第9話 イムレ

 男性が目を覚ましたのは、あれから数日後のことだった。

 微かに漂ってくる優しくて美味しそうな香りに誘われて目を覚ましたのだ。

「ここは……どこだ。」

 どこもかしこも痛みを感じるが、男性はゆっくりと体を起こした。そして、見慣れない部屋を見渡した。必要最低限の家具しか置かれていない。しかしベッドは手入れが行き届いておりとても気持ちが良い。

 ふと自分の体を見ると、丁寧に包帯が巻かれており、しっかりと怪我の手当てもされていた。綺麗な屋敷に的確な処置を見ると、どこかの貴族に助けられたことは想像できた。とにかく此処がどこか確かめたくて、扉の方を見つめる。痛みを堪えて、男性はベッドから出ようと体を動かした。

 するとゆっくりと扉が開いた。

 男性は思わず身構えた。

「あら。目が覚めたのね。」

 明るいベージュの髪色を一つにまとめた、騎士のような姿をしたハンナだった。

 てっきりメイドか執事が来ると思っていた男性は目を丸くした。

「……っ。」

 嬉しそうに微笑むハンナは、手に持っていたお盆をベッドのそばにあるサイドテーブルに置いた。

「待ってて。すぐにタロウに食事を持ってきてもらうから。」

 そう言い残して、足早に部屋を出て行った。男性は怪訝そうに扉の方を見つめていた。そして、ハンナが置いて行ったお盆へと視線を移した。

 コップ一杯の水と、一輪の花をいけた花瓶だった。

 素朴で裏表の無さそうな少女。それが、男性のハンナへの第一印象だった。どうやら悪い貴族に拾われたわけでは無さそうだと少し安堵した。

「お待たせ。」

 ハンナはすぐに戻ってきた。

「……っ!?」

 ハンナの後ろには、もふもふの毛並みのとても大きな猫が付いてきていた。燕尾服に身を包み、執事のような態度を取っている。男性は目を丸くして猫を凝視していた。

 不審そうな視線に気付いたハンナは、嬉しそうに猫を紹介した。

「あ。この子がタロウ。猫だけど、うちの執事なの。」

「初めまして。タロウと申します。元気になられて何よりです。」

 とても丁寧な態度である。

 しかも喋っている。

 とても丁寧な人間の言葉で。

 男性は何が起こっているのか分からず、困惑して自称猫のタロウを上から下へとジロジロと見つめていた。

「ははは。驚くお気持ち分かりますよ。」

 すると今度はそのタロウの後ろから一人の老紳士が現れた。

「安心して下さい。このタロウ、ただの猫ですから。」

 男性は訝しんだ。普通の猫はこんなに大きくないし、人間の言葉も喋らない。しかし、周囲の様子を見ていると、素直にこの自称猫を受け入れている。

「ここは、勇者の国?」

「ええ。ここは勇者の国のロートヴァルト辺境地よ。紅の森で貴方を見つけたの。酷い怪我だったから手当てしていたんだけど。」

「タロウ殿は、魔物?それとも獣人なのですか?」

 タロウは首を横に振った。

「いいえ。私は魔物でも獣人でもありません。ただの猫です。」

 男性はさらに困惑した。

 男性の知る勇者の国は、人間しか住んでいない国である。時たま紅の森から魔物がやって来る以外は、獣人も魔法使いもドワーフも、人間以外は住んでいないはずの国だった。

 しかし、どう見ても目の前の猫は人間ではないし、猫でもない。怪我をして頭がおかしくなってしまったのだろうか、と男性は眉間を押さえた。

「あの、貴方の名前を教えてくれませんか?」

 ハンナは考え込む男性に問いかけた。男性は少し、戸惑い、そして小さく呟くように答えた。

「イムレ。」

「イムレ様、ですね。私はハンナと申します。」

 そう言って、ハンナは手を差し伸べた。

「傷は治っていると思いますが、完治している訳ではありませんので、どうぞゆっくりしていってくださいね。あとで医者が参りますので。」

「助けてくれて、その上色々とご迷惑おかけしてしまっているようで、ありがとうございます。」

 そう言ってハンナの手を握った。ハンナは嬉しそうに満面の笑みになる。嬉しそうなハンナの笑顔につられて、イムレも少しだけ笑みをこぼした。

「イムレ様、ご飯は食べられそうかしら?」

「ああ……。」

 ハンナは扉の近くに控えていたセバスチャンに視線を送った。セバスチャンは一つ頷いて、そっと部屋を出て行った。

「ロートヴァルトという事は、紅の森の管理人と名高いロートヴァルト辺境伯がいらっしゃるのですか。」

「ええ。ここはロートヴァルト辺境伯の屋敷ですわ。」

「それは心強い。ぜひお会いしたいです。」

 イムレは期待の眼差しでハンナを見た。その真っ直ぐな瞳に、ハンナはみるみると赤くなっていった。

「そんな……大した人では……。」

「いえ!この地はとても重要な土地。その土地を数百年大事なく守り抜いているのですから。素晴らしい方です。私は心から尊敬しています。」

 純粋な尊敬の言葉に、ハンナは俯いてしまった。

「どうしました?ハンナ様。」

「こほん。」

 顔を真っ赤にして俯いたままのハンナの代わりに、横にいたタロウが咳払いした。

「こちらが、現在の管理人、ハンナ=ロートヴァルト辺境伯でございます。」

「え……。ハンナ様が?」

 ハンナは小さく頷いた。

 イムレは目を丸くして、口を開けたまま、何も言えなくなっていた。


 「食事をお持ちしました。……おや?」

 しばらくしてセバスチャンが戻ってきた。手にはふわふわのオムレツと野菜スープ、それからコーンフレークののったお盆を持っている。

 部屋を出る前までハンナの嬉しそうな声と話し声が聞こえていたはずなのに、今はしんと静まりかえっている。ハンナは顔を真っ赤にして俯き、イムレはほんのり耳を赤くして、空いた口が塞がらない様子だ。そしてタロウはというと、そんな二人の様子をニヤニヤと楽しそうに眺めていた。セバスチャンは首を傾げてタロウを見た。

「何があったのですかな、タロウ殿。」

「イムレ様はロートヴァルト辺境伯を尊敬していたようで、ハナの前で褒め称えたのですよ。」

「ああ……。」

 普段ハンナは不運ゆえに褒められる事が少ない。愛情の裏返しで揶揄われることはよくあるものの、面と向かって褒められるなんて、恐らく数年ぶりだろう。

 そして、セバスチャンはイムレの方へと視線を移した。イムレはまさかこんな幼い少女が尊敬する辺境伯とは思わなかったし、今も信じられないのだろう。

 セバスチャンは口髭をなで、そしてタロウと一緒に二人を傍観することにした。

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