第10話 愛、故に
次いで開かれた箱の中身はフランボワーズ入りの小さなガトーショコラだった。
「良かったですね、普通そうで」
彼女の呟きに返事は無く、穂高は静かに蝶香へと視線を移した。
「ねえ、蝶華さん」
「なんでしょう」
「蝶華さんが良ければ、蝶華さんが次に食べる分を先に指定しておいてもいい?」
「何故?」
「二個食べている間って蝶華さん暇でしょう? お腹も膨らむ一方だから時間稼ぎしているみたいで良くないなって思ってさ。ルール上、後手で食べる相手の分を先に指定するのは問題ないよね」
「まあ、そうですね」
「だからどうかなって」
訝し気な表情で穂高を見る蝶華。いつもと同じく飄々としている様子からは悪意も害意も感じ取れない。
「解りました」
「じゃあ、蝶華さんが次に食べるのはこれで」
淀みなく、躊躇い無く、彼の指が指したのは有名店の包装紙に包まれた小さな箱だった。
「これですか?」
「うん。問題有った?」
「いえ」
心底うんざりした気分だと言えば、状況は変わるのだろうか。
にっこりとわざとらしい笑みを浮かべる目の前の男が今選んだチョコレートは、正しく蝶華が準備した当たりだった。そして、このタイミングで選ぶあたりこの男は端からどれが当たりなのか知っていたのだろう。
「一応聞きますが、貴方の手元にあるそのチョコレートは、貴方が選んだ物ではないですよね?」
「僕がこんなセンスのないチョコレートを選ぶと?」
贈り主に失礼極まりない発言ではあるが、蝶華にとっては最早どうでもいい事だった。
つまりまた、負けてしまったのだ。
「ねえ、蝶華さん」
「何でしょうか」
「僕の勝ちってことでいいよね?」
そうです、とも、ええ、とも蝶華は返さなかった。言葉に出すのは屈辱過ぎて、ただ無言でテーブルの上にレシートを置くのが精一杯だった。
「それで、今年はどんな要求を?」
「簡単だから安心してよ」
昨年は『メイド服を着て一日お世話』一昨年は『チャイナ服を着て中華街デート』、二年前は『バニーガールで一日ドライブ』だった。消せるものなら金を払ってでも消したい記憶である。
「今年はね」
一つ間を置いて、穂高は今日一番の笑顔でこう言った。
『そのチョコを渡しながら僕に告白してよ。とびっきり可愛く』と。
唖然を通り越して脳が抹消されたのではないかと思う程、思考能力が停止する。
どれ程他人の矜持を折れば気が済むのかと問い詰めたい衝動に駆られるが、敗者に意見を撤回させる権限は無いという事実が彼女の言葉を呑み込ませる。
「解りました。少し考える時間を下さい」
唇を噛みしめ、苦渋の表情を浮かべながら蝶華は自室へと撤退する。
穂高はその小さく縮こまった背中を見送ると、無造作にゴミ箱へとフランボワーズのチョコを投げ込んだ。
「いやあ、こればっかりは流石に食べられないよ」
ゴミ箱の中、箱から零れ落ちたポストカードには『私を食べて』の一言。
誰に宛てたものなのか。『ごめんね』と呟いた声が室内に小さな余韻を残す。
(君を飼い殺すよ。愛した人間に裏切られていた過去なんて、君には必要ないからさ)
声にならない言葉は、扉越しの彼女には聞こえはしない。
君を殺すブラウン 鞠吏 茶々丸 @IzahararahazI
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