第15話 魔王の名前
魔王がハンナの監視の下に置かれることになってから数日が過ぎた。
ロートヴァルトは魔王は復活したというのに、変わらず穏やかな日々だった。穏やかな陽の光がさす中で、領民達は汗水垂らして農作業を行い、お裾分けと言って屋敷に野菜を持って来てくれる。
「あら今日も、もふもふねえ。」
そう言って魔王をわしゃわしゃと掻き回して帰っていく。もしかしたら、それが目的ではないかと思うほどだ。
そんな時、ある領民がハンナに問いかけた。
「この子、何か芸はできねえのかい?」
◆
「お座り。」
「もきゅ」
「お座りだよ〜お座り〜。」
ハンナはおやつを片手に、魔王に手取り足取りお座りを教えていた。しかし、なかなかうまくいかず、魔王は尻尾を振っておやつを貪っていた。
満足そうにハンナの手をぺろぺろ舐める魔王に、ハンナは苦笑するしかなかった。
「もきゅもきゅ!」
魔王はハンナの後ろにある大きなお菓子の袋に向かって鳴いた。新しいおやつを取ろうと袋を手に取ったものの、袋からなかなかお菓子が出てこない。
ーーなくなっちゃったかな?
首を傾げながら袋をひっくり返してみると、袋の底の方にまだ残っていたようである。ハンナの顔に大量のお菓子が落ちてきた。
たくさんのお菓子に魔王は尻尾を振ってくるくると駆け回って喜んだ。
「何やってるんですか?ハンナ様。」
「わ!イムレ様!」
いつの間にかハンナの後ろにはイムレが立っていた。イムレはハンナに微笑みかけ、そして小さな尻尾を一生懸命振ってイムレを見上げている魔王へと視線を移した。
「きゅんきゅん。」
愛想良くイムレに擦り寄り、鳴き声をあげる。
イムレは魔王の頭を撫でた。びっくりするほどふわふわの毛並みで、イムレの手はみるみる吸い込まれていく。触っているのかどうかも分からない柔らかな毛にイムレは目を丸くした。
「相変わらずただの犬ですね。」
「はい。なので芸を仕込んでみようと思いまして。今お座りを教えているところなんです。」
「お座り……。」
魔王にお座り。
しかし、当の本人である魔王は気にしていないようだ。むしろ、ハンナにかまってもらえて喜んでいるようだ。
「イムレ様はだいぶ元気になられましたね。」
「はい。おかげさまで。」
イムレにはもう傷一つ残っていない。致命傷の傷を負っていたとは思えない回復の速さである。魔王を見張るためここに残っているが、ここ最近はずっとタロウと鍛錬している。夕方になると満足そうなタロウとボロボロのイムレが帰ってくるのだ。
「よかったです。本当に、最初はどうなるかと思ったんですよ。」
「ご心配おかけしました。」
「ふふ。タロウは強いでしょう。」
「はい。本当に手も足も出ませんよ。」
「今は休憩中なんですか?」
「そんなところです。……ところで。」
イムレは下の方へと視線を向けた。それに釣られてハンナも下を向く。
「片付けないといけませんね。」
そう言ってイムレはクスクスと笑った。いつも通りの不運にしても、まさかイムレにその場面を見られていたとは思わず、ハンナは恥ずかしくなって顔を真っ赤にした。
イムレは何も言わずにお菓子を拾い始めた。ハンナもそれに続く。
ーーイムレ様は優しいなあ。
これがタロウだったら嘲笑うだけだろう。屋敷の人たちも大抵見守るだけで何もしてはくれない。「あら今日も元気に不運ね〜。」と見つめているのだ。それが普通になっていたので、手伝ってくれる存在に感動してしまった。
「この魔王、名前はあるのですか?」
お菓子を持つイムレの手をふんふんとかぎ回っては、物欲しそうに見つめる魔王。イムレはそんな魔王がお菓子を食べようとするのを必死に止めていた。
「名前……どうしましょう。」
そう言えば名前を決めていなかった。
「魔王とは呼べませんよね。」
「そうですよね。うーん……。」
ふわふわもこもこの毛並みで、球のようなボディラインの黒い犬。
「真っ黒だからホコリと言うのはどうかしら。」
「えっ。」
ハンナは魔王の見た目からそう提案した。しかし、イムレの反応はあまりよろしくない。
「ホコリは真っ黒ではありませんよ。」
「タロウ!」
いつの間にか二人のそばに立っていたタロウがつっこんだ。その腕の中には魔王がいた。何やら不満げに顔をしわくちゃにしている。
「もぎゅっ。」
今までの天真爛漫な態度からは考えられないような不貞腐れた態度に、明らかに不満なのが伝わってくる。
「嫌みたいですね。」
「ええ?」
「ははは。気持ちは分かりますよ。私がホコリなんて名付けられたら一生恨みますよ。」
「え。」
そこまで酷いとは思っていなかったのか、ハンナはショックを受けた。
「ではすすというのはどうでしょう。」
次はイムレが提案してきた。その提案にハンナは表情を明るくした。
「かわいいですね!」
本気でそう思っているようだ。イムレもハンナも満足そうに話を進めている。
タロウは魔王を見た。
しわくちゃだった顔に、さらに深い皺が寄っている。
「…………もう少し何かありませんかねえ。」
「すす、そっくりじゃないか。」
「もぎゅうぅ。」
魔王はますます不満そうな表情をして鳴いた。顔の皺が増えているのを見て、イムレもハンナも、魔王が納得していないのがわかった。
「タロウはどんな名前がいいと思うの?」
ハンナは問いかけた。もはや二人ではいい案が出ないと思ったのだ。
タロウは口髭を撫でながら、少し考えた。
「モコ、というのはどうでしょう。」
モコ、と呼ばれた魔王は上を向いて、きらきらした瞳でタロウを見た。
「もきゅもきゅっ!!」
そんな魔王の様子にイムレもハンナも「おお!」と感嘆の声を上げた。
「気に入ったみたいね。」
「モコ。可愛い名前だ。」
「もきゅーっ!」
二人に同意するように魔王・モコは鳴き声を上げた。
「じゃあ、今日からモコね。よろしくね、モコ!」
ハンナはモコの小さな足を手に取って、握手をかわすのだった。
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