第3話 過去
記憶に残る婚約者は、八重歯がトレードマークの愛嬌のある可愛らしい人だった。
キャンプが好きだと週末になれば季節関係なく旅に出て、かと思えば記念日のお祝いに始まり、旅先の写真や手土産、連絡を怠らないマメさも持っていた。趣味に没頭しつつも社長としての職務も全うし、年間を通して贈答品は贈られ続け、自宅への人の出入りが絶えない人望の厚さも垣間見てきた。蝶華にとってはこれ以上ないパートナーだった。
『その、さ。頼りないかもしれないけど、俺と――結婚してくれませんか?』
色褪せない記憶。まだ昨日の様に思い出せる光景は、けれどもう二度と来ない。
『——自殺、だそうです。内密の話となりますが、実は経営が傾き始めておりまして。ですがこの度、千神商事と大きな取引があり、社長はこれを機に会社の経営を立て直そうと意気込んでいらっしゃいました。ですが昨晩、この取引が急に無くなりまして――おそらく、それが原因だったのでは、と』
宙を漂う線香の煙と頬を濡らす雨は思い出しても、そう告げた男の容姿も声色も蝶香はもう思い出せなかった。
(行かないと)
塞ぎ込んでしまいそうな記憶との邂逅を振り払うように、一つ頭を振って蝶華は決戦の地へと踵を返した
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