6


 テント内部の様子がいつもと違っていたので、サムは驚いた。いつもの朝よりもずっと明るかったのだ。


 というのも、調査二日目の明け方から昨朝までのうち、合計で三度あった起床の瞬間が、すべて夜明け前の出来事であったからだ。


 ところが今朝はすっかり寝過ごしてしまった。どうやら、昨晩の彼は想像以上に深い眠りに落ちていたらしい。正直に言えばもう少し横になっていたい気分ではあったが、そんな贅沢を言っていられるような状況でないのは考えるまでもなく明らかだった。


 ただでさえ当初の計画より進行がもたついているのだ。この大事な五日目のスタートを、ただ漫然と遅らせてしまうわけにはいかない。


「さあ……さっさと起き上がるんだサム、お前はなんのためにここにいるんだ?」


 そうぼそぼそと呟きながら、彼は自分自身にハッパをかけた。


 ただ単にゆっくりと寝ていたいだけならば、自宅から出なければいいだけの話ではないか。わざわざ人里離れたアマゾンの奥地にまでやって来て、二度寝三度寝と惰眠をむさぼるような真似は許されない。


「目的があってここに来たんだ、そうだろう? だったら、ぐずぐずしてないで――」


 と、そこまで口にしたところで、彼はぎくりとして身を固くした。両目をテントの天井に釘づけにされたような格好で、静かに耳をそばだてる。


(いや、きっと聞き違えだろう)


 などというふうに考えるのは、そうであって欲しいという願望からくることだった。


 が、その直後、サムが最前に聞き取ったものと同様の不吉な音色が、寸分違わぬ調子で繰り返された。まるで、「聞き間違いなどでは絶対にありえないぞ」と念を押すかのように。


 サー、マー、ウー、ヤー。リズムと節のついた歌声。恐怖の記憶を呼び覚ます音声の集合体。


(ヤツが追ってきたんだ!)


 サムはただちにひとりの人間を姿を思い浮かべた。一昨日の午後、サムを強襲したくだんの射手の姿をだ。


 マズい事態だというのは言うまでもないとして、しからばいったいどうするべきか?


 逃げるのか撃退するのか、はたまたいっそのこと話し合いでも試みてみるか。実際の時間にしてほんの一、二秒ほどのあいだに、サムの思考回路は目まぐるしい速度で働いた。


 結果、この状況でとるべき行動は一つしかあるまいと彼は決断を下した。


 仰向けの状態から素早く身体を捻り、テントのファスナーに指をかける。そうして出入口を開放するや否や、彼は取るものも取り敢えず猛然と外に飛び出した。


 結局のところ今現在のサムには、相手に対抗するための強力な武器も、また相手を説得するための手立てというものも、いずれも残されてはいないのだ。


 そうした状況下にあって、おそらくはこちらに敵意を向けてくるであろう武装した人間と対峙するような可能性がある場合、その対応の仕方というのは限られている。とにかく全力で逃げるよりしようがない。


 周囲環境のいかんによっては下手に身動きせず状況を観察するという手段も有効ではあるものの、生憎と、このときサムが使用していたテントは明るい蛍光色という仕立てであった。そんなものが隠れ場所に適しているとは到底、考えられない。


 ゆえに彼は起き抜けの身体を押して、青々とした茂みの列に突っ込んでいった。頭上の枝葉から零れる強烈な日光が、彼の行く手にくっきりとした陰影を浮かび上がらせる。じっとしていても汗が滲む暑さだ。


 起床直後の乾いた口が、荒い呼吸のせいでひりひりと痛んだ。


 目覚めてから一口の水も飲まずに走ったからか軽度の脱水症があらわれていた。頭痛がするし目まいもある。考えが上手くまとまらない。それとも、頭が働かないのは恐怖心のためだろうか。


 どうあれ、それは今この瞬間に考えるべきことではない。まずは当面の最優先事項に専念すべきだろう。すなわち、こちらの命を狙う敵の刺客から、なんとしてでも無事に逃げおおせることだ。


 その後いくらかの距離を直線状に走ったところで、サムは手近な大木の陰に身を隠した。そのまま呼吸を整えつつ耳を澄ます。例の歌声の大小や響き方などから、相手のおおよその位置を推し量らんとしたのだ。察するに、どうやら少々の距離は稼げたようだった。


 それは単なる掛け声なのか、それとも何かの合図なのか、はたまた誰かへの呼びかけなのか。


 その間延びしたワンフレーズがどういう意図から発せられているのかというのは、言わずもがな見当がつかなかった。判断材料の不足もはなはだしいといったところである。


 どうあれこの疑問というのもまた、現状のサムにとっては無視を決め込むべき事柄には違いなかった。


 そのとき、肺が痛むほどの緊張感が充満する森の中に、またしても射手の雄叫びが響き渡った。今度のはかなり小さく聞こえた。それに、音自体も幾分かくぐもった調子である。音の発生源とサムとの距離が、最前よりもさらに遠のいているのだ。


 相手方はこちらの姿を見失ったのだろうか。あるいは、そもそも相手はサムの存在に気がついていなかったのかもしれない。


 その場合にはまたずいぶんとひどく取り越し苦労をしたということになるが、それならそれでかまわない。この場をアクシデントなくやり過ごせるのなら、それだけで充分、御の字だ。


 ともあれこれでやっと落ち着いて物事が考えられる。サムは安堵の息を吐いた。胸の奥がすっと軽くなり、呼吸が楽になる。頭痛も少しはマシになった。


 されどここで一段落とはいかなかった。というのも、彼が平常心を取り戻したそのすぐ後に、今度はまた別の不安が首をもたげてきたからだ。


(まさかあいつ、おれの荷物が狙いだったんじゃあるまいな?)


 サムは己の身なりを確かめた。上は薄手のアンダーシャツに、とっさに引っ掴んだハードシェルジャケットを被せた状態。下は撥水性の高いトレッキングパンツとブーツと、あとは下着やら靴下やらといった調子である。


 ジャケットには防水ライターなどいくつかの道具が収納されてはいるものの、荷の大部分はバックパックの中か、もしくはその表面に括りつけるかたちで保管してあった。無論、食料や飲料水といった生活必需品も含めてだ。


 資材と寝床を失ってはもはや調査どころではない。そうなれば生きて人里に帰ることすら危うくなってしまう。


(こいつは不味いぞ)


 急ぎテントに戻らねばならない。それはたしかにリスクを伴う行為ではあったものの、せめて遠巻きに様子をあらためでもしない限りにはほかの行動には移れない。それほどに物資は大事なのである。


 そしてもし可能であれば、さっさと荷物を回収しすぐさま一帯を離れるべきだろう。


 ありがたいことに例の追手らしき男はいっそうに遠ざかっているような気配だった。行動を起こすなら今がチャンスだ。サムは最後にもう一度大きく呼気を吐き出すと、緊急避難所たる木陰から身を乗り出した。


 直後、突然の衝撃がサムの胴体部分を襲った。


 身長一八五センチメートル、体重八五キログラムを誇る屈強な肉体が、闇雲なまでの力を受けて地面に薙ぎ倒される。


 完全に虚を突かれた。そのとき我が身に何が起こったのか、彼も瞬時には理解することができなかった。


 仰向けになったサムの視界の内側に、のそりと動く物体が映り込む。人影だ。それも、握り拳を振り上げた男の姿だ。


(やられる!)


 鋭い危機感が全身の神経を駆け巡る。その電気信号に劣らぬほどの素早さで、サムはさっと身をひるがえした。上半身をよじる勢いそのままに立ち上がり、両拳を身体の前方で構える。


 そうして彼が態勢を立て直すが早いか、敵の振り下ろした拳が土の地面に突き刺さった。直前までサムの顔面が存在した位置だ。紛れもなく、相手は明確な攻撃の意志をもって行動をしていた。


 向こうがそういう出方をするなら、こちらとて容赦などする必要はない。サムは襲撃者の詳細をあらためるよりさきに、とにかく反撃に打って出ることにした。


 狙いすましたパンチを見事、敵のあごに命中させると、続けざまに硬いブーツの底を腹部にめり込ませる。今度はそっちが地面に転がる番だぜ、とサムは心の中で毒づいた。


 襲撃者は小柄な男だった。顔かたちのつくりや雰囲気、また腰布と装飾品のみといった出で立ちから察するに、その正体が現地の先住民であるということは、どうやら間違いなさそうだった。


 ただ一つ気掛かりだったのは、この男が身に着けている服飾の様式というものが、サムの知る限りいかなる資料にも記載されていないものだったということだ。いわゆる、「未接触部族」と呼ばれる者たちの一派なのかもしれない。


 思わぬ反撃に戦意を喪失したのか、今や敵の男は怯えた表情すら浮かべて見せていた。


 対するサムはしかし、なおも戦いの構えを崩さなかった。相手方の真意がわからない以上、そう簡単に気を抜くことはできないのだ。


 そういう心構えが功を奏したか、サムはその後に続く出来事を第六感的に察知し、即座に反応してみせた。そのとき彼自身の背後に迫っていた新手の気配を、敵が不意打ちを繰り出すよりもさきに感じ取ったのだ。


 意外なことにというべきか、この新手の男もまた、何の道具も持たず素手の状態でサムに向かって飛び掛かってきた。


 どういう目的からそうしているのかは不明だが、ともあれ弓矢なり石槍なりというような手っ取り早い手段を取るつもりは、この襲撃者たちにはないようだ。当然ながらこれはサムにとって好都合なことだった。なんといっても腕力には自信がある。殴り合いで決着をつけようというのなら、それこそ望むところというものだ。


 どうやら新手の男は体あたりを試みるつもりであるらしかった。頭を下げ、姿勢を低く保った態勢で、肩口から標的にぶちあたる。ちょうどフットボールのタックルに似た動きである。


 この手のスピードと体重の乗った痛烈な一撃には、往々にして被害者をたやすく打ち倒すだけの威力というものが含まれている。つまり、サムにとっては「どうあってもあたるわけにはいかない」ということだ。


 彼は敵の足さばきを注視し、男が強く踏み込むタイミングを見極めた。


 直後に訪れたそのタイミング、相手の重心が下がった一瞬に息を合わせ、サムは大きく一歩分、飛び退いた。


 ぶつかる対象を失ったタックルが空を切る。新手の男はつんのめって地面に両膝を突いた。


 そうして体勢を崩した相手に目掛けて、サムは右の拳を一息に振り下ろした。相手もなかなかに身軽なようだが、このカウンターは避けられまい。案に違わずといったところか、サムの右フックは華麗に標的をとらえた。


 二人目の襲撃者がよろよろとその場に倒れ込む。気絶したのか、それとも立ち上がれないだけか、いずれにせよ確かめるような暇はない。


 というのも、そのときまたしても、サムの身体を不意な衝撃が襲ったからだ。肩甲骨から背骨にかけて、胴体を丸々痺れさせるほどのショックが束の間に駆け巡る。


 思わず崩れ落ちそうになるのをどうにかこらえつつ、サムはすぐに自身の背面へと視線を向けた。


 するとそこには、柄の長い棍棒を携えた一人の男の姿があった。どうやら、直前の痛みはこの武器によって生み出されたものらしい。なるほど今度は三人目か。


 いや、違う。険しい目で余所者を睨みつけるその戦士の左右には、このときさらなる増援の影が控えていた。四人目と五人目。あるいは、より大勢のうちの一部が、だ。


 今や窮地に立たされた孤独な冒険家と、一人ひとりがそれぞれに戦意をみなぎらせた戦士らの一団。両者の視線がぶつかるや否や、不可視の火花が中空を飛び交った。その瞬間、敵方のうちの一人が唐突に大声を張り上げた。サーマーウーヤー。例の意味不明な言葉だ。


(なんてこった!)


 気づいたときにはすでに手遅れ。サムは完全に包囲されていた。


 その事実を把握できたのはほかでもない、今しがた男が発した謎の言葉が、それが響き終わるか終わらないかのうちに、十数倍もの厚みを伴って繰り返されたがゆえのことだった。


 不気味な音色の大合唱。気候の蒸し暑さとはまったく性質を異にした、異様な熱気に満ち満ちた雄叫びの渦巻き。反響。


 サムは完璧なまでに混乱していた。目の前の現実を受け止めることができなかった。このとき自分の身にどういう種類の危機が迫っていたのかにすら、正確には理解が及ばなかった。


 ただ唯一間違いないのは、いくらタフネスが売りの冒険家といえども、二十人近い人数を相手取って大立ち回りはできないということだ。


 急激な吐き気がサムを襲う。おそらく、起床直後の全力疾走とそれに続く格闘の影響が現れはじめたのだろう。運動の熱気と高温多湿の気候とが組み合わさったむせ返るほどの暑気というものに、身体の排熱が間に合わないのだ。


 が、そうした状態にあるにもかかわらず、背筋がぞっとするような寒気もまた、そこには同時に存在していた。


 大粒の冷や汗がとめどなくサムの額を流れ落ちる。肉体と精神の働きとがまるで噛み合わない。


(なんとかして逃げ出すんだ、何か……なんでもいい、とにかく作戦を――)


 彼の必死の思索はしかし功を奏することはなかった。今一度サムの身を脅かした強烈な打撃が、彼の思考を霧散させたのだ。


 またしても背後からの一発だった。直前の一撃とそっくりそのまま同じ種類の害意が、彼の背部に新鮮な傷を作り出す。これで、手が届く範囲だけでも四人もの相手に取り囲まれているのは確実となった。


 さすがのサムも今度ばかりは膝を折った。物理的なダメージもさることながら、それ以上に内面の動揺が痛かった。


「獲物」が弱ったと見て取るや、どこまでも冷徹な男らのうちの二人が、すかさずサムの両腕を捕らえた。生け捕りにしようという算段なのかもしれない。


 そうはさせじとサムは気力を振り絞り、捕らえられた状態の右腕を力づくに振り解くと、続けて近くにいた敵の顔面に肘鉄を食らわせた。


 が、半端な姿勢から繰り出したからだろう、その打撃にはまるで手応えが感じられなかった。


 そうしてついに、サムは地面に組み伏せられてしまった。抵抗も空しくとはまさにこういうことだ。それでもなお必死に歯を食いしばり、目に闘志を浮かべはするものの、こう多勢に無勢では手も足も出ない。


 ついで彼は、自身の背中側で両手が拘束されるのを感じ取った。どうも縄で縛られたような感触だ。そのまま今度は力づくに身体を引き起こされ、落ち葉の折り重なった地面にひざまずかされる格好となった。


 気がつくと、眼前に誰かの顔があった。


 頬から顎にかけて肉の削がれたかのような、極端に細い面長な顔立ちである。煤で化粧をしているのだろうか、顔一面が夜の闇にも似た漆黒の色に染まっている。立体感を損なうほどの黒さだ。その造形の中心からやや上のほうでは、黄色く濁った白目と色素の薄い虹彩とが、この静かな男の双眸を形作っていた。


(はじめて見る顔だ)


 とサムは思った。実際に初対面かどうかは別として、記憶に残っている人相ではない。


 ゆえに、これはあて推量でしかないことだが、おそらくこの「煤化粧の男」こそが襲撃者一派のリーダーなのではないかと、サムはそういうふうに考えた。周囲の男たちが熱狂的な合唱を続けるなか、ただ一人適切な冷静さを保持し続けているこの人物の態度というものには、いかにも指導者然とした風格があったのだ。


 知性を感じさせる鋭い視線。固く引き結ばれた口もと。乱れ一つない呼吸。その表情がサムに訴えかけるのは、純然たる秩序そのものだった。


(もしかすると話が通じるのではないか?) 


 細い希望がサムの胸中にひらめく。交渉しだいではあるが、我々はもしや歩み寄ることができるのでは? 


 そういうサムの期待を察したか否か、ともあれ煤化粧の男はおもむろに口を開いた。その白目と同じ色相を見せる黄色い歯が、音の動きに合わせて上下する。


「アア、エレネべ、サーマ」


 やはり、それらの言葉の意味するところはわからなかった。サムがこれまでに見聞きしたどの言語とも、単語なり語彙なりといったものが符合しないのだ。


 こうなると何を言われてもサムとしては困惑するより仕方がない。サムはなんらまともな受け答えもできないまま、ただひたすらに渋面を作るばかりだった。


 想像するに決して望みどおりの反応を返してはいないはずなのだが、しかし煤化粧の男は満足げな様子を見せていた。その顔に微笑を浮かべつつ、二度三度と頷くような仕草を繰り返す。


 そうしてから、男は彼自身の右手をサムに向かって差し向けた。手の平に何かが握り込まれているようだった。


 やがて開かれた男の手の上には、黒色の粒が三つ乗せられているのが見えた。大きさは直径にして五ミリほど。ちょうど、薬やサプリメントの錠剤と似通った雰囲気の物体である。


 そうして手を差し出したままの格好で、男は言う。


「イリ、サーマ、イリ」


「ちょっと待った、待ってくれ、何を言っているのかわからないんだ。それはなんだ? あんたはおれに何を望んでいるんだ?」


 とっさのことに母国語の英語が口をついて出たが、通じるとは思えなかった。地域や国境を踏まえた位置から鑑みるに、まだスペイン語かポルトガル語のほうがチャンスがあったかもしれない。


 ひととおりサムが言い終わるのを待ってから、煤化粧の男は事を次の段階へと進ませた。肩と腰とを中心にした小さく、かつ鋭い動きで、サムのみぞおちに左拳をめり込ませたのだ。


 胴に加わえられた衝撃力はほどなく重みに変貌し、やがてすぐに痛みへと移り変わった。胃腸を鷲掴みにされ、むちゃくちゃに捻り上げられるかのような激痛だ。横隔膜が変調をきたしたか、必要最低限の呼吸すらままないようなありさまだった。


 酸素を求め大きく開かれたサムの口に、煤化粧の男が例の黒い粒を押し込む。


 その物体を無理にでも飲み込ませようというのだろう、続けざま、木製の管に入った液体がサムの口腔内に見舞われた。


 すると、物の味など到底わかるような状態でないにもかかわらず、サムはたしかな苦味というもの己の舌に感じ取った。舌のつけ根がぐっと締まるほどに強く、嫌味のある青臭さが喉の内側を通り抜ける。


 いったい何を飲まされたのか、と至極当然な疑問が脳裏に浮かんだが、その問いをじかに口にすることはついぞ叶わなかった。サムの身体に現れた次なる変化が、彼の発声を妨げたからだ。


 その変化とはつまり、「冷え」と「睡魔」というものだった。今にも震え上がらんばかりの寒気と、瞼に感じる鉛のごとき重さ。どうやら、なんらかの薬物を摂取させられたのは間違いないようだ。


 この状況で眠りに落ちれば、十中八九命を落とすことになるだろう。よくて虜囚か、悪ければ眠ったままお陀仏だ。


 ただ、こうした場合のよし悪しというのは必ずしも一定であるとは限らない。なぜならば、どうせ同じ死ぬのであれば、眠ったまま命を落とすほうがよっぽど楽な場合もあるからだ。


 さはあれど、その事実はサムにとって諦念の理由というのにはなり得なかった。彼は自らの口内を噛んでみたり、頭を強く振ったりという具合にいくつかの方法で抵抗を試みたものの、やはり化学反応の力には敵わない。


 結局、服薬からものの十秒と立たないうちに彼は意識をもうろうとさせはじめた。


 事物に対する理解力が急激に低下していくなか、またしても煤化粧の男の声が耳に届く。上手く聞き取ることができない。


「――ダホカ――チャッチャエンデ――」


 いや、たとえしっかり聞き取れたとしても状況は変わらなかったに違いない。どうせ理解などできやしないのだ。


 サムは口をもごもごと動かしつつ抗議の言葉を探したが、やはりというべきか言うべきことは何一つ見つけられなかった。


 今や狂乱の大合唱は遥か彼方に聞こえていた。サムの全身が落ち葉に包まれ、そのままずぶずぶと地面に沈み込んでいく。極端に寒く、また極端に暑い。


 そうして最後に、まるで赤子のように身体を小さく丸めると、彼はほどなく意識を失ってしまった。

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