第6話 魔物
紅の森に接する土地ということもあり、ロートヴァルトに住む領民は少ない。決して小さな領土ではないのだが、人が住む場所はロートヴァルト辺境伯の屋敷近くだけで、他の領地は領民達の畑として利用されている。紅の森の印象が強いロートヴァルトだが、実は国の食料庫とも呼ばれるほど農業が盛んな地方であった。
ハンナはグリちゃんに乗り、穏やかな田園風景が続くあぜ道を少し駆け足で走っていた。遠くから農作業をしている領民が手を振ってくるのが見え、ハンナも手を振り返した。
そんなハンナの姿は、土まみれだった。
「あら?ハンナ様、汚れていないかい?」
男性を助ける際に汚れたのだろう。遠くにいる領民にもわかるほど、ハンナは酷く汚れていた。
「はは。いつもの不運だろ。穴に落ちたか転んだか。どっちだろうな。」
「そうね。私は転んだと思うわ。昨日穴に落ちたから今日は転んだのよ。」
「でも一昨日も穴に落ちていたぞ?おれは穴に落ちたと思うな。」
「まあどっちにしろタロウ様がついてるから安心だわ。」
「ああ。タロウ様がついてる。」
そう言って農作業をしていた夫婦は、グリちゃんに乗って走り去るハンナと、もっちりボディからは考えられないほど軽やかに走るタロウを温かく見守っていた。
「あれ?ケルピーさんもいるね。」
「誰か担いでないか?」
いつもとはちょっとだけ違う様子に夫婦は顔を見合わせた。
「何か……あったのかしら?」
「まあハンナ様がいれば紅の森は安心だし、タロウ様もついてる。何とかなるさ。」
「そうね。不運だっていつものことだしね。」
そう話して、走り去る三人の姿を見送るのだった。
森の近くにある田園地帯を抜けると、人々が住む小さな町が見えてくる。そこがロートヴァルト唯一の人が住む地域である。
どこまでも続く田園地帯に囲まれた小さな町は、大きなレンガの門によって守られていた。その門をくぐると、木枠組みの家々が立ち並んでいた。ところどころにビアガーデンや店があり、そこでは領民達が楽しそうに話をしていた。決して騒がしくはないが、賑やかで温かい町の雰囲気が漂っている。広いレンガ道を走ると、大きな広場にたどり着く。そのすぐそばに、この土地を治めるロートヴァルト辺境伯の屋敷があるのだ。
屋敷に戻ると、すぐに老紳士の執事が出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、ハンナ様。」
「ただいま、セバスチャン。」
泥だらけのハンナの姿を見てもセバスチャンは表情一つ変えなかった。近くにいたメイドに視線を送ると、メイドもこくりと頷いて静かに下がっていった。
「セバスチャン、急いで彼の手当てをしてちょうだい。」
ハンナは後ろのピーちゃんへと視線を移した。セバスチャンもピーちゃんの方を見ると、傷だらけの男性にぎょっとした。
「かしこまりました。ピーさん、部屋まで運んでもらえますか。」
「ああ。」
ピーちゃんに担がれた男性をじっと見つめ、セバスチャンは重々しくハンナには報告した。
「かなり酷い怪我です。もしかしたら……。」
「そんな……。」
「とにかく全力を尽くします。」
「お願いします。」
セバスチャンとピーちゃんに運ばれる男性を見送って、ハンナはため息をついた。
「安心して下さい。きっと彼なら大丈夫です。」
「ありがとう、タロウ。」
そしてタロウが抱えている卵へと視線を向けた。
「タロウ、その卵って、何の卵かわかる?」
「いえ。何の卵かはわかりません。ただ。」
いつになく重々しく話すタロウに、ハンナは不安を覚えていた。
タロウは真っ直ぐにハンナを見つめ、懇願するように話した。
「ハナ、決してこの卵に触れないで下さい。」
「ハンナだってば。」
ハンナは頬を膨らませた。しかし、タロウはため息をついて、頭を下げた。
「お願いです。約束してください。」
いつもと違うタロウの様子にハンナも折れた。
「分かった。」
タロウはぽつりと呟いた。
「きっと……触れなければ、何の害もない卵ですから。」
その声は近くにいるハンナにも聞こえないくらい小さな声だった。
タロウはぱっと顔を上げ、にっこりと笑った。
「屋敷に入りましょう。疲れたでしょう。」
「そうね。」
いつもと変わらないタロウに戻っている。
けれど逆にその様子がハンナには違和感を持たせるのだった。
屋敷に入ると、セバスチャンがこちらに向かって来ていた。
「セバスチャン!」
ハンナは思わずセバスチャンに駆け寄った。
「彼の様子はどう?」
そして恐る恐る問いかけた。
「今のところは大丈夫かとを生きているのが不思議なくらいの怪我ですが。」
「そう……。」
大丈夫という言葉にハンナは胸を撫で下ろした。そんなハンナの様子にセバスチャンはくすりと微笑んだ。
「ハンナ様、紅の森の見回りご苦労様でした。」
そしてそっとタオルを差し出した。タオルを見て、ハンナはようやく自分が泥だらけだと思い出した。
「すっかり忘れてたわ。ありがとう。紅の森は今日も平和そのものだったわよ。」
とても平気だったとは思えないほど汚れているし、怪我人を運んできたばかりだと言うのに、その言葉を信じていいものか。疑問に思ってもセバスチャンは何も言わなかった。
「紅の森が魔王の森なんて、今も信じられないわ。」
ハンナはそう呟いた。
確かに、紅の森に魔王が住んでいたのはもう何百年も前の話である。それでも数年前までは町に魔物が現れることもあった。大きな戦いこそないものの、中央都市に魔物が現れることもあったのだ。魔王はまだいないが魔物は襲ってくる。そのため、国王でさえ、魔物が多く住むこの紅の森を警戒している。
そんな紅の森を平和だと評するのはきっとハンナくらいだろう。
「ハンナ様が魔物と仲良くされるようになってから、このロートヴァルトもとても平穏になりましたよ。」
魔物は忌み嫌われ、恐れられている。
それは今も変わらない。
しかし、ハンナは違った。
幼い頃からよく動物に好かれていた。成長すると、さらに魔物にも好かれるようになった。最初こそ屋敷の従者達やハンナの両親も驚いたものの、ハンナに懐いた魔物が無害でとても友好的で、さらには人間に協力して手伝ってくれるようになるのを見て、従者も領民も魔物を受け入れるようになっていった。
その頃からだろうか。魔物がロートヴァルトを襲うことがなくなったのは。
長くロートヴァルト辺境伯に仕えるセバスチャンも、感慨深い思いをしていた。
ふと、セバスチャンはハンナの横にいるタロウを見た。
「おかげさまで、魔物がこの屋敷に仕える日が来ようとは。思いもしておりませんでしたが。」
「セバスチャン様、私は魔物ではありませんよ。いたって普通の猫です。」
「ははは。タロウ殿は普通の猫をご存知ないようだ。」
常に笑顔を崩さないポーカーフェイスのセバスチャンに、タロウは肩を落とすしかなかったのだ。
ハンナはセバスチャンに付き添われ、部屋へと戻っていった。タロウはハンナを見送った後、怪我した男性が運ばれた部屋へと向かった。
入口近くにある客室、そこが男性に用意された部屋だった。タロウはノックして、静かに扉を開けた。
「おやタロウ様。」
部屋の中には、ロートヴァルト家に仕える医師が男性のそばに座っていた。
「彼の様子はどうですか。」
タロウは医師の横に立ち、男性を覗き込んだ。
「死んでも可笑しくない大怪我なのに生きているのだから驚くし、とにかく手当はするものの治りは早いし。驚くばかりです。この様子なら大丈夫でしょう。」
そう言って、医師は男性の腕をタロウに見せた。大きく深い切り傷があったはずだが、傷口はすでに塞がっていた。
タロウは男性の腕を優しく撫でた。均等についた筋肉が、彼の作り上げられた体を物語っている。
しかし、タロウはしかめっ面をして、
「また厄介なものを持ち込みましたねえ。」
と言ってため息をつくのだった。
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