第13話 卵の中身
ほんの一瞬、光は屋敷全体を包み込んだ。
屋敷にいたほとんどの人は何事もなかったように過ごし、光には気付いていない。光の中心にいたハンナは眩しくて、しばらくぎゅっと力強く目を瞑っていた。
「きゅう。」
何やら可愛らしい声が聞こえてきた。くいくいと洋服を引っ張られ、ハンナはゆっくりと目を開けた。
「もきゅっ!」
足元には、真っ黒なふわふわの毛玉のような小さな生き物がいた。短い尻尾をふりふりと動かして、ハンナを見つめてくる。大きなつぶらな瞳をキラキラと輝かせて、じっとハンナを見つめている。ハンナはそっとその生き物に手を伸ばした。
タロウやメェもふわふわの毛並みをしているが、この生き物は別格のふわふわだった。ハンナに触られて気持ちいいのか、笑っているように見える。そんな表情に、思わずハンナもつられて笑ってしまった。
「ハナ!大丈夫ですか!」
勢いよく扉を開けて部屋に入ってきたのは、タロウだった。
「タロウ〜!」
ハンナはその生物を抱き抱えて立ち上がり、タロウに向かって手を振った。タロウを見た瞬間、心の底から安堵してじんわりと目頭が熱くなる。
一方、タロウは、怪我した様子もなく元気そうなハンナに胸を撫で下ろした。
「ハナ。」
そして小さく「よかった。」と呟いた。
「もきゅもきゅう。」
ふと可愛い鳴き声が聞こえてきて、タロウはピクリと耳を動かした。そして、自然とハンナが抱いている黒い物体へと視線が向かう。
犬。
どう見ても犬である。
真っ黒のもふもふ綿飴みたいな犬。
しかもハンナを母親だと思ったのかもきゅもきゅと鳴きながら甘えている。やはりどう見ても生まれたばかりの真っ黒な子犬にしか見えない。
タロウは一応、念のため、ハンナに問いかけた。
「…………何ですか、それ。」
「え……犬、かな?」
ハンナも抱いている小さな生物を見て、首を傾げた。タロウは大きくて深いため息をついて、眉間を揉んだ。
「また拾ってきたんですか?うちはもうたくさん魔物がいるんですから、拾ってきた場所に返して来てください。」
「違うよ!卵から孵ったの!」
「もきゅ!」
タロウの呆れた様子に、ハンナは反論した。しかし、タロウはもう一度黒い生物を見た。
「犬が?」
「……っ。」
ハンナは何も言えなかった。
普通の犬は卵から生まれない。魔物なのだろうとは思ったが、何の魔物かも全くわからない。人畜無害な見た目も相まって、魔物とも犬とも断定できない。
悩むハンナに、不安を感じたのか黒い生物は悲しそうな鳴き声をあげた。
「もきゅ〜。」
うるうると瞳を潤ませて、ハンナに擦り寄る仕草は、ハンナの心を掴むのに充分な破壊力を持っていた。あっさり心を鷲掴みにされたハンナは、黒い生物をぎゅっと抱きしめた。
「うんうん!君は犬だよね!」
タロウため息ついた。
確かに人畜無害そうな可愛らしい小動物にしか見えない。例え魔物であっても害になりそうにも見えない。
ーーしかし、この子はどこから来たのか。
タロウはハンナの後ろの、卵が置いてあった机を見た。しかし、そこには卵はなく、カケラだけが残っていた。
タロウは、デレデレと黒い生物と戯れるハンナを、じっと睨んだ。
「卵に触りましたね。」
タロウの責める視線に言葉を詰まらせたハンナは視線を泳がせた。しかし何も良い誤魔化し方を思いつくことができず、とりあえず笑って見せた。
それでもタロウはじっと見つめてくる。
ハンナは観念して、口を開いた。
「ごめんなさい。滑って転ぼうとした時につい、触ってしまって……。」
「はあ。」
タロウはもう一度ため息をついた。
呆れたタロウの様子に、ハンナは俯いた。
「本当に、ごめんなさい。」
黒い生物を抱き抱える力が少しだけ強くなる。その様子に黒い生物も首を傾げた。
「いえ。不運を見くびっていた私の落ち度です。」
「え?」
タロウはとても悔しそうにしていた。
「部屋への出入りそのものを禁止するべきだったんです。不運令嬢が転ぶなんて、当然のことなんですから。普通の令嬢と同じに考えていた私が悪かったのです。」
本当に心の底から悔しそうに、「ああするべきだった」「そもそもここに結界を」等、呟いている。とてもとても悔しそうなタロウの様子に、ハンナは狼狽えた。
「え……。え?なんか複雑だよ、タロウ。」
自分のせいでタロウに心配をかけてしまったことを申し訳なく思っていたハンナだが、タロウが予想外の後悔をしていて、内心複雑だった。
しかも、フォローされているというより貶されているような気になる。
「もきゅ」
何も分かっていない黒い生物は、一匹だけ嬉しそうに可愛らしい鳴き声をあげていた。
パタパタと小さな尻尾を振る生物を見て、タロウは思案した。
「とりあえず、メェとイムレ様には報告しましょうか。卵を巡ってここまで来た二人なんですから。」
卵を抱えて紅の森に倒れていたイムレ。
そんなイムレの卵を追って町に入ってきたメェ。
その二人に卵を預かっていると公言したにも関わらず、卵を孵らせてしまったのだ。しかも、生まれてきたのは子犬。二人が期待していた生物とは違っているだろう。
「そうね。二人にも謝らないとね。」
「メェは喜ぶかもしれませんね。」
タロウはひげを撫でながら、黒い生物を見た。何も分かっていないその子だけが楽しそうにしている。
ハンナもその子を見るが、どうも分からない。
「?何で?」
「魔王ですよ、それ。」
「え。」
ハンナは魔王と言われた黒い生物を見た。
小さな尻尾。もふもふの真っ黒な毛並み。その毛並みのせいでどこからが足で、どこからが耳か分からない。まるで丸々とした黒い毛玉のようにも見える。そして大きなつぶらな瞳はキラキラと輝いている。
これが魔王。
ハンナは首を傾げて問いかけた。
「犬だよ?」
「ええ。犬ですね。」
「この子が魔王なの?」
「そうですよ。」
そして、もう一度黒い生物を見る。
どう見ても魔王には見えない。それどころか魔物にも見えない。
「もきゅう。」
黒い生物は何とも間の抜けた愛らしい鳴き声を上げた。
「本当に?」
「ええ。間違いなく魔王です。」
くりくりした瞳、もふもふの毛並み、庇護欲をそそる小さな体。
人々に脅威を与えるとは思えない見た目だが、どうやらハンナは魔王を誕生させてしまったらしい。
◆
イムレは少しの眩しさを感じて目を擦った。何か起きたのか、それとも気のせいか。イムレは辺りを見渡して違和感がないか確認する。
ーー特に、変わった様子はないな。気のせいか……。
「ハナ……。」
部屋の中でイムレを監視していたタロウは、驚いた表情で下の方を見つめていた。それから慌てて部屋を出て行った。そんなタロウを、イムレはただ黙って見つめていた。
ーー何か起きたのは間違いないか。
窓の外には、平和そのもののような平穏で長閑な景色が広がっている。
これがここ、ロートヴァルトの日常なのだろう。
多くの魔物が住む紅の森と隣り合わせの町とはとても思えない。イムレはこの土地に来るまで、ロートヴァルトと聞くと、砦に囲まれた殺伐とした風景を想像していた。しかし、砦はどこにも見当たらないし、血生臭いものとは程遠い長閑な田園風景が広がるばかり。
何が起きたか分からないが、今はこの平和を堪能しよう。イムレはそう思って、ふかふかの布団に身を沈めた。
……そう思っていた時の自分を、イムレは褒めてあげたくなった。
今イムレの部屋には、申し訳なさそうに首を垂れるハンナと、羊と、自称猫の執事がいた。
揃ったメンツを見て、イムレは複雑な気持ちになった。人間の国のはずなのに、人間が少ない。
「あのお……。」
ハンナの視線が泳いでいる。もじもじと手混ぜをしながら、こちらの様子を伺っている。タロウはこほんと、咳をしてハンナの肩を叩いた。ハンナは大きく息を吸い込んで話し始めた。
「あの、ね。二人に報告したいことがあるんです。その……二人があの卵を大事に思っていたのは重々わかっているんです。けど……その……。」
そう言ってまた口をもごもごさせた。
「もきゅもきゅ。」
犬の可愛い鳴き声がして、全員下を向いた。くりくりした瞳をした子犬がらハンナの足元で尻尾をぱたぱたと振っている。メェはその生物を見て勢い良く立ち上がった。
『っ!っ?!魔王様!……え?魔王様?ですよね?』
メェは困惑してハンナと犬を交互に見ている。魔王かどうか自信が持てないようだ。ハンナは困ったように笑ってみせた。
「あの……卵に触ったら、孵っちゃって……。その……生まれてきたのが、この子です。」
「もきゅ!」
まるで返事をするように子犬が鳴いた。
卵を追いかけてきたメェも、卵を守っていたイムレもその言葉に目を丸くした。
かつてロートヴァルトに住んでいた魔王は、勇者、ドワーフ、魔法使い、そして竜族によって倒された。そうして世界は平和を取り戻したのだった。
しかし、魔王は完全に倒された訳ではなかった。長い年月を経て力を蓄え、再びこの世に蘇る時を待っていた。そうしてようやく数ヶ月前に、魔王は卵の姿になったのだ。
「俺は魔王が蘇りつつあるという噂を聞いたんだ。そこで捜索隊が出されて、たまたま捜索隊が卵を発見した。しかしその卵はあまりに危険だと言うことで、俺はその卵を封印するために旅に出たんだ。だが途中で魔物に襲われてしまい、紅の森で倒れていたんだ。」
『私はこの男が魔王様の卵を持っていると聞き、取り返さねばと思い、追いかけていたのだ。』
「そっか……。」
ハンナは遠い目をした。全員複雑な表情をしている。きっと各々、命を賭して重要な使命を果たそうとしていたのだろう。
それほどに強力で危険な力を宿した卵……のはずだった。生まれてきたのは人畜無害なもふもふの子犬。
居た堪れなくなったハンナは深々と頭を下げた。
「本当にごめんなさい。」
「もきゅう。」
ハンナの真似をして、子犬もお辞儀した。
きっと意味はわかっていない。
イムレは犬をじっと見つめた。
「俺が……なんとしても封印しようとしていた魔王が……この、子犬。」
思わずこぼれた言葉には哀愁が漏れていた。
そしてメェもしょんぼりとしている。
『魔王様……。』
その声の力はとても弱々しかった。
「まあ仕方ない。俺はとりあえず様子を見たいと思う。今の姿はただの魔物だし。」
イムレは頭をかきながら、ため息をついた。
『魔王の素質を持っていても魔王になれる訳ではない。私も様子を見るとしよう。』
メェも頷いた。
話がまとまってきたところで、タロウが一歩前に出た。
「それではこの子犬は、とりあえずロートヴァルト辺境伯の預かりということでよろしいですね。」
そんなタロウの言葉にイムレとメェの二人は頷いた。異論はないようである。そしてハンナも胸を撫で下ろすのだった。
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