第16話 婚約者


「イムレ様、よかったら紅の森に行ってみませんか?」

夕食時、食堂にはハンナとセバスチャン、タロウ、そしてイムレがいた。今日の晩御飯は、ローストビーフだった。柔らかな肉に、玉ねぎのソースが絡まり、甘辛く味付けされている。

ご飯に舌鼓を打ちながら食事を堪能していたイムレは、目をパチクリさせた。

「え。良いのですか?」

ハンナはにっこりと微笑んだ。

「ええ、もちろんです。毎日見回りをしていますし。明日の朝はどうでしょう。」

「ぜひ、お願いしたいです。」

嬉しそうなイムレの様子にハンナは笑みをこぼした。紅の森と聞けば誰もが恐怖し、嫌厭する。幼馴染みのナディアやジクフリード、ルイスに提案しても嫌な顔されるばかりだった。むしろ三人はロートヴァルトに来ること自体を嫌がっていた。しかし、イムレは違った。魔物と知っても態度を変えず、領民とも仲良くしてくれている。最初こそ傷だらけの不信人物であったが、今となってはこのロートヴァルトに馴染んでいて、何の違和感も感じない。

 そんなイムレならば、と思いハンナは提案したのだ。そして、ハンナの期待通り、イムレは嬉々として提案に乗ってくれた。そんなイムレに、ハンナは喜びを隠せず、顔を赤くして照れるように笑うのだった。

 そんな二人のやり取りを、少し遠くで見ていたセバスチャンとタロウ。

「タロウ殿、いけませんよ。」

セバスチャンは静かにタロウを注意した。

「私には主人に相応しいか見定める義務がありますので。」

「いけません。」

タロウが何と言おうと、セバスチャンは首を縦に振らなかった。タロウは苦虫を噛み潰したようにイムレを睨んだ。

「ジクフリード様の二の舞にはさせたくありません。」

「それは皆思っています。けれどこれはハンナ様が選ぶことです。」

あの日。

楽しそうに出発したハンナは、見るに耐えない姿で戻ってきた。無理して笑顔を作ってみせたハンナに、屋敷の人たちは皆驚愕した。そして、怒りも覚えた。それの記憶はまだ新しく、タロウは沸々と煮えたぎる思いを抱えていた。

 そんなタロウの気持ちも知らず、ハンナは嬉しそうに笑っている。

「……仕方ありませんね。」

ハンナの笑顔に免じて、イムレを見逃してもいいかもしれない。

タロウはそう思うのだった。

ーーそれより気になる事もありますし。



ーーおかしい。

イムレはそう思った。

「ハンナ様、今日は一人じゃないんだね。」

「ええ。こちら、イムレ様。私の客人ですの。」

「ほほう。」

ハンナにはとても穏やかな態度なのに、イムレに向けてくる気配は探るような、下手すると殺気の混じった視線だった。

ーー品定めされている気分だ。

領民達の視線に、イムレは笑って誤魔化すしか出来なかった。いつもなら気さくに話しかけてくれる領民達も、ハンナと二人で歩いていると、態度が全く違うのだ。

 まるでハンナの父親のような。

 そして愛娘が恋人を連れてきた時のような。

 そんな視線だった。

 しかし、イムレの隣で嬉しそうに笑うハンナを見ると、イムレはどうでも良くなっていった。

 そんなハンナに連れられて、紅の森に入ってからはもっとあからさまだった。

『ガルルルル』

牙を剥き、イムレに威嚇の姿勢をとっている魔物と、その魔物を撫でながら満面の笑顔を見せるハンナ。

「イムレ様!この子はイムレ様が倒れていたのを助けてくれたんですよ。」

けど今度は殺してきそうな勢いです。

とは言えず、イムレは必死に笑顔を作っていた。この魔物だけでなく、至る所から殺気を感じる。きっと草陰に多くの魔物が隠れていて、こちらを睨んできているのだ。

正直、ハンナのそばを離れたら命が危ない気がする。

「あ。後ですね、確かこの辺りにいつもいるあの子もおっ!!!」


ズルっ!


鈍い音と共にイムレの前からハンナの姿が消えた。

「……ハンナ様?」

ハンナは地面に倒れていた。

「お……お恥ずかしいところをお見せしてしまいました……。」

と恥ずかしがるハンナの顔には泥がたくさんついていた。

「はは。ハンナ様はおっちょこちょいですね。」

イムレはハンナの顔に触れて、泥を拭った。その優しい手つきに、ハンナはくすぐったい気持ちになった。

「気をつけているつもりなんですが……。」

そう言って立ち上がろうとしているそばから、ハンナはまた転けようとした。

イムレは咄嗟にハンナを抱き止めた。

「慌てないで。ゆっくりでいいんですよ。」

「ありがとうございます。」

顔を赤く染め、両手で顔を隠した。

「目が離せない方ですね。」

イムレの鍛えあげられた逞しい腕に抱きとめられ、そして優しい瞳で見つめられて、ハンナはさらに顔を赤くした。

「本当にありがとうございます。」

ハンナはイムレの腕に支えられて立ち上がった。ゆっくりと離れていくイムレの腕を名残惜しく感じていた。

「最初は何故ハンナ様のような若い女性がロートヴァルト辺境伯に、と思いましたが、今日一緒にいてそれがわかった気がします。」

「え?」

ハンナはイムレを見つめた。

優しい顔立ちに金髪碧眼の絵に描いたような王子様であるジクフリードは、誰もが讃える美貌の持ち主だった。しかし、ジクフリードとは違う鍛えられた肉体、鳶色の瞳に、黒い髪のさわやかな印象のイムレも、一般的にはカッコいい部類に入るのだろう。

 そんなイムレに微笑まれ、ハンナは顔が熱くなっていった。

「こんなに領民に好かれた貴族というのも珍しいと思います。」

「そんな……。領民は、両親を亡くしたばかりの私に同情してくれているんです。辺境伯としては力不足な私をとてもよく支えてくれて……。私も何か彼らに返さなきゃと思うんですが、どうしても空回りしているようで。婚約者にも婚約破棄されてしまいましたし。」

「は?婚約破棄?」

イムレの声が急に険しくなった。

「はい。つい数日前に、婚約者だったはずのジクフリード様に王妃にはふさわしくないと振られてしまいました。」

ハンナは力なく笑った。

あの日はとても悲しい気持ちだったのに、今は全く気にならない。

ーー……今まで忘れてた。

魔王の復活という大事件もあったせいで婚約破棄された事をすっかり忘れていた。今思い出しても、あまり悲しくない。

「みる目のない方だ。」

真面目な表情で、ハンナを見つめてくる。その真剣な眼差しに、ハンナは鼓動が早くなっていった。こんな気持ちをジクフリードにも感じたことはなかった。

ーーそっか。私、ジクフリード様のこと、異性として好きでも何でもなかったんだなあ。

その時、ハンナは気づいたのだった。

幼馴染みとして、一人の友人としてジクフリードと接してきたが、そこに恋愛感情は何一つなかったのだと。

ーージクフリード様も気付いていたのかな。私、やっぱり婚約者失格だったのね。

不甲斐なさと、寂しさと。

いろんな感情が折り混ざり、複雑な気持ちを感じるのだった。

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