5


 四日目の朝。とかく人類の英知に感謝、完全防水さまさまである。


 リュックの外側に取りつけていた折り畳み式のテントは完全に浸水していたが、これは濡れたからといって使えなくなるような代物ではない。重要なのは食料やいくつかの電子機器のほうだ。


 とくに、GPS専用機と衛星通信用の無線機が無傷だったのは幸運だった。これで万が一の事態に陥った場合にも――場所が場所だけに救援こそ望めないだろうが――最新の遺言を残すチャンスだけはある。


 これは極めて重要なことだ。人生の最後の瞬間を迎えるに際し、そのための心の準備ができるということは。


 かといって、何一つの犠牲もなく済んだというわけにはいかなかった。頼れる仲間、レミントンライフル銃を失ったことは、サムにとっては実際、にわかには受け入れがたい現実であった。


 なお銃以外のところでいうと、ナタの紛失はかなりの痛手となりそうな気配であった。より小回りの利く道具としてナイフは別途、携帯していたが、繁茂する草木を切り払うのに刃渡り一五センチの刃物しかないというのでは、心許ないことこの上ない。


 自然、以後は進路の選択肢が限られてくることになる。迂回すべき箇所は迂回し、どうにか目的地へと近づいていくしかない。


(しかしそうなると――)


 そうなると、問題はこれから先どこを「目的地」と定めるかだ。


 バックパックが目の前に流れ着いていたことから、そうでたらめに長い距離を流されたわけではないはずだ。と、サムはそう踏んでいたのだが、残念ながらその考えはアテが外れていた。


 出発前の計画では、四日目の午前中には〈望みの間〉があるとされる区域に到達し、一帯の本格的な調査を開始する手はずになっていた。


 ところが昨晩、GPS用端末の動作確認を兼ねて参照したデータからすると、サムの現在位置というのは、当初の予定から大きく逸脱してしまっているようだった。地形のいかんにもよるが、丸一くらいの遅れは覚悟すべき距離である。


(進むべきか戻るべきか、それが問題だ)


 功名心と生存本能。言い換えれば、この冒険にかける情熱と、苦痛に呑まれるがあまり今にも悲鳴を上げんばかりの肉体。また、より具体的に示すのなら、このまま調査を続行させるか、はたまたアクシデントを理由に撤退を決定するかだ。


 サムは昨晩、この問題にどういう決着をつけるべきかと、一晩中も思いを巡らせていた。火あかりに揺れるテントの天井を見つめながら。そして眠りに落ちたあとには、その夢の中でさえ。


 しかしそうした思案を巡らせるあいだ、ずっとその事に専念していられたわけではなかった。不意を突いては現れる別種の疑問に、心惑わされずにはいられなかったからだ。


 その疑問とはすなわち、結局のところあの射手はどこの何者だったのかということだ。


 自分ひとりで完結させられる種類の問題でないのはわかっていながらも、やはりどうにも気になって仕方がない。網膜の上をちらつく矢柄の残像が、有無を言わさず彼の集中をかき乱すのだ。


 その拭えぬ憂慮に思索を妨げられつつも、サムは今朝がたになってようやく、どうにか一つの結論に達することができた。


(一日ていどの遅れはなんとかなる。いや、なんとかするのだ、サム・モーティマー)


 順風満帆でないからといって、絶望してしまうにはまだ早すぎるではないか。


 ほどなく地平線から朝日が顔を出し、密林に新しい一日が訪れようとするそのさなか、彼はあらためて出発の準備を整えはじめた。あざだらけの身体に鞭を打ち、ただ黙々と作業を進める。


 そうした後、平時よりややボリュームを増した朝食をたいらげると、彼は遥かなる秘境の奥地を目指し行軍を再開させた。



 案の定というべきか、この午前中は思うようなペースでは進めなかった。


 ただ、それは体力的な消耗に起因することではなかった。むしろ、体調は意外なほどに好調であった。この点については多めの朝食が功を奏したのかもしれない。


 このとき問題となっていたのは、なんといっても道中の自然環境というものだった。開けた道というか、植物の密度が低い場所もないわけではないのだが、たいていの場合はすぐに藪に突きあたる。葉と枝と根が複雑に絡み合った天然の障壁に、行く先々で前進を妨げられるのだ。


 可能なかぎりナイフで対応しようとはするもののやはりナタのようには高い効果を得られず、時折はさほど太さのないような枝にさえ、四苦八苦させられるという体たらくだった。


 こうなると腕や肩に余計な負担がかかるばかりか、精神的なストレスというものも障害になってくる。


 肌にまとわりつくような蒸し暑さのなか、明らかにサイズの足りない刃物のみを頼りに無数のつる草と格闘しなければならないというのは、はっきりいって苦痛以外の何物でもない。


 当日の朝に飽きるほど水浴びをしたばかりだというのに、そろそろ昼食にしようかというころには彼の全身は滂沱たる汗に覆われていた。


(いっそさっきの川辺まで引き返してやろうか)


 などと現実的でない考えを頭の中で弄ぶうち、不意にサムの頭上に大きな変化が現れはじめた。この四日間というものほどほどの好天を保ち続けていたアマゾンの大空が、見る見るうちに灰色の雲で覆い尽くされていく。


 それから間を置かず、大粒の雨が大挙して大地に押し寄せてきた。「ざあざあ降る」というよりかは、それこそ「バチバチと音を立ててぶつかってくる」というほどの勢いである。


 雨粒はその一つひとつがたしかな存在感を感じさせるサイズで、かつ粒同士の感覚も狭かった。下手に顔を天に向けていると、そのまま溺れてしまうのではないかと不安になってくるほどの雨量だ。


 この極端な天候変化はスコールの影響によるものだろうが、それにしても午前中の降雨とはなかなか珍しい出来事である。こうした激しい雨は大抵、昼過ぎや夕刻など午後から発生することが多いのだ。


 サムはとっさに近くの木の陰に逃げ込んだ。周囲には相も変わらず緑が多く、枝ぶりのいい成木がいくつも並び立っている。雨宿りをするのには困らない。


 とはいうものの、折り重なった枝葉に負けるていどの雨ならハナから苦労はないのである。結局、この悪あがきによって得られたのは、「ともあれ雨宿りはした」という自己満足のみだった。


 だがそれでも、何もしないよりかはマシというものなのかもしれない。「滝のような雨」という言い回しがあるが、十分も二十分も滝に打たれていてはそのうちに体調を崩すのも道理である。


 体温の急激な低下や、視界の悪化から生ずるアクシデントなど、そこに潜む危険性は侮れない。


 しかしものは考えようだ。幸いにして冷たい風の吹いていない今、ちょっとしたシャワータイムを楽しむというのも、それはそれで一興なのである。


 サムはバックパックと帽子とを足もとに下ろし、上半身の衣服を残さず脱ぎ去ると、嬉々として驟雨のもとにその身を晒した。するとたちまち、うだるような熱気と汗の不快感とが彼の肌の上から流れ落ちていった。やんわりと痛覚を刺激するリズミカルな水圧が、マッサージにも似た心地のよさを感じさせる。


 ボディウォッシュが恋しくなる感触だ。サムのお気に入りは、海洋ミネラル成分配合のタイプである。


 このタイミングでの大雨が一連の冒険に吉凶どちらの影響を与えるのかは、この時点ではまったく予想がつかなかった。だがいずれにせよ、それがどういうものであれ利用できるものはすべて利用すべきだというのは間違いのないことだ。


 重要なのは平常心。浮かれすぎでは事故のもとになるし、むやみに落ち込んでいては柔軟な判断力が損なわれる。心身ともに均衡の取れた状態を維持するためには、突然のアクシデントをさえ楽しむほどの度量の大きさというのが肝要なのだ。


(とにかく、行けるところまでは行こうじゃないか)


 と、簡単な午後の予定を立てながら、サムは揚々と身支度を整えた。



 その後、無事に雨が止み、簡単な昼食が済み、あらためて午後の計画が整えられたのち、道行きは続行された。


 快調な出だしで迎えた四日目の後半戦、サムは足取りも軽く熱帯雨林に分け入った。今一度、繁茂する植物たちとの大乱闘である。ちぎっては投げちぎっては投げ、だ。


 そうするうち、サムはふとデジャブというものを感じ取った。思い違いでなければ、以前にも今と同様に植物の壁を切り開いていたはずだと、そう感じられたのだ。


 そうした感覚が束の間にひらめいたかと思うと、やがてその直後には、彼は一つの解答にたどり着いていた。わざわざ思い出すまでもない。思えばこの四日間というもの、絶えずこんな調子だったではないか。


 ナタを失くしたせいで余分に手こずるのは事実だが、この四日目の午後になってからいざ思い返してみると、不思議と初日のほうがよほど辛かったように思われた。察するに、彼自身の身体がこの環境に適応しはじめているのだろう。


 どこまで行ってもまとわりついてくる暑さと湿気。野宿のせいか解消されない疲労感。ほとんど常に何かが胃袋に入っているという状態――これは計画的な栄養摂取のためだが。


 そういった種々の負荷に対応すべく、サム・モーティマーは変身しつつあるのだ。


 変身といっても、常識外れなパワーを得るだとか、超能力を使えるようになるだとかいう突拍子もない類の話ではない。今サムの身体に起きている変化というのは、より地道で、より現実的な移行である。


 例を挙げれば、「体内に蓄えられたエネルギー=脂肪を、普段以上に効率的に動力源として消費する」というようなことだ。


 一見、些末なことのようにも感じられるこの兆候を、サムはしかし心から喜んだ。というのもこの手の変調が、常にいい方向へ進んでくれるとは限らないからだ。


 わかりやすい例でいうなら、楽しみのために行った旅行先で運悪く風邪を引く、というような経験をした者も少なくはないだろうが、まさにそういうことである。


 長時間の移動や出先でのアクティビティによって体力を消耗し、免疫力が低下したところに、風邪ウイルスの影響がもろに現れる。これもまた、肉体的な負荷に対する人体の反応、変化の立派な一例である。


 無論、この変化の手綱を握ることこそ職業冒険家の責務には違いないのだが、いくら業界では中堅として認められているサムといえど、そう毎度毎度望む方向の変化を迎えられるわけではない。調査に向かった先で何を経験するのかというのは、蓋を開けてみるまではわからないからだ。


 加えて言うなら、昨日の経験はどれひとつとっても最悪と呼ぶべき部類のものばかりだった。野生動物の襲撃、謎の射手との遭遇、高所からの落下、意識を失うほどの水禍と、たった一日のあいだに四度も命を落としかけたのだ。


 これらの出来事が人間の心身にどういった悪影響を及ぼし、またどういう体調の変化をもたらすかなど、いったい誰に推測ができようか。


 要するに、このときのサムが覚えた手応え、喜びというものは、その辺りの事情に深く根差したものであるのだ。


「乗り越えたぞ!」


 彼はひとり叫んだ。


「見たか! おれはまだ戦える、勝負はここからだ!」


 鬱蒼と生い茂る植物たちの合間合間を、サムの力強い咆哮が駆け巡る。すると、彼が見せたこの興奮に呼応したのだろうか、ホエザルらしきオウオウという低い唸り声や、カラスのそれを柔らかくしたような鳥類の鳴き声といったものが、四方八方から次々に飛び出してきた。


 サム個人としては、対象がサルであれば少しは種類の推定もできるが、鳥類に関してはまったくお手上げといったところである。なにしろこのアマゾン熱帯雨林には約一五〇〇種もの鳥類が生息するといわれているのだ。


 それほど多種の鳴き声を一つ一つ聞き分けろというのは、プロの鳥類学者でもないサムにとっては少々、難しい相談である。


 ともあれ、木々や山肌に反響する音の束など気にも留めず、ザ・ビッグノーズ・モーティマーは前進を続けた。


 今や彼は戦車だった。鋼鉄製のブルドーザーだった。大地を揺るがすエネルギーの塊だった。今や彼は、止まることを知らぬ屈強な男だった。勇猛かつ大胆不敵、何物をも恐れぬ不撓不屈の意思そのものだった。


 頭のてっぺんから手指の一本一本、両足の先端にいたるまで、全身をあますことなく満たした灼熱の高揚感に、彼は進んで自らの自由を明け渡した。



 それから少々の時を経た夜のこと。その日のうちに終わらせるべきことをすべて片づけ、テントの中で横になる段になっても、まだサムの神経は昂ったままだった。


 就寝のために継続的に目を閉じはすれども、その瞼の裏に臨む黒いスクリーンの上に、なんとも形容のしがたい色が浮かんでは消えてまどろみを妨害する。赤とも青とも黒ともつかない不気味な蠢きが、線となり面となり彼の視神経を惑わせていた。


 どうにも寝つけないまま何度も寝返りを繰り返すうち、やがて彼の脳裏に最前の食事の風景がよみがえってきた。この日の夕食は特別に豪華なものにした。せっかく訪れた好調に、水を差したくなかったからだ。


 前菜はローストした野菜である。刻んだパプリカとタマネギに、トウモロコシやマメ類を加えた炒め物だ。甘みのある野菜のダシと塩気とがバランスよくまとまっており、食べれば食べるほど、ますます食欲を掻き立てられるような具合である。


 続いてメインは牛肉と豆を使ったチリ・マカロニ。いかにもトマトベースらしい軽くさわやかな甘酸っぱさが、噛み心地のいい牛肉の繊維質や、ボリュームたっぷりのマカロニと絶妙なコンビネーションで舌を喜ばせてくれる。胃袋にしっかりと溜まる満足感もうれしい、長旅で疲れた身体にはこたえられらない一品だ。


 そして食後のひと時に欠かせないのが、甘い甘いデザートだ。目にも鮮やかなベリーの盛り合わせとクッキーサンド・アイスクリーム。老若男女、誰からも愛される一皿。シンプルかつストレートな至福の結晶。


 無論、言うまでもないことだが、以上はもれなくフリーズドライ食品である。


 そうする必要があれば湯で戻し、逆に乾燥状態のまま食すべきものは、当然そのまま食す。


 作り立ての風味だとか、暑気を払うような冷感などは期待できない。とはいうものの、秘境アマゾンの奥地でこれだけのメニューを楽しめるというのであれば、文句などただの一つも浮かんでこようはずがない。常温だろうとなんだろうと、クッキーサンド・アイスクリームは旨いのだ。


 実際、食事から三時間ほどが経過し、寝つけぬ夜に少々の不安を覚えはじめたころになっても、サムの満足感はなお高いレベルを維持し続けていた。糖類万歳だ。


 現状、調査の進行状況は極めて順調で、昨日の遅れも少しは挽回しつつあった。明日以降もこのペースを保つことができるなら、明日の午前中までには目的の地域に到達できる見込みだ。


 食料などの物資もまだ充分に余裕があるし、精神面での好調は言わずもがな。


 また体調の面に関しても、そう悪い状態だというほどのダメージはなかった。左前腕にはジャガーにやられた傷があり、川水に流されたせいで全身がアザだらけではあるものの、それにしては痛みもなく、各部の関節もスムーズな動きを見せている。


 たしかに最高とはいえないが、されど最悪では決してない。


――そうだ、明日の昼までには目的地の近くまで行ける。そうしたらさっさと昼食を済ませてしまって、周囲一帯の安全を確かめてから、そのあとは順々に詳しい調査を……。


 徐々に頭の回転が鈍くなる。背中じゅうにじんじんと響く血流の動きを感じながら、サムは心地よい気分でまどろみの世界へと沈み込んでいった。

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