生存と選択


    7


 目が覚めた、という感覚はなかった。ただ、眠りから覚醒するのとも、また失神後に回復するのとも違う奇妙な感触が、サムの頭蓋骨の中にはあった。


 起床にともなう気だるさが一切なく、それこそ電灯のスイッチを入れたのかと思うくらい唐突に世界が光を取り戻す。瞼の内側に薄暗さを覚えるよりさきに、ところ狭しと繁茂する木々の姿が目の中に飛び込んできた。日常の生活では味わえないほどの急転だ。


 彼は文字どおり飛び起きた。仰向けに寝転んだ体勢から瞬時に上半身を起こすと、その勢いを殺さないよう一息に屈んだ状態まで移行した。


 無意識的な行動だった。素早く動かされたサムの手足の下で、雑多な枯れ葉が乾いた音を立てていた。


 少なくとも三つの事は確かだった。一つは、例の襲撃者たちの姿が周囲に認められないということ。


 二つめは、身体は問題なく動かせるということ。


 そして最後の三つめというのは、サムは相も変わらず、文明の影すら見えないような熱帯雨林のど真ん中にいるということだ。


(まさか……夢だったのか?)


 あの一連の出来事は、自らの恐怖心が生み出した悪夢だったとでもいうのだろうか?


 ほんの束の間そういう気の迷いが生じたが、それが夢幻などでは決してないということは考えるまでもなく明らかだった。目覚めたときにテントの天井が見えないことが、その何よりの物的証拠である。


 その次に彼が気づいたのは、腕時計がなくなっているということだった。時間を確認しようとしたが叶わなかったのだ。


 つけ加えるなら、彼のジャケットもまたいずこかへと姿を消していた。それは単なる上着というのではなく、ライターや行動食、地図、コンパスなどを含むいくつかの道具が収められた、重要な装備の一つだった。


 今サムが身に着けている衣服といえば、薄手のシャツとトレッキングパンツくらいのものである。ポケットの中身はすべて没収されていたが、ブーツを残しておいてくれたあたり、くだんの襲撃者らもなかなか有情なのかもしれない。



 日があるうちに意識を取り戻したのは幸いである。たしかに状況は最悪だが、もし仮に目と鼻の先すらまともに見えない宵闇の中に放り出されでもしていたら、この状況が最悪だと判ずることさえままならなかったに違いない。


 ともあれ、差しあたり調査はここまでだ。これより先はもはやサバイバル。生きて郷里の土を踏むための戦いである。


 目的地を目指して移動することには違いはないが、ここからはとにもかくにも飲食物と休息場所の確保が急務となる。それも、充分な道具もないままに、だ。


 サムはひとまず河川を探すことにした。なにぶん熱帯雨林である。じっとしているだけでも汗の浮き出るこの地域にあっては、水分不足は死に直結する。今は水場の発見が最優先だ。地面の湿り方や環境音などを頼りに、なんとしてでもたどり着かなければならない。


 そういうわけで、意識を取り戻してからものの五分と経たないうちに、サムは早くも森の中を歩み進んでいた。行動は迅速であるに越したことはない。


 加えて言うなら、毒虫や蛇、また植物の棘など、幾多もの危険のサインが潜む道中にあっては、余計な物思いなどしている暇はない。その点こそが、このときのサムにとっては重要だったのだ。


 自身の身に起きた出来事。失った物資。これから取り組まなくてはならない膨大な数の課題。


 いずれも考えずにはいられない物事ではあるが、それらのすべてに真正面から向き合うことなど、今のサムにはとてもではないができなかった。現実を受け止めるには時間が必要だ。時間と、あるていどの精神的な余裕というものが。


 ゆえに、ひとまず集中だ。食料と寝床と火。それ以外はすべて後回し。恐れるなり落ち込むなりといったことをするのは、生存のための環境を整えてからでも遅くはあるまい。


 それにしてもナイフを奪われたのは痛かった。無論、ナタがなくなったときも辛さそれ自体は存在していたが、あのときには最低限、代わりとなる道具があった。だが今度は、その代わりの道具をさえ失ってしまったのである。


 こうなると下草に行く手を阻まれるなどした場合、己の手足だけで道を切り開かなくてはならなくなる。思うようなペースで進めないどころか、そもそも進むも戻るも叶わないといった状況に陥る可能性すらあるのだ。


 なるべく早いうちに、何か刃物として利用できる物を確保しておくべきだろう。石英や粘板岩、もしくは動物の骨やら何やらだ。


 そうして探し物をしながら道を行くとなると、今度は目でとらえるべき情報が格段に増えることになる。


 自然、より強い集中力が求められるが、サムにとってはそれはそれで都合がよかった。適度な緊張感を保っておきたかったからだ。


 それから少々のあいだ目を皿のようにして行くうちに、サムはとある変化を感じ取った。といっても、彼の視界の中にではない。彼の周囲には変わることなく緑の迷路が広がっている。同様に、全身から汗が噴き出すほどに蒸し暑いのも、また虫や鳥の声がやかましいばかりであることも、相も変わらずといった調子である。


 ところが、ふと気になってよくよく耳を澄ましてみたとき、サムはそこに生物に由来するものとは異なる波長が現れていることに気がついた。その音は長くながく一定のリズムを保ちながら、決して途切れることなく続いているようだった。


 絶えず移動を繰り返しながら、かつ同時に、決して位置を変えないもの。


(いいぞサム、水の音だ! 水流だ!)


 前方やや左手側、一一時の方向からその音は響いてきていた。ようやく運が向いてきたかと期待感が高まるが、しかし油断は禁物だ。二日前に川を発見したときには最終的に急流に呑まれる羽目になったのだ。今回とてそうならないとは限らない。


 そうこうするうちに木々の姿が減り、道が少し開けてきたのを契機に、サムは道行きの調子を切り替えた。息を殺すような慎重な足取りだ。


 その際、逸る気持ちを抑えるのには苦労した。飲み水が恋しくてたまらなかったからだ。叶うことなら、今すぐにでも駆け出してしまいたいような心持ちだった。


 一歩ずつ足を進めるたび、涼しげな水音が存在感を増してくる。土の湿り気がいっそうに強くなる。いよいよ川も間近に迫ってきたか、と期待に胸を膨らませるうち、ついにその瞬間は訪れた。


 前方に望む緩い坂をくだった先に、揺らめく白線が姿を現したのだ。


 日光を受けて煌めく白波の列。そこに見えたのは紛れもなく、清流と呼ぶに相応しい小川の姿であった。川全体の流れはやや急で、一部の水面などは白く染まるほどに波立っているが、比較的流れの穏やかな部分に目を向けると、枯れ葉と石とが並ぶ川底の様子がよくわかる。


 川幅はだいたい五メートル前後。水深は一番深いところでも膝丈くらいかという具合だ。


 周囲に害となる生物がいないのを認めると、サムは一目散に川辺へと駆け寄った。岩石だらけの岸にひざまずき、両手を水に浸ける。冷たい。


 たっぷりの泥土と汗とにまみれた手の皮膚が、彼の肌本来がもつ色味を取り戻す。手の甲と平とを問わず、その表面があますことなく傷だらけになっているということに、サムはこのときはじめて気づかされた。


 慎重を期すのであれば生水は口にすべきではない。煮沸殺菌は欠かさずに行うのがベターだ。が、一種の緊急事態たる現状を踏まえるのであれば、やはり背に腹は代えられまい。


 それに、よっぽど長いあいだ淀んでいて、水の入れ替えが為されなかった沼や水溜まりなどでない限りには、そう極度に神経質にならずともいいのである。寄生虫なり細菌なりのリスクを正しく認識している限りには。


 よってサムは思う存分にのどを潤したのち、全裸で川に寝そべった。軽度の脱水状態から脱したことで、彼はほんの少しではあるものの、気分が和らいでいくのを実感することができた。


 彼は今、この川の周囲一帯がどういう環境であるのかをじっくりと観察している最中だった。


 岸に関してはとにかく石と砂だらけだ。実に河原らしいと評するべきか、全体に土が少なく、草花の類もあまり見られない。スコールによる降雨があるたびに川が増水し、岸辺を洗い流しているのだろう。この近くにシェルターを構えるのなら、なるべく高さのある場所を選ぶべきか。


 そうした灰色の岸を離れると、その向こう側には言わずもがな動植物の楽園、深緑に染まる無尽の異界が広がっている。ほんのわずかとて油断のならぬ魔窟のような場所ではあるが、それでも不毛の砂漠地帯に比べれば幾分かマシというものだ。なんといっても、ここには溢れ返らんばかりの「物」が存在しているのだ。


 その「物」たちの活用法さえ心得ていれば、己が身一つでも充分に戦い抜くことができるはずだ――実際のところ、これは完全に「言うは易し」というやつなのではあるが、サムはその事実をあえて無視することにした――。


 たとえば、ココヤシなどがいい例である。これはその名のとおりヤシの木の一種で、この樹木が実らせる果実というのが、いわゆるココナッツと呼ばれるそれである。


 ココヤシは元来、南米大陸原産ではないらしいのだが、長く人里で栽培されてきた経緯があるからか、アマゾン熱帯雨林の中でも野生の個体を確認することができる。


 なんといってもココヤシは非常に有益な植物なのである。実一つをとってみても、繊維状の果肉部分は加工後にタワシとして活用されるし、また硬い種子の内側には、栄養満点のココナッツジュースやそれを固形にしたような可食部が存在している。


 種子自体はハンドボールより一回り小さいていどで、種という言葉からイメージされるよりかは少々、大袈裟に感じられる造形を有している。つまり、それだけボリュームたっぷりの食糧になるということだ。


 実の個体差や成熟度合にもよるが、種子一つから採れるジュースの量は平均して約一リットルにも及ぶ。水分だけでなくカロリーやビタミン、糖分、ミネラルまで含んだ非常に優秀な栄養源だ。


 それだけ優秀で使い出のある果実がなんと、成木一本あたり年間で四十個から八十個も採取できるというのだから驚きである。


 また、有効に活用できる箇所は果実以外にも多分に存在している。なかでも、木の幹が材木になるというのはイメージがしやすいところだろう。家屋の建築に際して利用されたり、あるいは家具の材料として用いられたりするのである。


 同様に葉や茎の部分も、家の屋根を葺く、編み込んでかごを作る、乾燥させて燃料にするといったふうに、実に多様な使い方をされている。


 この点においては、ココヤシの木全体が備える巨大なスケール感というものが、その有用性をいっそうに高めているとも言える。樹高は高いもので三〇メートルほどにもなるし、また葉っぱだけを見ても、一枚が四メートルから六メートルもの長さを誇っているのだ。


 ただ、そうした背の高さの割には樹幹は細く、通常の場合直径で三〇センチていどにしかならない。


 そのうえ葉と果実とは幹の最上部に密集して生えるため、樹木全体のシルエットは非常にスマートな印象を与えるものである。四方八方に葉を伸ばす頭の部分を除き、ひょろりと細長い形状だ。


 またココヤシに限った話ではないが、一部のヤシの新芽はじかに食すこともできる。


 正確にはヤシの新芽の内側の部分なのであるが、これはハート・オブ・パーム、あるいはパルミットと呼ばれるもので、生でも加熱しても食べられるなんとも便利な食材である。栄養面という意味では、炭水化物を含むのがうれしいところだ。


 以上のことを踏まえれば、食料としても建築材としても頼りになるココヤシという植物は、極めて心強いサバイバルの味方であると結論づけることができるだろう。


 ゆえに、その重要な「助っ人」の存在を自らの視界の中に認めたときのサムの喜びようというものは、まさに有頂天とでも形容すべきほどの様相を呈していた。


 このときサムは、相も変わらず浅い川の中で横になっていたのだが、そこから見える木々のうちにココヤシの影を認めた途端、彼は即座に地面にひざまずいて両手を組み、はるか頭上の天空に向かって深い感謝の念を捧げはじめた。これぞまさに天の助けだ。冒険家サム・モーティマーの命をつなぐ、希望の光そのものだ。


 その後、彼はほどよく冷えた身体を水からあげると、岸に投げ捨ててあった衣服へと急ぎ手を伸ばした。



 結論から言えば、そのココヤシはココヤシではなかった。いかにもそれらしい背の高い木の根もとへとたどり着き、近くに実が落ちていないかと探すうちにサムは気がついた。この木はババスだ、と。


 ババスはココヤシと同様、細長いシルエットをもつヤシの木の一種である。


 が、こと果実という点においては、この両者は完全に別物なのである。ババスの実はココナッツに比べてかなり小さく、より密集して木になる。たとえるならちょうどバナナのように、小さな実が寄り集まって巨大な房を形成するのだ。


 サムは、ババスの実や種がどう利用されているのか詳しくは知らなかった。洗剤やスキンケア用品に加工されるとかいう話を耳にした覚えがあるが、その記憶も確かではない。


(もしもこのさき日焼けで困ったら、このババスを思い出すとする……か?)


 彼はとにかくそう考えた。そうするより仕方がなかったからだ。


 ココナッツに対する期待が外れたことには違いないが、ともあれババスにも葉はある。シェルターの材料になりそうな立派な葉が、だ。


 幸いにしてトゲの心配をする必要はなさそうだった。一見して無害に見えるヤシの木にも、種類によっては鋭いトゲが備わっている場合があるのだ。


 くわえてもう一つ幸いなのは、このときサムの近くに手ごろな樹高の個体が存在していたということだった。葉の集中する幹の上部まで充分に手が届く高さである。棒か何かで叩いてやれば、比較的簡単に葉の軸を折ることができるはずだ。


 また、その個体の根本には、枯れた状態の落葉がいくつか散らばっているのが確認できた。こちらはしっかりと乾燥させて、焚き火の燃料にするのがいいだろう。


 サムは空を見上げた。日はすでにかなり傾きかけている。察するに、あと二時間ほどで日没を迎えるかという雰囲気だ。


 夜までに寝床と火の両方を確保しておきたかったが、どうもそれは不可能らしい。少なくとも、今のサムが備える技術と道具では。


 こうなれば二者択一だ。火か、それともシェルターか。どちらかを優先させなければならない。


 彼はやや時間をかけてじっくりと悩み抜いたすえ、ようやく決断をくだした。


(まずは雨風をしのぐ屋根がいる。火を守るためにもだ)


 サムがこのジャングルに足を踏み入れてからというもの、予期した以上の好天に恵まれていたのは事実だ。


 とはいうものの、そうした幸運をいつまでもアテにしてはいられない。今夜にでも長雨が降り出さないとは限らないのだ。


 いくら灼熱の熱帯雨林といえど、夜間ともなると二五度ていどまで気温は下がる。そのくらいなら薄手のシャツ一枚でも過ごせないことはなかろうが、しかしこと雨天となると、これがまた話が変わってくる。体表面が水で濡れている状態では、通常時と比べ二十五倍もの速度で体温が失われてしまうのだ。


 さらに言うなら、気温というものは現在位置の標高や天候のいかんによって数値が大きく変動するものである。今現在、自分がどこにいるのかさえ判然としないサムにとってみれば、風雨への対策を優先するのは当然の選択だとも思われた。


 そうと決まれば善は急げ。このときサムの頭の中には、三つの作業行程が同時に思い浮かんでいた。寝床を置くのに適した場所を見つけることと、寝床を作るための材料を揃えること、それから、用意した材料を実際に組み合わせることだ。



 まず最初に場所選びであるが、これにはいくつかのポイントがある。重要なのは上下左右の全方位に気を配るということだ。上は落石と倒木、左右は強風、下は増水や獣道。避けねばならない事象は多岐に渡る。無論のこと、それらの条件すべてを満たす空間はそう簡単に見つかるものではない。


 ゆえにサムは、このさい少々の不満には目をつぶることにした。どうせそう長くはここに留まるつもりもないのである。


 この密林から無事に生還するためには、なによりも入念な計画というものが肝要だ。


 その考え方自体に間違いはないが、さりとてあまり考え事ばかりに時間を割くというのは、それはそれで望ましいことではないのである。人間の体力が有限であるかぎり、時間もまた有限であるからだ。


 こと現在のサムのように、他者による救援を望めない状況下に置かれた場合、先の見通しもなくひとところに留まる時間的余裕というのは、せいぜいが一日か二日といったところだろう。要するに、寝床はその間だけもてばいいのである。


 その簡易的な寝床を設置するのに適した場所を探すため、サムは森の中へと分け入った。


 例の小川を離れ、いくらか道なき道を進んだのち彼はようやく、それらしい成木が二本、並び立っているところに出くわした。


 幹が太く、かつ枯れてもいない二本の生木。少々の風ではビクともしない粘り強さ。これは上手く利用できそうだぞ、とサムはひとりほくそ笑んだ。


 喜ばしいことに、周囲の環境もそう悪いようには見えなかった。水場との距離は適当に離れているし、また高度もこちらのほうが高いため、雨天時の増水に巻き込まれる心配がない。作業の邪魔になるような下草もなく、間に合わせのシェルターを建てるには充分な空間が確保されていた。


 ただ一点だけ、気にかかるのは、その空間のすぐ真横に、幅三〇センチメートルほどの小道が見えることだった。もしかすると、この道は何かしらの動物が行き来するうちにできたものかもしれない。


 ペッカリー(野ブタ)だろうが鹿だろうがジャガーだろうが、野生の動物は等しく危険だ。ここで一夜を明かすつもりなら、夜を徹して警戒にあたるべきだろう。ひとまず、獣除けの火を手に入れるまでは。



 場所が決まれば次は材料だ。といっても、三六〇度全方位を植物に囲まれたジャングルの中にあっては、資材に困るということはほとんどない。


 柱の部分は折れた木の幹を拾って賄えばいいし、骨組みの材料としては折り取った若木などが利用できる。同様にそれらを固定するための縄というのは、植物のツルや繊維の強い樹皮等々で代用が可能だ。屋根の材料には先述のとおりババスの葉が使えるだろう。


 そうなると、残るは地面に敷くマット代わりの床材であるが、これもまたババスの葉で充分に間に合うはずだ。乾いた葉を何層にも重ねた上で寝れば、身体と地面とが直接に触れるのを防ぐことができる。


 柱や屋根といったものに比べればいくぶん地味な印象があるかもしれないが、この床の工夫があるとないとでは断然、保温効果に差が出てくる。作業は手抜かりなく行うべきだ。


 ところで、以上に挙げたような資材を調達、加工する際、必ずと言っていいほど必要になる装備というものがある。


 それが何かといえば、ずばり刃物だ。斧。ククリ。ナタ。ナイフ。種別や名前というのはどうあれ、物に切れ込みを入れたり、繊維に逆らうかたちで植物を断ち切るような場合には、なんといっても刃の助けが必要不可欠だ。人間の歯や爪を頼るにも限度がある。


 この手の探し物は手間取るときにはとことん手間取るものだが、サム自身もいずれナイフが必要になるだろうことは重々承知していたため、それなりていどのものはすでに用意してあった。これまでの道行きのなかで、手のひら大のへき玉を発見していのだ。


 この鉱物は石英に類するものであり、上手くかち割ってやれば鋭利なふちを作り出すことができる。そうやって扱いやすくした石のナイフを、サムは前もって準備しておいた。あとは、この道具の力を存分に発揮させてやるだけだ。


 長く続く好天が幸いしたか、材料集めはほどなく完了した。所要時間は体感で一時間ほど。ということは、日没まで残り約一時間だ。


 この次は大急ぎで組み立てを行わなければならない。もはや日没には間に合わないかという公算が大きかったが、だからといって何もしないというのはやはり不味い。


 たとえシェルターの完成が明日以降になろうとも、日が暮れる前に可能な限り作業を進めておきたかった。それに正直なところ、サムとしても「あわよくば」という期待がないわけではなかった。


――強度や完成度にこだわらず簡単な構造のシェルターを目指すのであれば、たとえ一時間でもそれなりのものは出来上がるのではないか。


 そういう類の淡い期待が、このときサムを突き動かす何よりのパワーとなっていた。


 朝から固形物を口にしておらず、思うように手足が動かせない。されど、そうそう休んでばかりもいられない。そういった状況下では、明るい見通しこそが唯一無二の動力源となる。


 裏を返せば、あまりの空腹と消耗とに精神をやられ、前向きな考え方の一つもできなくなってしまったときこそ、本当の危機と言えるのである。



 ここはひとつ建設的にいこう。気分のうえでも実働においても〝建設〟的にだ。


 手っ取り早くやるなら「差し掛けシェルター」がいいだろう。これは丈夫な野生の木をそのまま柱として利用するという手法で、安定感のある基地を速やかに建てられるのが利点である。


 反対にこの方法の欠点としては、ちょうどいい具合に並び立つ二本以上の生木を見つけなければならないという点が挙げられるが、現状のサムの場合このポイントはすでに解決済みである。獣道に対する妥協の代価だ。


 建設の手順はシンプルだ。まず、隣り合って立つ二本一対の木に対し、橋を架けるような形で横木を固定する。縄で固く括りつけるか、もしくは支柱で支えるかというのが基本形である。


 この横木が屋根の頂点、すなわち棟になる。この部分に屋根材の重みが集中することになるので、横木はなるべく丈夫な材料を用いるのがいい。この際の高さというのは、シェルター内で横になったり座ったりすることを念頭に置きながら、さらに屋根の骨組みとなる素材や、横木を固定する支柱の長さなどに合わせて調節をしておく。


 次に屋根であるが、差し掛け式の場合はこの屋根が壁も兼用する。よって、ここでは風向きというのが重要になってくる。


 この屋根兼、壁は基本的に一面しか作らないため、この面をしっかりと風上に置いておかないと風雨を防ぐという役目を果たせなくなってしまう。とはいえ、棟の角度が限られている以上、この部分に拘るのはほどほどに、だ。


 屋根の骨組みは横木に立てかけるかたちで組み立てていく。細身の枝を横一列に並べ、あるていど大雑把に壁面を構成する感覚だ。


 ここで高さを欲張ると地面に対する角度が急になり過ぎるため、シェルター内の奥行きがなくなってしまう。


 かといって面を寝かせ過ぎれば、今度は雨水が溜まる原因となりかねない。


 差しあたりは四五度を目安にしておくと無難である。また、立てかけるだけでは不安な場合には、横木と骨組みとを縛りつけるなどしておく。


 続いて屋根の仕上げだが、ここでは骨組みに葉を被せていくのが主な作業工程となる。サムは今回ヤシの葉を利用したが、こうした大きな葉が周囲にない場合、骨組みの密度を高めたうえで落ち葉を被せるというのが手軽でいい。この方法でも、必要充分な断熱効果を生み出すことができるはずだ。


 そうして柱と屋根と壁とが揃えば、残す作業は床面のみ。といっても作業自体は極めて単純で、マットレス代わりの素材を重ねて敷き詰めるのみである。


 このていどのことなら目をつぶっていても仕損じることはないだろう。実際、サムは日没直後の暗闇の中、ほとんど視界がきかないという状況で見事、寝床を完成させた。


 出来上がったばかりのシェルターに身体を横たえると、サムは深く長く息を吐いた。目が回るほど腹が減っていたし、身体中が汗まみれで気分が悪かったが、はっきり言ってそれどころではないていどには疲労困憊だった。


 たとえ今ここにまともな食事とシャワーとが存在していたとしても、彼はひとまずの休息を優先していたに違いない。頭を持ち上げて座るだけの元気さえ残されていなかった。


 日は三、四十分も前に暮れていた。夜の訪れとともに、熱帯雨林は真っ黒い単独の塊へと姿を変えた。高く響く虫たちの声にまぎれて、獣たちの押し殺した息遣いが聞こえてくるかのようだった。


 敷いた葉の上に寝ているからか、半袖のシャツから伸びる二の腕の一部に、ちくちくとくすぐったいような痛みがあった。サムは念のためその部分を目視であらためようとした。


 ところが、それが叶わない。光源になるものが何もないうえに、夜空を埋め尽くさんばかりの眩い星明かりもまた、夕刻に組み上がったばかりの屋根によって遮られていたからだ。


 瞼を開いていても閉じていてもさほど違いはない。それほどまでに暗かった。

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