


(あるていど安全なら何でも食ってやる。食えるものなら何だっていい、こうなりゃあ手あたりしだいだ)


 サムは決意を新たに来た道を引き返しはじめた。それまでとは違う目線で世界を見て、より豊かな発想力で風景を観察した。どういうものが見えているか、というだけではなく、その裏に何が隠れているのかについてまで思いを巡らせるようにした。


 この変化が吉と出るか凶と出るかは定かでない。とはいえ、挑戦する価値は確実にある。高き壁に前進を阻まれ、進むべき道を見失ってしまったときには、常に発想の転換こそが活路を開く鍵となりうるのだ。



 そうしてまた少々の時間が経った。


 サムは焚き火の前に座っていた。マットレスの上にぺたっと腰を下ろし、揺れ動く火の艶めかしい煌めきを見つめていた。


 同時に、彼の視線はまた別の物体をも、その枠内にとらえていた。揺れる焚き火のすぐ手前に据えられた、青々とした葉っぱの包みをも、だ。


 蒸し焼きというよりかは包み焼きである。焦がすなどして食材を駄目にしてしまわないよう、水分を含む肉厚の葉っぱで材料を包み、じっくりと時間をかけて火を通す。どことなく気の利いた調理法だ。


 なんといってもせっかくの狩りの成果、努力の結晶だ。万が一にも食べ損なうようなことにでもなれば悔やんでも悔やみきれない。


 ところが、そうした待ち遠しい焼き上がりの瞬間を控えているにしては、サムの表情は優れなかった。眉間には縦向きのしわが寄り、口もとはへの字に曲げられている。クリスマスプレゼントを前にした子供の表情ではない。どちらかといえば、裁判で判決を待つ被告人の顔だ。


 つけ加えるなら、未来ある幼き命を奪ったという意味においては、サムは一〇〇パーセント有罪なのである。


 被害者たちの亡骸はサムのすぐ目の前にあった。一枚の立派な葉の内側で、ゆっくりじっくりと加熱されている真っ最中だ。数は全部で四つ。その四体分すべてがひとまとめにされ、狭苦しい密閉空間でひしめき合っているのだ。


 それらの亡骸が人間のものでないのは言うまでもないとして、それと同様、このときのサムの渋面が彼自身の罪悪感を主因とするものでないというのもまた、明らかなことであった。


 ただし、彼の苦悩の原因がくだんの包みの中に存在するというのは、まごうことなき真実だ。要するに、問題はその亡骸たちの正体という一点に尽きるのである。


 サムはこのとき、昆虫食の利点というのを痛感していた。なるほど甲虫の幼虫というのは優れた選択肢である。激しい抵抗を受ける心配はないし、また素早い動きに翻弄されるおそれもない。


 くわえて捌く手間というのもかからないうえに、いざとなれば生で食すこともできなくはない。


 一匹一匹の量が少ないという点は短所と言えるのかもしれないが、しかし分量に対する栄養価は非常に優れているので、捕獲時の負担が少ないことまで考え合わせるのであれば、これ以上に効率のいいタンパク質調達法はそうそうないと言えるに違いない。


 それにしても、川魚に的を絞っているあいだは二時間かけても成果を上げられなかったというのに、いざ標的を切り替えるや否や、あっという間に四匹もの獲物を仕留められたというのは、いかんせん納得のいかないことではある。


 むろん文句などあろうはずがないのだが、いかんせん、納得がいかない。


 というのも、昆虫食のメリットは重々承知のうえで、それでも受け入れがたいほどの部分的なデメリットが、そこには存在していたからだ。すなわち、「昆虫」という部分である。


 最大の課題は、どうやって常識をうっちゃるか、という点に尽きた。多くの人間にとってそうであるのと同様に、プロの冒険家たるサムにとっても、虫は決して食べるものではない。観察したり触れたりするのと、噛み砕いて飲み込むのとではわけが違う。


 こうした抵抗感は彼が幼少期から長年に渡って接してきた文化、アメリカはワイオミング州の文化によって後天的に育まれたものである。


 これを克服するというのは並大抵の事ではない。理屈がどうのという以前にあたり前、いわゆる常識として備わっている文化的な感覚に逆らうという行為は、当人に対し非常なストレスを生じさせる場合が多いからだ。


 そうした無理をやみくもに押し通そうとすれば、精神に余計な負担がかかるのは必至である。


 ゆえに、サムは意識して自らを奮い立たせた。度胸を据えるのだ、サム。過酷な環境と戦うプロフェッショナルとして、お前の価値を証明する時が来たのだぞ、と。


 真正面から嫌悪と向き合うのは得策ではない。力ずくでどうこうしようとしても、不愉快さが和らぐことなどありはしないからだ。


 たとえ一時的には抑圧することができたとしても、それで不快感が消え去るわけではない。精神に対してかけた無理な圧力は、遅かれ早かれ歪みのもとになるものだ。


 こうしたシチュエーションでは柔軟さが鍵となる。音に聞くヒーローとはつまり、逃げることなく嵐に立ち向かうことを美徳とする人種ではあるのだろうが、サムも人としてこの世に生を受けた以上、そういつでも立派なばかりではいられない。ときには、逃げの一手を打つ勇気も必要である。


 いわばスパイスのようなものだろう。癖が強すぎる食材の風味を整えたり、より豊かに五感を刺激する一皿を仕上げるためには、ハーブや香辛料のもつ香味というものが欠かせない。


 とはいえ、それも度が過ぎれば逆効果。素材本来のもつ旨味を殺してしまっては元も子もない。


 とかく料理の味というものは、使用する調味料の量が増えれば増えるほどますます極端に、かつ複雑になっていくものである。しかも、一度そうした強い味つけに慣れてしまえば、繊細な味覚を取り戻すのは非常な難事となってしまう。畢竟、すべてはシェフのさじ加減しだいなのである。


 ありとあらゆる問題に分別なく突撃するような真似はできない。そんなことを続けていては、いずれ肉体にも精神にも破綻をきたすことになる。


 たかが人間。たったの一人。いかほどのことが成せようか。


 かといって、毎度のように安易なごまかしやその場しのぎばかりを繰り返していては、かえって問題をややこしくする一方だ。


 均衡を保つこと。先人のレシピに学び、人々の助言に素直に耳を傾けること。自分自身の平衡感覚を、常日ごろから磨き続けておくこと。


 サム・モーティマーにとっての人生のコツは、おおよそそんなところである。


 ただし現状における彼の問題は、この場にはハーブもスパイスも存在しないということである。これはたとえ話ではなく、文字どおりの意味でだ。


 無論、辺りは植物の楽園だ。根気よく探せば香草の類などいくらでも見つけられるのだろうが、生憎とそう悠長に構えてはいられない。めまいなり立ち眩みなりといった症状が、いよいよ深刻なものとなりはじめていたからだ。


 今は探すべきときではない。今はただ、黙って食すべきときだ。こうなればもはや仕方がない。ここはいったん、小手先のごまかしに甘えるとしよう。


 そうして緑色の包みを開いたとき、彼は強く心で念じた。そこに現れた四つの物体、一様にきゅっと体を固くした円柱状の食材たちは、そういう種類の小エビに相違ないのだと。


 全体的に細長く、火が通れば身が縮み、頭部を除き全身を食すことができる。殻がないという点を除外すれば、幼虫と海老とに大した差異など存在しない。


 あえて挙げるとするならば、成長して大きなエビとなるか、それともカブトムシとなるかの違いだけだ。


 一つ勉強になったのは、あまりじろじろと眺めるのはよくない、ということだ。どうせ生食も可能な食材だ。中まで火が通っているかなど確認する必要はないし、わざわざ中身をあらためる必要などはよりいっそうにない。というより、なかった。



 トラウマが一つ増えた。が、とにかく腹は膨れた。これで周辺一帯の探査を再開できる。新たな食材を探す旅だ。食べる。探す。また食べる。また探す。労働に終わりはなく、人生は続く。


 ある意味スリリングな体験ではあるが、だからといってそれのみで満足してしまうわけにはいかない。特に、このときのサムのような場合には。


 ともあれ、次に彼が向かったのは例の川の上流、ついさきほど発見した丘の足もとにあたる場所だった。最前は諦めた丘の上への登頂に、あらためて挑戦するつもりだったのだ。


 結果的に二度手間にはなったものの、無理に深入りして取り返しのつかない事態を招くよりは断然にいい。現に、彼はこうして無事、二度目のチャンスにありつくことができたのだ。


 日が高くなるにつれ、いよいよ気温も上がってきた。可能なら木陰の下を通って行きたかったが、下手に川から離れると道を誤る危険性が高い。強い日差しに肌を焼かれながらも、サムはひたむきに川沿いを進み続けた。


 ややあって、彼は無事に高台のふもとへ舞い戻った。気分の高揚が影響しているのか、こうして再び密林の坂道と対峙してみると、「案外すんなりと進めるのではないか」と楽観的な考えが頭に浮かんできた。


 つる草が縦横無尽に絡み合う道なき道も、ほぼ垂直に切り立った崖に比べれば可愛いものだ。


 さしずめ、週末にほどよく汗を流すためのハイキングコースといったところである。


 行く手を阻む枝葉をときには石のナイフで切り落とし、またときには身体を支えるロープの代わりにしながら、彼は一歩一歩と着実に身体を押し上げていった。


 何はともあれ足場が悪い。落ち葉が折り重なった地面は極めて滑りやすく、少しでも気を抜けばあっという間に出発地点まで引き戻されてしまいそうな具合だった。真っ逆さまに落ちるというのではなく、ずるずるとずり落ちるような感覚だ。


 このとき、サムは複雑な心境で茂みと格闘していた。この坂のように足場が不安定な状況では、咄嗟に何かを掴むなどして姿勢を保たねばならないことがある。言うまでもなく、転倒や滑落を防ぐためだ。


 ところが現状のサムの場合、そう何でもかんでもに無警戒に手を伸ばすというのは、それはそれで大変に危険な行為なのである。植物のなかには棘などを用いて身を守る種類もあるからだ。


 たかが手指の傷だと侮るなかれ、もしも破傷風などの感染症にかかってしまったなら、大げさでなく命にかかわる事態にもつながりかねない。


 足場の状況を注視しながらも、かつ手もとに対する警戒も怠らずに前進をし続ける。これぞ、「言うは易し」の典型的な例である。


 そういうわけで、この険しくもなだらかな斜路を進むあいだに限っては、サムも食料探しと薪集めについてはいったん忘れることにした。


 何事もついででこなすのが理想ではあるものの、あまり欲張り過ぎるのも考え物だ。理想は理想。基本は基本。何事も固執し過ぎないようにしたいものである。


 それにしても、例の手作りの銛がここで役に立ったというのは意外なことだった。進行方向の茂みを叩いて生き物を追い払ったり、体重をかけて杖の代わりにしたりと、先端を尖らせただけの木の棒にしては存外に使い勝手がいい。いまだ漁具としての本分を尽くせずにはいるものの、なかなかどうして頼りになる道具である。


 しかし、たとえそうした道具の助けがあったとしても、やはり乗り越えられない壁というものは存在する。ときには回り道も必要だ。


 かといって、蛇行するほど頻繁に進路を変えるのもいいこととは言えない。実際、サムも幾度かは道を誤りかけた。


 そういう場合は大抵、太陽の位置をヒントに方角の見当をつけるものだが、しかしこの方法とて万能ではない。頭上を枝葉に塞がれた森の奥深くでは、視認できる空の範囲というのにも限りがあるからだ。


 このように日光の向きがアテにできないような場合には、当然ながらそれ以外の情報を頼りにして前進するしかない。


 幸いにしてこのときのサムは、涼しげな水流の音を手掛かりに進路を定めることができた。出発地点が小川の近くだったことが、意外なかたちで功を奏した格好だ。


 地図もコンパスもなしに特定の地点を目指すというのは想像以上に困難なことだ。とはいえギブアップが許されていない以上、とにかく何とかするしかない。


 それが何であれ利用できるものは最大限に利用し、いかに牛の歩みであろうとも、慎重に慎重に一歩ずつを積み重ねる。それこそが冒険家サムの流儀というものである。



 そういう不屈の姿勢が功を奏したか、やがて太陽が空の頂点に達したころ、サムもまた丘の頂点へとたどり着いた。


 今日はやけに日差しが強い。くわえて、丘の上が開けた地形になっているがゆえに、強烈なまでの直射日光を避けることが叶わない。あまり長居すべきではないだろう。手際よく目的を果たし、なるべく速やかに撤収するのが吉だ。


 森から飛び出した丘の先端に立つ。するとたちまち、サムは眼下に広がる光景に目を釘づけにされた。


 緑、緑、緑。右を見ても左を見てもまったくもって緑の一色。遥か遠方に望む山々の稜線からすぐ足もとの川辺にいたるまで、目に映る大地のすべてが同系統の色合いのみで統一されている。


 土地の形状や方角などまるで関係がない。あるいは高波のように、またあるいは渦潮のごとくにと、隆起する大地のその一面が、木々の梢によってあますことなく埋め尽くされていた。壮観だというのを通り越して、少々呆れるほどの一貫性だ。


 雄大ではある。「素晴らしい眺めだ」と評するのが適当だろう。


 しかし正直なところ、サムとしては「アテが外れた」というのが第一の感想であった。


 というのも、四角いビルの姿とは言わないまでも、たとえば採石場などなんらかのかたちで文明社会との接点が見つかるのではないかと、そういう期待を抱いていたからだ。


 察するに、現時点で彼が身を置くこの一帯はアマゾン川流域の熱帯雨林中でも奥地の奥地、まさに秘境と呼ぶに相応しい場所であるのだろう。


 瞬間、これまででもっとも強い脱力感が彼の四肢を襲った。思わずへたり込みそうになるのを、彼は手製の銛に寄りかかることでどうにか耐えた。帰還が絶望的だというのは先刻から承知していたが、いざこうして現実を突きつけられてしまうと、どうしても精神的にくるものがある。


 広大な太平洋に一人取り残された気分というのか、なるほど樹海とはよく言ったものである。


 さりとて、いつまでもショックを受けてはいられない。サムはいったん瞼を閉じ、深呼吸をしてから再度、眼下でうねる密林と向かい合った。前後左右のどの方向にも遮る物がなく、広い範囲が見渡せた。やはりというか、ぱっと見て人工物だとわかる建物などは見あたらない。同様に、その痕跡などもない。


 ただし、どうやらまったく未知の風景というわけでもないらしかった。暗記するほどに見慣れた地図の情報と、あるていど共通する要素が見受けられたのだ。


 あれは間違いなくあの山だ、これは絶対にこの川だ、と断定するほどの強度はないものの、四方に見える山容にはどことなく見覚えがある。


 仮にその感覚を信じるのであれば、サムが気絶していたあいだに移送された距離というのは、案外そう長いものではないのかもしれない。


 というのも、彼が努めて記憶に留めよう、隅から隅まで把握しようと見返していた地図の部分というのが、この冒険における本来の目的地にあたる部分にほかならなかったからだ。それすなわち、〈望みの間〉があるとされる一帯である。


 サムが襲撃者らに捕縛されたのは調査開始から五日目の朝のことだった。谷川への滑落というアクシデントに見舞われ、当初の計画から丸一日ぶんもの遅れを生じさせながらも、どうにか目的地近辺へとたどり着き、さあ調査を開始せんと意気込んでいた、まさにその朝の出来事だ。


 もし仮に、今眼下に見える樹海とその「目的地」とが同一のものであるとするならば、サムは依然、五日目の朝の時点から大きく位置を変えてはいないということになる。それなら、まだ助かる見込みもあるというものだ。


 ただ一点、留意しなければならないのは、人間は都合のいいほうに物事を考えがちだということだ。


 万全を期すのであれば、ほかの高所など複数の地点から観測を行うのがいいだろう。一方の視点からは間違いないと思えたことが、別の立場からはまるで見当違いなものとして感じられる。サムの経験上、そういう事態は珍しいものではない。人間の空間認識能力なぞ得てしてアテにならないものだ。


 それでなくても失敗の許されない状況なのだ。ここは浮足立つことなく、しつこいくらいに検討を重ねるのが正解というものだろう。


 サムは雄大なる山並みから視線を外すと、ついで足もとの河川へとそれを差し向けた。上流と下流とにそれぞれ何が見えるのか、あらためようとしたのだ。


 支流の分岐点は存在するか。より規模の大きい河川に合流していないか。一つでも目立つ特徴を発見することができれば、現在位置の把握がずっと楽になるはずだ。


 無論、ここより下流に関しては先だって把握している部分も多い。シェルター最寄りの河原であったり、そこからさらに下った先にある、流れ落ちる向きの滝の存在であったりだ。


 この点は丘の上からでも確認することができた。しかし生憎と、川幅の狭くなった辺りをはじめ、一部には死角となっている部分もあった。決して少なくない面積において、折り重なる枝葉が地表を覆い隠していたからだ。


 植物が少ない川原などはともかくとして、そこより先に関しては途切れ途切れの情報をつなぎ合わせて推測するしかなかった。


 そうして川下の方角へと目線を進ませるうち、サムはその行く末に山が控えていることに気がついた。現在地から五キロ以上は離れているかという位置だ。


 その山の裾野には、ひと際に目を引く立派な規模の大河が横たわっているのが確認できた。もしかすると、足下の小川は流れ行く先でその大河へと合流しているのかもしれない。あくまでも可能性の話である。


 対する川上の様子はといえば、端的に表すのなら実に素直なふうであった。


 目に見える範囲では合流も分散も認められず、角度のきつい方向転換も見られない。車道でたとえるなら三車線ほどか、清流は一定の川幅を保ったまま、ごく穏やかな調子で密林に涼感を添えていた。じっと眺めているとボートかカヤックが欲しくなるような具合である。


 さほど日差しの強くない明け方に、颯爽と船を走らせる。


 想像するだけでも心が弾む情景だ。ただ、行き着く先に滝が待ち構えていることを除けば、ではあるが。


 そうしたなだらかな流れを真っすぐ遡っていくと、そこにはまたしても山の姿というのがあった。奇しくも、川上と川下との両方が、それぞれ別の山へと続くかたちであった。


 この川上側の山というのは、それ自体には目立つところのない低山であった。高さはさほどなく、斜面の角度もそれなりといったところ。同様に、面積という意味での広さも、言うなれば手ごろな感じといった趣である。


 つけ加えるなら全体の輪郭にも取り立てて目立つ特徴はない。よく言えば嫌味がなく、悪く言えば面白みがない。市街地の真ん中にでも持っていけばいいランドマークになるかもしれないが、こと自然美あふれるこのアマゾン熱帯雨林の中にあっては、どうあがいても主役を張る存在にはなり得まい。


 サムにしてみても、現在のような窮状に陥りでもしていない限りには、この低山に着目することはなかったはずだ。


 しかしこのとき彼は見た。たしかにその山に目を向け、ことさらに意識してそれを観察した。ゆえに気がついた。


(人間は時として、物事を自分に都合のいいように解釈するものだ)


 その言葉は強い調子でサムの頭蓋骨内に鳴り響いた。まったく同じ一瞬のうちに、何度も何度も繰り返し反響したかのようでもあった。硬い頭骨の内側で、脳と骨との隙間でだ。


 独りでにそうなったのではない。ほかならぬサム本人が、自ら望んでそうさせていたのだ。その言葉は紛れもなく、自分自身に対する警鐘であった。



 数分後、彼は高台の頂上から少し離れた木陰の中にいた。彼は頭を冷やすためにそこにいた。比喩的な意味でも、また文字どおりの意味でもだ。


 このとき、彼は直感していた。


 あの地味で目立たない低山が、ともするとゴールなのではないかということを。


 この場合のゴールというのはつまり、長年のあいだ追い求めてきた大いなる謎の答え、すなわち〈望みの間〉の所在地という意味合いである。


(いやしかし、そんなことがあるか? よりにもよって、そんなでたらめが……?)


「馬鹿馬鹿しい発想だ」という思いと、「そもそもどうしてそんな突飛なことを考えついたのか」という疑問とが、半々に彼の意識を支配していた。


 一笑にふすべきだろうか? 自分は今、度重なる緊張と興奮とのために錯乱しかかっているのでは? 不毛の砂漠に落ちた雲の影を、オアシスだと思い込んでいやしないか?


 そうした疑念が渦を巻く一方で、こういった瞬間的な閃きが決して馬鹿にできないものだという事実を、サムは考えずにはいられなかった。その手のインスピレーションに命を救われた経験が、これまで幾度となくあったからだ。


 要は、無意識化でのみ理論が整っている状態だ。


 よく晴れた気持ちのいい日に、どういうわけか無性に傘を持って出かけたくなる。一見、的外れだとしか思えない類の欲求だが、試しにその動機というのを探ってみると、数日前にちらっと見た週間天気予報が原因であったりする。つまり、その週間予報ではこの日が雨になると伝えていたというわけだ。


 無論ここで重要なのは、実際に雨が降るかどうかということではない。着目すべきは、「当人でさえ戸惑いを覚えるようなでたらめな思いつきにも、探してみればまっとうな理由があった」という点である。


 結局、そうした思いつきというものは、その根拠を最初から認識していれば「思考の結果」ということになるし、そうでなければ「気まぐれな行動」ということになるのである。


 当人にすら認識されない深層心理で下されたなんらかの判断が、その緻密な思索の筋道を何一つ明らかにしないまま、意識の上に放り出されたような状態。


 人間は時として、それを直感と呼ぶのである。


 サムがわざわざ頭を冷やして物思いに耽っていたのは、そういう事情に基づいたことであった。このときの自分の直感がいったいどういう理屈から生じたものなのか、一度冷静になって思案する必要があると考えたのだ。


 ところが、これがなかなか上手くいかない。集中力が不足しているのか、〈望みの間〉に関する情報を記憶から引き出すのが、どうにも難しくて仕方がなかったのだ。


 とにかく一意専心だと目を瞑ってみたところで、思い浮かぶのは食料にかかわることばかり。


「早く次の食事を用意しなければいけないな」だとか、「さっき食べた〝エビ〟ははじめの印象ほど最悪ではなかったな」だとかというような事柄がのべつ幕無しに割り込んでくるせいで、一向に考えがまとまらない。つまるところ、彼は時間が有限であると知り過ぎているのだ。


 さらに言うなら、現時点でサムが所有していた〈望みの間〉の情報が、そもそもそれほど多くないという事実も、彼にとっては大きな災いとなっていた。


 いちおう、この点に関しては仕方のない部分もある。なんといっても眉唾な伝説だ。それも、非常な危険を伴った、眉唾な伝説だ。この現代においてなお本格的に調査に取り組んでいるのは、世界広しといえどもサム・モーティマーくらいのものである。


 そういうわけで、参考にできる資料はろくに現存していなかった。


 特に、文献の類などはまったくと言っていいほど残されていないため、手掛かりの多くは種々の口伝をもとにサム自身が考察したものであった。すなわち、現地の先住民たちのあいだに伝わる断片的な内容を、ああでもないこうでもないと苦心しながら継ぎ合わせた結果だということだ。


 しかし彼のそうした努力にもかかわらず、それで判明した事実はといえば、とにもかくにも古い言い伝えだというくらい。


 十三世紀ごろに成立したインカ帝国の時代か、それとも紀元前後から六世紀にかけて栄えたナスカ文化あたりか、でなければ、そこからさらに千年ほど遡ったチャビン文化時代なのかという具合に、アンデス文明にたとえてどの年代に該当するのかすらわかっていないというありさまなのだ。


 結局のところ、この伝説はいまだ多くの部分について謎に包まれたままなのである。


 むしろ、「そのように秘境で埋もれたままになっている前人未到の真実に、自らの手と足でもって到達したい」と、そう心から願うからこそサムは、これまで研究を続けてきたのである。


 遺跡そのものを発見することができれば、そこに秘められた由緒というのもまた順を追って解明されていくに違いない。


 サム個人に調査チームを組織するほどの力はないが、未知の古代遺跡の正確な所在地を突き止めたうえで、その位置情報を力のある誰かに提供することはできる。


 その後、晴れて正式な学術調査が行われることとなった暁には、数多くの謎が次々と解き明かされることになるだろう。それこそ、冒険家モーティマー氏にとって最大の勝利と呼べる結果だ。


 とはいうものの、現実はそう理想どおりには進まないものである。サムも、実際のところ自分がどういう物を探しているのか、完璧に把握しているわけではないのだ。前述のとおり〈望みの間〉の来歴が曖昧模糊なうえ、それが備えるとされる性質もまた、明らかになっていない点が多いからだ。


 どこかしらの空間を指した言葉であること。その空間が宝物庫であるらしいこと。その空間が人工の建造物内に存在しているということ。くわえて、そこを訪れた人間は、本人が望むものを何でも手にすることができるのだということ。


 サムがもつ情報というのも、現実にはそのていどのものである。ほかに判明していることはと言えば、その建造物が存在するとされる大まかな位置の情報というのと、探索の目印になりそうないくつかの地形的特徴のみ。一般的なたとえで言うなら、どこそこの山をどの方角にどれくらい行ったところ、といったていどの内容である。


(そう、その点こそが今、おれにとって最大の悩みの種となっているのだ)


 何をどうしてみたところで、野山を人工の建造物だと称することはできまい。


 にもかかわらず、サムは例の川上の低山を眺めるうちに、あれこそが〈望みの間〉の所在地なのではないかと、そう考えるようになった。あくまでも直感的な思考として、だ。


(なあ頼むぜ、サム・モーティマー、どういうことか教えてくれよ。どうしておまえは、そんなにも理屈に合わないことに、そんなにも固執しようとしているんだ?)


 残念ながら、その問いかけに応じる者はいなかった。唯一そこに居合わせていた人間は、相も変わらず混乱と秩序との狭間をさ迷い続けるばかりである。どうも、まともな〝討論〟というものは期待できそうにない。


(オーケイ……オーケイ、わかったよ。じゃあいつもの手法でいこうじゃないか、なあサム)


 そこまで思索が進んだところで、彼は勢いをつけて立ち上がった。ついで、適当な木に立てかけてあった銛を手に取り、背伸びをし、そして坂道を下りはじめた。登坂の際と同様の慎重な足取りで、サムは川岸を目指し斜路を下っていった。



(さておき、今日一番の喜びはこれで間違いなかろう)


 サムは喜びに打ち震えた。胃袋の底のほうから湧き上がってくる、大いなる歓喜がためにだ。


 今やすっかり帰るべき場所となったシェルターの中。心癒やす火あかりのもと。このときサムはそこにいた。


 遥か頭上に見える大空は、すでに黒く染まりはじめていた。幾千万もの星々を敷き詰めた、眩いばかりの黒色だ。この宵闇が見下ろす下にあってなお手放しで喜べる機会に恵まれるというのは、彼にとっては随分と久しぶりのことであった。


 そういう彼の真横には、血痕の染みついた銛という物が転がっていた。そこに見える深紅の色はまるで、その血が真新しいものであると声高に主張するかのごとき鮮烈な色合いを示していた。


 そうした赤色というのは当然、銛の持ち主を源とするものではなかった。この日、その鋭い刃の餌食となったのは、紛れもなく彼と対峙した獲物の側であった。



 サムにチャンスが巡ってきたのは、くだんの丘から帰るその途上でのことだった。例によって川沿いを歩み進んでいたところ、彼はついにその目で魚類の姿をとらえることに成功したのだ。


 はじめのうちは蛙か何か小さな動物が水面を揺らしたのかと考えたのだが、しかし実際はそうではなかった。水深が浅く、また流れの速度も緩やかになっている川の一端で、立派なナマズが泳いでいたのである。


 全長は約三〇センチ。見るからに肉厚な体つきで、顔の部分には計六本の細長いひげをたくわえている。


 また、この点は実際に捕獲する段になってから気づいたことだが、そのナマズの背びれの一部、並びに尾びれの大部分が、目にも鮮やかなオレンジ色に染まっていた。


 おそらくこれが「レッドテールキャットフィッシュ」と呼ばれる種なのだろうと、サムはそう見当をつけた。


 この種は大きいものになると、成長後の全長が二メートル近くにも及ぶ場合があるのだという。そうすると、このときサムが発見した個体というのは、察するにまだ成長過程にある個体なのであろう。


 しかし驚いたのは、このときそこに見えていた魚影というのが、その一匹ぶんだけではなかったということだ。群れというわけでもないのだろうが、最初に発見した一匹を含めて合計四匹ものナマズが、サムのすぐ近くで一堂に会していたのである。


 それら一匹一匹のサイズというのにはバラつきがあるものの、尻尾が赤いという点については共通していた。付近にレッドテールの繁殖地があるのか、もしくは、川のどこかから一塊になって移動してきたのかもしれない。


 結果からさきに言うのであれば、サムはそれらのナマズのうち二匹まで捕らえることに成功した。岸の方向にめり込むような形の浅瀬にいたので、手早く退路を塞ぐことができたのだ。


 取り逃がす心配がなければ勝負はこちらのもの。多少の時間と体力とを奪われはしたものの、結果的には、その損失を補ってあまりあるだけの成果を彼は手にすることとなった。これぞまさしく望外の喜びである。


 そうして仕留めた二匹のうちの片一方を、サムはシェルターに帰り着くや否やすぐさま食べはじめた。


 火を通す時間も惜しいとばかりに、捌くのと焼くのと食べるのを同時に進行させるかのような食事風景であった。実に慌ただしいことこのうえないが、とはいえ、それはこの一食が味気ないものだったということを意味するものではない。


 なんといっても丸二日ぶりのまともな――比較的、まともな――食事である。このタイミングでの加熱した魚肉が、どうして美味くないわけがあるだろうか。


 一方で、残るもう一匹のナマズはといえば、こちらは少し間を置いてから夕食としていただくことにした。


 日が暮れてゆくのを肌で感じながら調理をし、満天の星の下で肉をむさぼる。「優雅だ」というと語弊があるだろうが、されど間違いなく充実したひと時ではあった。少なくとも、「今日一番の喜び」だと確信できるくらいには。



 そうした至福の時間が過ぎ去ったのち、サムは思う存分にその余韻に浸ることにした。しっとりとジューシーに焼き上がったナマズに、フレッシュなジャボチカバを添えた一皿。次はいつ同じ物が食べられるだろうか。


 ところでこのジャボチカバであるが、これはこの日の午後のうちに摘んでおいたものである。さらなる食料調達と巻木の収集のため、サムは昨日に訪れた森を再訪していたのだ。


 結果、よく乾いた薪をいくつかと、先日発見したジャボチカバの実の残りとを持ち帰ることができた。


 悪くない成果だ。本来であれば、デザートつきの豪華なディナーなど望むべくもない状況なのである。


 ともあれ、彼は食事を終えるとすぐに横になった。頭の隅で(あまりこういうことはすべきではないな)と言い訳がましく考えながら。


 薄いシャツの上から腹を叩いてみると、胃袋の中にちゃんと物が入っているということが、手と腹の両方の感覚を通して実感された。


 太って寝っ転がるのは気分がいい。なんともいえず、満たされた心地がする。


 マットレスの調子もよかった。気のせいか、今夜はあのチクチクとした肌触りも幾分かはマシになっているように感じられた。もしかすると、この二晩でヤシの葉が柔らかくなったのかもしれない。サムの体重を受け止めたり、小葉のふち同士が擦れ合ったりするうちに、角が取れて丸くなったということか。


(今夜は一昨日以上にぐっすり眠れそうだぞ)


 と、そういう予感がある一方、そう呑気に眠りこけてもいられないぞという危機感もまた、彼の脳裏にはあった。明日以降の行動について、明確な方針を定めなければならなかったからだ。


 いくら居心地がよくなったからといって、明日の晩までこの寝床の中で過ごすわけにはいかない。部分的にではあるものの、ともあれ周囲の地形を把握するという目標は達成できたのだ。


 となれば、今こそ計画を次の段階へと進ませるときだ。今度は文明社会へ帰還するための具体的な作戦を練らなければならない。


 どの方角を目指し、どういう経路をたどるのか。またその際、移動のためにどういう手段を用いるのか。


 実のところサムはいまだ決めかねていた。あの小川沿いの道を遡上するように進むのか、それとも、下る側へと向かうのかを。


 この日の午後、彼は種々の作業を進めるのに並行して、必死になって脳味噌を働かせ続けた。言わずもがな進路の決定のためである。


 ところが、結局のところ結論は得られずじまい。


 いちおう、特別な理由がない限り水辺を行くことだけは確定していたのだが、あの川沿いの道を上流側と下流側のどちらへ向かって進んでいくのかは、この時点ではまったくの未定であった。AかBかという極めて単純な二者択一が、このときの彼にとっては大変に難しい決断となっていたのだ。


 下流の側には大河がある。どうにかしてその大河までたどり着くことができれば、その先に人里を見つけ出すのも決して不可能な話ではない。規模の大きな河川のそばには、往々にして大なり小なりの集落というのが存在するものである。


 とはいえ、例の小川を下った先に滝があることも忘れてはならない。大河を目指して行くのであればこの難関をどう乗り越えるのか、その方策というのも考えなくてはならないだろう。登山道具はおろかまともなロープの一本さえないこの状況で、安全かつ確実に滝を下る方策をだ。


 安易な考えで川を下るのは危険だ。かといって、上流に向かったところでいったい何が期待できるのか。救助隊の捜索も、また整備された山道なども望めないこの秘境の内にあって、低山を目指すことにいかほどの意義があるというのだ。


 ここはやはり下りのルートを取るのが正解か。


 滝の存在を軽視すべきでないのも事実だが、他所から迂回して避けるなど、やりようというのはいくらでもあるはずだ。変に焦るようなことさえしなければ、いかな難所とて絶対に越えられないということはない。


 当然、失敗すれば命はない。となると、体力や方法の問題にくわえ、精神的な重圧というのも克服せねばならないだろう。動揺というのは無論のこと、過度な緊張感というものもまた、手かせ足かせとなって人間を苦しめるものであるからだ。


 とはいえ、サムとてプロの冒険家である。この手のプレッシャーに立ち向かうためのすべというのは充分以上に心得ている。


 一にも二にも冷静であるよう努めること。そして、強い目的意識を維持し続けるということだ。それさえ実現できるのなら、どれほどの重圧であろうとむやみに恐れる必要はない。


 そういうことまですべて承知したうえでしかし、それでもなおサムは決断を下せずにいた。川下側に見える大河へと向かい、そこから人里を探すのが何よりも着実な方法だと、そうはっきりと理解していながらも、彼は遡上という選択肢を諦めきれずにいたのである。


 というのも、例の厄介な直感に対する執着心に、いまだ決着をつけられていなかったからだ。


 もしや、あの山の中に〈望みの間〉が眠っているのではなかろうか。


 そうした可能性が完全に否定されない限りには、仮に帰還を果たしたところで必ず後悔することになるだろう。長年の念願を果たすかどうかの瀬戸際で、どうして我が身可愛さに屈してしまったのか、といったところである。


 つけ加えるなら、そういう後悔の仕方であればまだ救いがあるというものなのだ。これがもし、万が一の事態ということにでもなった場合には、よりいっそうに悲惨な状況にも陥りかねないのである。


 仮に下流側へと進むことに決めたとして、その道行きのさなかに不測の事態から命を落とすようなことにでもなれば、そのいまわの際の無念たるや、まさに想像を絶するものがあるに違いない。


――どうせ死ぬのなら直感にしたがって死にたかった。


 そういうふうに思いながら息絶えるなど、それこそ死んでもご免である。こうした結末だけは是が非でも避けなければならない。


 そもそも、いつどんな場合にも身の安全を優先させたいのであれば、なにも無理をして冒険家になる必要はないのである。


 人跡未踏の秘境に挑んだり、不毛の荒野で凍える夜を過ごしたり、複数の国と地域で法を犯したりする義務など、この世のどこにも存在してはいないのだ。


 しかし、サムはそれらを実践している。明確な目的があって、そうしているのだ。


 一言で表すなら「納得」だ。この世界には、莫大なリスクを負わなければ見られない風景というものがある。実の両親から貰い受けた人生を、丸々一つ駄目にするほどの覚悟がなければ、決して、決して立つことのできない場所がある。


 そうした風景や場所というものに、自らの知恵と能力とをもって到達すること。それこそがサムの生きる意味だった。


 自分自身の意志で、自分自身の目的のために、自分自身の命を使うこと。


 命尽き果てるその瞬間まで、自分自身として生きること。


 命を懸けて己の理想を叶えること。


 そうした人生の意味から目を背けたまま生き永らえるのでは、死んでいるのと何一つ変わらないではないか。


 彼が安全策をとるのは、あくまでも不本意に命を落としたくないからだ。のるかそるかの大勝負で使う大切な命を、不注意や準備不足からむだにするなど絶対にあってはならないことだ。


 裏を返せば、それが何であれ自分で納得のいく理由が存在するのなら、喜んで危険に飛び込むだけの気構えが彼にはあるということだ。


――なのに、どうして今さらになって迷うのだ? ともあれ一度人里に戻り、装備を整えてから再挑戦すればいいなどと、どうしてこの期におよんで考える? 今と同じ場所に再び立てる保証など、この世のどこにもありはしないではないか。冷静でありたいと願うからか。それとも、そうとは知らずに怖気づいているのか。


 人ひとりが横になるだけで精いっぱいというシェルターの中、天井がサムのすぐ目の前にあった。


 立ち上がるのも、というよりは、中腰になるだけでも難しいような狭苦しい空間である。ひざを伸ばすことさえ叶わず、寝返りを打つのも一苦労だ。


(いつまでもここにはいられないだろう、サム、サム・モーティマーよ。ここで足を止めていて、いったい何になるっていうんだ)


 彼は、火あかりに揺れる緑の天蓋に己の顔を思い描いた。未知であることに怯え、想像上の恐怖に戸惑う、弱り切った己の顔を。


(恐れるなよビッグノーズ。変わることを、動くことを、状況の変化ってやつを。よくなるのか悪くなるのかなんて、わかるわけがないじゃないか、最初から。だが、それでもとにかく次なんだ。たとえ死のうが生きようが、それは次なんだよ。ここから一歩進んだ場所、一歩を踏み出した先なんだ。自分が、自分自身で、『こちらに行こう』と定めた道の先だ。不安なら不安でいい。だけど立ち止まるな。不安や恐怖心なんぞのために、足を止めてやるような真似をするな!)


「恐れるな、サム・モーティマー!」


 その声を耳にした者は、この世界でただの一人きりだった。それは人間のみならず、地を這う虫や、樹木の陰に潜む鳥獣までをも含めてのことだった。


 されど充分。このときサムは確信していた。届くべき者にはたしかに届いた、と。


 途端、急激に瞼が重くなりはじめた。身体中の筋肉が緩み、ついで呼吸が深く、かつ楽になる。


(今夜は一昨日以上にぐっすり眠れそうだぞ)


 ぱちっ、とひと際に大きく響いた薪の音に続いて、心地よい脱力感がサムの全身を包み込んだ。

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